朝鮮の家族制度
(1)名前の構成
本貫+姓+名の三要素で構成される。
朝鮮の場合、「氏」ではなく「姓」となっており、氏名ではなく、姓名。
「創氏改名」の「創氏」は字の如く、氏を創ることであり、朝鮮には
無かったものを法令によって、つくったもの。
(2)朝鮮本来の家族制度(3つの原則)
「姓不変」 = 人の姓は一生変わらない。結婚しても元の姓のまま
「同姓不婚」 = 同族の者同士は結婚しない
「異姓不養」 = 同族でない者は養子にしない
創氏改名とは
(1)創氏改名の基本
朝鮮社会における男系の血統による「姓」を日本式の家の呼称で
ある「氏」に変えることで、「日本式の家制度」を確立し、法律上の
「本名」は朝鮮式の「姓」から、日本式の「氏」へとすべての朝鮮人が
強制的に改めさせられた。
(2)創氏改名の制度
創氏改名とは、「創氏」と「改名」のことで、「創氏」は先述した朝鮮式の
「姓」から日本式の「氏」に変えることである。
朝鮮は伝統的に夫婦別姓で、日本は明治から夫婦同姓。
つまり、朝鮮の家族制度を根本的に変える制度であって選択的夫婦別姓の
ように任意ではなかった。
創氏には、以下の2つの制度がある。
◆法定創氏 =「氏設定届」を出さなければ、従来の姓(金、朴など)が
そのまま氏に変えられる。
◆設定創氏 =「氏設定届」に新たな氏を設定し届け出た場合。
(3)設定創氏の決め方
〔1〕他で用いられている朝鮮の姓を氏にすることはできない。
制令第20号第1条第2項
「自己の姓以外の姓は氏として之を用ふることを得ず」
〔2〕「姓+姓」の氏、「本貫+姓」の氏は禁止。
例:「姓+姓」(朴李、李金)、「本貫+姓」(安東金、金海金)
〔3〕日本にある苗字にならうのではなく、姓・地名・本貫などからつける。
例:金姓なら、金子、金井など、従来の姓を利用
〔4〕二字制の氏を設定
新聞、ラヂオ、パンフレット、講演、精神総動員を通じ内地人式の氏即ち
二字制の氏を設け得るものにして日本既存の氏を踏用せしむる趣旨に
あらざること
(朝鮮総督府法務局民事課「朝鮮に氏制度を施行したる理由」
1940年2月、19頁)
内地式氏を推奨する朝鮮総督府
大邱地方法院が出した創氏を督促するチラシ(Wikipedia収録)
「姓」が「氏」になること、妻や子の妻が「同姓」になること
内地式氏を推奨していることがわかる。
他にも、朝鮮総督 南次郎の談話や朝鮮総督府法務局長通牒で
内地式氏が推奨されているのが確認できる。
朝鮮総督 南次郎の談話
創氏改名の実施にあたり、朝鮮総督府法務局が出した「氏制度の解説」の
巻頭に寄せられた「司法上に於ける内鮮一体の具現」と題する談話。
朝鮮総督府法務局長通牒
1940年1月26日付総督府法務局長通牒で、次のような見解が出されている。
このように、日本既存の氏ではなく、日本風の氏のみが認められていた。
(5)改名
裁判所による許可制で、手数料が必要。「名変更許可申請」という。
制令第20号第2条
「氏名は之を変更することを得ズ 但し正当の事由ある場合に於て
朝鮮総督の定むる所に依り許可を受けたるときは此の限りに在らず」
とあり、この正当な理由が以下に説明がある。
このように、改名は任意で、日本風の創氏を行うことが前提だった。
また、1941年10月時点での改名率は11.4%だった。
(第79回帝国議会説明資料)
名前を変えなかった朝鮮人もいる
「強制ではなかった事例」としてよく言われるのが、日本陸軍にいた
洪思翊(ホン・サイク)中将だが、「洪」という姓が、自動的に「氏」と
されている。(法定創氏)
また、彼の妻は「趙」という姓だが、「洪」に自動的に変えられている。
このように、名前を変えなかったからといって、強制ではなかったとは
いえない。
創氏の届出状況
1940年2月11日から8月11日までの6ヶ月間にわたって、氏設定届の受付けが行われ、届出は戸主にのみ権利があり、当時の朝鮮の総戸数は約400万戸だった。
朝鮮総督府法務局「第79回朝鮮総督府帝国議会説明資料」によると
月別ごとの届出件数(累積)は以下になる。
2月 15,746 (0.4%)
3月 61,579 (1.5%)
4月 157,074 (3.9%)
5月 500,840 (12.5%)
6月 1,081,564 (27.0%)
7月 2,153,393 (53.7%)
8月 3,220,693 (80.3%)
創氏の届出開始から、5月までは12.5%に過ぎず、残りの3ヶ月で
急激に伸びているのがわかる。
強制の事例
最初は強制ではなかった。
朝鮮民事令改正公布(1939年11月10日)に際しての南次郎朝鮮総督 談話
1940年3月5日総督府局長会議 南次郎朝鮮総督の発言
ところが、4月になると
南次郎朝鮮総督が4月23日の道知事会議で次のような事を訓示している。
地方法院長への指示文書(全戸数の氏届を完了せよ)
「全戸数の氏届出を完了する」ための特段の配慮となると、完全に任意
だったとはいえない。
創氏を非難しただけで、逮捕された
1940年5月9日付(京城日報)
創氏を煽る記事
1940年6月18日付(京城日報)
任意のはずだが、届出の割合が低いと、汚名なのか。
こんな風に地区ごとに競わせていたのがわかる。
また、開城公立商業学校では「内地人式の氏を強要している」ため
父兄から反発を受けていることを報告した警察文書もある。
(朝鮮総督府警務局「昭和十五年 氏制度ニ於ケル民心動向ニ関スル書類」)
さらに、上記のような「強制」に関して、質疑応答した当時の資料が
以下である。
朝鮮教育令中改正ノ件(1941年3月19日 枢密院会議の議事録)
原文:国立公文書館アジア歴史資料センター Ref. A03033794700
石塚顧問(二十五番)の質疑
秋田拓務大臣(八番)の答弁
石塚顧問(二十五番)
貴族院速記録 1943年2月26日
第81回帝国議会 貴族院 予算委員第三分科会
(内務省、文部省、厚生省) 第2号 昭和18年2月26日
帝国議会会議録検索システム 国立国会図書館
水野錬太郎の質疑
田中武雄 朝鮮総督府政務総監の答弁
このように、当時から、強制を疑われ、強制の事例を否定できない事実が
あったことがわかる。
まとめ
◆創氏改名は朝鮮の家族制度を強制的に変更させる制度
◆朝鮮総督府 南次郎は内鮮一体を推し進めるために
創氏改名を実行した
◆任意だった当初は、氏届出は低いが、朝鮮総督府の強い奨励が
あったため、氏届出が急激に伸びた
◆氏届出が急激に伸びる過程で、強制の事例があった
◆枢密院会議や帝国議会でも、強制の事例を疑われており
認めている