タジキスタン 3of 5

さて、漠々として不可知なタジキスタンという国を数行で鳥瞰してみると、

国土の9割が山脈地帯で、灌漑)地は7%。人口は800万人で、人口の3分の2が農業に従事する。出稼ぎ労働者は100万人、出稼ぎ先は主にロシア。出稼ぎ労働者が国内総生産(GDP)の半分を占める。

首都はドゥシャンベで、標高700mに位置し、緯度的には日本の仙台あたり当たる。

 

タジキスタン共和国、通称タジキスタンは、中央アジアに位置する共和制国家である。タジク(ペルシア語ではタージークtājīk)の語源は明らかではないが、中国唐朝イスラム帝国を指した「大食」(タージー)と同じで、元はペルシア語で「アラブ人」を意味した語であると言われ、後にアラブ人からイスラム教を受け入れたペルシア・イラン系の人々のことを指すようになったとの俗説もある。

また、タジクは、「王冠」をも意味し、単純には「冠の人たちの国」となり、現在でもタジキスタン国内で国名の由来を説明するときに用いられるのが通説である。

タジク人たちは遊牧をしていたアーリア系スキタイ遊牧民である。タジク人たちはテュルク人たちと住み、多くの遊牧民に遊牧の文化を伝えた。

 

首都のドゥシャンベの人口は約70万人。

この都市名はタジク語で「月曜日」という意味である(元々はペルシア語に由来し「土曜日の二日後」の意味)。月曜に市場が開かれた村から急成長したためである。

1961年までは、「スターリンの町」を意味するスターリナバード(Stalinabad)という市名であった。

中央アジアのソビエト連邦領が民族境界によって各共和国に区分されると、1929年にドゥシャンベの一帯はタジク・ソビエト社会主義共和国となり、その首都に指定され、スターリンにちなんで「スターリナバード」となった。

1961年ニキータ・フルシチョフスターリン批判で、ドゥシャンベの名に戻された。

 

199年旧ソ連邦の崩壊に伴って独立した国で、南にアフガニスタン、東に中華人民共和国、北にキルギス、西にウズベキスタンと国境を接する。

国土のほとんどは山岳地帯で、国土の半数が標高3,000m以上であり、中国との国境に至る東部は7,000m級に達するパミール高原の一部となっている。

首都のドゥシャンベの標高は700~800mほどとそれほど高くなく、北西部のフェルガナ盆地は標高300~500m前後と最も低くなっており、ウズベキスタン、キルギスと入り組んで国境を接している。

一方、パミール地方のゴルノ・バダフシャン自治州の州都ホログは標高2,000mを超す。

最高峰はイスモイル・ソモニ峰(7,495m)、次いでレーニン峰(7,130m)、コルジェネフスカヤ峰(7,105m)と3つの7,000m級の山がある。

主要河川は、アムダリヤ川ヴァフシュ川パンジ川、バルタン川、ザラフシャン川(旧ソグド川)がある。。

 

民族的には、2010年センサスの時点で、主要民族タジク人(84.3%)が占める。

その他、ウズベク人(13.8%)、キルギス人(0.8%)、ロシア人(0.5%)が次ぐ。

なお、ロシア人の人口は1959年に全人口の13.3%、ソ連からの独立前の1989年時点では7.6%を占めていたが、1990年代の内戦により大部分が流出し2010年には0.5%にまで低下した。

 

人名は、ソ連時代の名残りでロシア語風の姓が多く見受けられるが、2009年からロシア語が公用語での使用を廃止されるに至り、現在はロシア式の接尾辞を取り去った形のタジク語風の姓名あるいはタジク語そのものの姓名を用いる世帯が増加しつつある。

 

言語は、チュルク系の言語が使われている中央アジアの中では唯一、住民の大多数の母語がペルシア語方言のタジク語であり、公用語となっている。帝政ロシアソ連邦時代の共通語であったロシア語第二言語として教育・ビジネス等で多く使用されている。

ただし、2009年10月から国語法が成立し、公文書や看板、新聞はタジク語を用いることを義務付けられた。それに伴い、違反者には罰金が科される。

ソ連崩壊後に起きたタジキスタン内戦によるロシア人の大量流出によりロシア語の通用度が急激に低くなったが、現在では出稼ぎ先の大半はロシアであることと、高等教育にはロシア語習得が不可欠であることから、ロシア語教育も重要視されつつあり、国民の間ではロシア語学習熱が強い。

また、独立後にトルコ語系のウズベク語トルクメン語キリル文字からラテン文字へ変わったが、ペルシャ語系のタジク語はキリル文字のままである。

なお、ペルシャ文字風のキリル文字表記もみられ、ペルシャ文字への表記への移行も議論されている。

また、他にウズベク語、キルギス語、コワール語シュグニー語パミール諸語ヤグノビ語なども使われている。

 

宗教は、タジキスタン国民の多くはムスリムであり、スンナ派が大半を占める。また、歴史的にペルシャとの結び付きが強く、哲学者イブン・スィーナーなどのペルシャ人は尊敬されている。その他、ダルヴァーズ郡、ヴァンジ郡並びにムルガーブ郡を除くゴルノ・バダフシャン自治州では、服装・戒律とも極めて緩やかで、開放的なシーア派イスマーイール派が大多数を占める。

イスマーイール派のリーダーは「アーガー・ハーン」の称号を用い、宗教的指導者よりも、精神的・思想的指導者としての面が強く、国境を跨いだアフガニスタンとタジキスタンのイスマーイール派の居住する地域と周辺部では、ビジネス及び人道的支援の両面にわたる社会的事業を展開している。

 

 

ここで、長くなりそうだが、この国を歴史的に遡ってみよう。

紀元前2000年から紀元前1000年の半ばまで、現代タジキスタン領内のアムダリヤ川とシルダリヤ川の流域には、東イラン系民族が定住していた。

現在のタジキスタンの領土に相当する地域は、古代より最盛期のアケメネス朝ペルシア帝国の東部辺境としてギリシア世界に知られ、様々な民族の往来・侵入・支配を受けつつも果敢に反撃し、パミール高原を境とする中国インドアフガニスタンイラン中東の結節点としての文明の十字路たる地位を確立してきた。

この反撃の過程ではスピタメネス(タジク語では「スピタメン」)を輩出した。

同時に山岳地域は被征服民族の“落武者の隠れ里”として、各地のタジク語諸方言だけでなく、ヤグノビ語シュグニー語、ルシャン語(英語)、ワヒ語などのパミール諸語(英語)を話す民族を今日まで存続させてきた。

 

7世紀イスラーム教徒のペルシア征服の後、8世紀に西方からアラブ人が到来し、イラン系の言語を話していたこの地域の住民たちの多くはイスラム教を信奉するようになり、9世紀には現在のタジキスタンからウズベキスタンにかけての地域で、土着のイラン系領主がブハラを首都にサーマーン王朝を立てた。

しかし、サーマーン朝は同地域でのタジク系最後の独立王朝となる。

やがてテュルク民族が到来すると、タジキスタンとウズベキスタン、アフガニスタン、イランなどにかけて広く居住するイラン系の言語を話すムスリム(イスラム教徒)定住民たちは都市部においては侵入してきたテュルク語系諸民族と混住し、テュルク系言語とイラン系言語のバイリンガルが一般的となり、双方の民族とも民族としてのアイデンティティは低く、例えばタジクという呼称よりも、出身地により自らを「サマルカンド人」や「ブハラ人」などと呼ぶなど、出身都市や集落に自己のアイデンティティを求めることが多かった。

 

アングロ・ペルシア戦争(1856年-1857年)後にパリ条約が締結されると、ガージャール朝ヘラートから手を引いた。

19世紀ロシア帝国では軽工業を基幹とする産業革命が進行していたが、1860年代前半に勃発したアメリカ南北戦争の影響から、それまでアメリカ合衆国南部奴隷制プランテーション農業によって生産されていた棉花の値段が上昇したため棉花原料の確保が困難となった。

そのため、ロシア帝国では「安い綿原料の確保」ばかりでなく、「大英帝国による中央アジアの植民地化阻止」及び「平原を国境とすることの危険性」といった観点から、中央アジアへの南進及び領土編入・保護国化が進められ(グレート・ゲーム)、1868年にブハラ・ハン国はロシアの保護国となった。

20世紀初頭のオスマン帝国1904年から1905年にかけての日露戦争での日本の活躍をほとんど注目しておらず、むしろロシアと敵対関係にあったブハラ・ハン国の政府に支援されたブハラからの留学生が留学先のドイツ帝国の首都ベルリンでロシアが日本に敗れたことを知ったという。

その留学生らがブハラ・ハン国とその同盟国たるオスマン帝国に知らせているが、日本の近代化の原動力を明治維新だと知ると、同じような自由主義革命の気運がガージャール朝ペルシア1906年から始まったイラン立憲革命)やオスマン帝国(1908年から始まった青年トルコ人革命)に拡大した。

しかし、ロシアの力が余りに強大だったウラル山脈地域や中央アジアでは社会主義革命民族自決のための希望を見出した。

ロシア革命の影響を受けたブハラ青年らは保守的なブハラ・ハン国を倒壊し、1920年ブハラ人民ソビエト共和国を打ち立てた。

 

しかし、1924年ソビエト政府は中央アジアの各自治共和国を民族別の共和国に分割統治再編する「民族境界区分」の画定に踏み切る。

ここに於いてそれまでテュルクの定住民とまとめて「サルト」と呼ばれてきたイラン系のタジクたちが、タジク民族として公認されるとともに、ブハラの東部とトルキスタン自治ソビエト社会主義共和国の南部が切り分けられて現在のタジキスタンの領域にタジク自治ソビエト社会主義共和国が設置された。

このように、中央アジア地域ではナポレオンフィヒテの唱えた西欧型民族自決の言葉と引き換えに、本来の民族共生というアジア的な優れた生き方を少なくとも政府のイデオロギーレベルでは失うことになった。

本来は中央アジア諸国が一団となれば巨大な経済圏となるはずであったのが、結果的に諸国の分立と少数民族と多数派民族とのあらゆる格差を生み出すことになったのだ。

 

以上のような考え方はタジクへもたらされたものの、第一次世界大戦後のトルコ革命後にパミール地方へ逃れたエンヴェル・パシャ将軍らが唱えた「汎テュルク主義」はロシアとの対立を望まないケマル・アタチュルク率いる新生トルコ共和国により却下された。

反ロシア・反ソヴィエトのバスマチ抵抗運動は旧地主・支配階層による抵抗運動の枠を超えられず、中央アジア諸民族の結束力の弱さを体現している。

この旧地主・支配階層は、その後アフガニスタンに逃れ、一部は湾岸諸国やイラン、或いは西欧に亡命して現在に至っている。

 

一方で、1929年、タジクはウズベク・ソビエト社会主義共和国から分離し、ソビエト連邦構成国のひとつタジク・ソビエト社会主義共和国に昇格した。

ソ連時代のタジク・ソビエト社会主義共和国は、スターリン批判後の中ソ対立の文脈で1969年に発生した珍宝島/ダマンスキー島(アムール川の支流ウスリー川の中州)をめぐる中ソ国境紛争の調停の結果、タジキスタンの東部パミール地域にあるゴルノ・バダフシャン自治州にあるムルガーブ県の一部領土が中華人民共和国に割譲されるなど、中央政権にとってのタジキスタンのパミール地域は「削られても痛くない辺境地域」として見放されていたようだ。

 

こうして形成されたタジク国家は1990年主権宣言を行い、ソ連崩壊後に1991年に国名をタジキスタン共和国に改め、独立を果たした。

1991年11月、大統領選挙でラフモン・ナビエフが当選し、共産党政権が復活する。

1991年12月21日、独立国家共同体 (CIS) に参加する。ロシアとは同盟関係となり、国内にロシア軍が駐留した。

1992年タジキスタン共産党系の政府とイスラム系野党反政府勢力との間でタジキスタン内戦が起こる。

11月に最高会議(共産党系)はエモマリ・ラフモノフ 2007年4月、自らの姓からロシア語風の接尾辞を取り、ラフモノフから、タジク語風のラフモンに改名した) を議長に選び新政権を樹立し、1993年春までにほぼ全土を制圧した。

1994年4月、国連の保護下で最初の和平交渉が行われるが、タジク人同士の交渉は長期化する。

1997年6月27日、タジキスタン大統領エマモリ・ラフモンとタジキスタン反対派連合の指導者アブドゥラフ・ヌリが、モスクワで和平協定に署名した(今日のタジキスタンは、世界で117番目に承認された独立国家である)。

5万人以上の死者を出した内戦が終わった。エモマリ・ラフモノフ(ラフモンと改名)大統領の就任以来、国際連合タジキスタン監視団 (UNMOT) のもとで和平形成が進められてきたが、1998年には監視団に派遣されていた秋野豊筑波大学助教授が、ドゥシャンベ東方の山岳地帯で武装強盗団に銃撃され殉職する事件が起こった。

UNMOTは2000年に和平プロセスを完了させ、以後は国際連合タジキスタン和平構築事務所 (UNTOP) が復興を支援した。2001年対テロ戦争以来、フランス空軍も小規模ながら駐留している。

 

ラフモン大統領の長期政権によって、上海協力機構に加盟してロシアや中華人民共和国と関係強化し、アメリカとも友好を築き、日本を含む各国の手厚い支援や国連活動によって、21世紀に入ってからは年10パーセント近い成長率を達成している。

和平後のマクロ経済成長は順調で負債も順調に返済していたが、2006年に中華人民共和国が道路建設支援を目玉に大規模な借款を行ったために、タジキスタンのマクロ経済指標の状況はアフリカ諸国並みであり、将来にわたる世界不況に対する不安が残っている。

特に、もともと資源・産業の多様性は乏しい上、所得の再分配がうまく機能せず、国民の大多数は年収350ドル未満の生活を送っている。

旧ソ連各国の中でも最も貧しい国の一つであるが、近年のロシア経済の好転により、出稼ぎ労働者からの送金額が上昇したことから、公式経済データと実体経済との乖離、及び出稼ぎ労働者のいない寡婦世帯における貧困の深化が問題となっている。

 

特に、ロシア語の話せない村落部出身の男性は、ロシアでの出稼ぎ先では低賃金肉体労働しか選択肢がなく、過酷な労働による死亡、AIDS若しくは性感染症の持ち込み、或いはロシア国内での重婚による本国家族への送金の停止など、都市部・村落部を問わず社会的問題は単純な貧困を超えた現象となりつつある。

なお、ロシア語の話せない・・に下線を引いたのは、日本語という家族語しか喋れない日本人を皮肉ったものである。コトバは生きる糧だ。

 

2011年1月12日、タジキスタン下院は、中国との国境画定条約を批准し、パミール高原の約1000平方キロメートルが中国に割譲されることになった。

アフガニスタンへの支援に適してる地政学的重要性からインドが海外軍事基地を設置している。

中国人民解放軍の駐留基地もワシントン・ポストは衛星写真や現地取材などを基に報じている。

 

以上 

次は、4 of 5 に続く


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