グラバーとフリーメイソン

さて、”プロビデンスの目”を内国主義に浸る最近の日本人はご存知であろうか?

プロヴィデンス(Providence)とは、キリスト教の概念で、「すべては神の配慮によって起こっている」という意味である。日本語では、神意、摂理、神、天帝と訳される。
プロビデンスの目(Eye of Providence)とは、が描かれたキリスト教における意匠ゆえ、プロビデンスキリスト教摂理という意味であるから、神の全能の目(all-seeing eye of God)を意味する。光背や、三位一体の象徴である三角形としばしば組み合わせて用いられる。
この目は、元々は太陽のシンボルである丸と、月のシンボルである三日月を合成したものであるのだ。


1ドル札に描かれたプロビデンスの目
1ドルはONEという意味と世界統一という意味を併せて表わしているという。
アメリカの1ドル札の裏面にフリーメイソン( Freemasonry)のシンボルである“ピラミッドと目” を用いた「万物を見通す目」が描かれている。この目が「プロビデンスの目」(神が全てを見通す目)である。
ご存知であっただろうか?
ピラミッド型の建造物の上で、周りを栄光の光によって囲まれる三角形の目で監視するという意味である。即ち、神の目で人類を監視していることを示しているのだ。


ピラミッドに目の「プロビデンスの目」をシンボライズするのはフリーメイソンだけでなく、啓蒙時代のヨーロッパで啓蒙思想家たちが好んで使用した。
したがって、フランス人権宣言の上部にもこのシンボルが描かれているのは、基本的思想が啓蒙時代の思想と根源を同一とするからである。
 

1789年のフランス人権宣言。絵の上部の三角形にプロビデンスの目が描かれている


アメリカ独立宣言はフランス人権宣言を元に作られたが、この人権宣言書にもこの目が描かれている。
そもそもアメリカ独立宣言に署名した56名のうち53名がフリーメイソンだったのである。



アメリカでは、国章の裏面、街や大学の紋章、コイン通貨等のデザインに使用されている。
フリーメイソンの名がいかにポピュラ―なのかを判っていただけたと思う。


ニューヨークの自由の女神
自由の女神は日本人の皆さんご存知だが、遠くから眺めただけで細部を見学し、展望台まで登った人は少ないと思う。
下記に説明しよう、
女神像の足元には引きちぎられた鎖と足かせがあり、これは全ての弾圧や抑圧からの解放と、人類の自由と平等を謳っている。
女神の7つの突起は、7つの大陸と海を表現している。
台座部分にあるエレベーターで10階の最上階に上がり、螺旋階段を登ると王冠部分の展望台に着く。
女神像の台座の礎石には次のように(勿論、英文で)刻印されている。

『この地にて1884年8月5日、「世界を照らす自由の女神」の像の台座の礎石は、ニューヨーク州メイソン団のグランド・マスター、ウイリアム・A・ブロディーによる式典とともに設置された。
グランド・ロッジの構成員ら、合衆国およびフランスの政府の代表ら、陸軍および海軍の将校達、諸外国の使節団の構成員達、並びに名高い市民達が参列した。
この銘盤はかの歴史的事件の第100周年を記念してニューヨークのメイソン団により捧げられる。』とある。

要は、自由の女神像はフランスのフリーメイソンリーからアメリカのフリーメイソンリーに贈られたれたものだ。
製作に携わった者は、フリーメイソンの石工、彫刻家たちであり、像の下にある石版には定規、コンパス、Gを組み合わせたシンボルが描かれている。



一方、日本にもフランスの自由の女神像があるのをご存知であろうか?
1998年4月29日から翌年の5月9日の約1年間、日本に於けるフランス年事業の一環としてお台場海浜公園の設置されていた。
点火式には当時のシラク大統領、橋本龍太郎首相が出席した。
この事業が好評だったので、フランスでオリジナルと同じのブロンズ製のレプリカが2000年に運ばれ設置された。台座からの高さは約11メートル、重さ約9トンである。
ただし、フリーメイソンのシンボルは描かれれていない。
因みに、N.Y.の自由の女神は台座からトーチまでは46メートル、台座は47メートルあり、合わせると93メートル、総重量は225トンである。


困ったことに、日本ではフリーメイソンという言葉を耳にすると、一般の日本人なら誰もがまず眉をひそめる。
ユダヤの陰謀論とか世界制覇の秘密結社などへとイメージが次々に連想させられるからだ。
要は、何だかよくわからない闇の世界で怖いので避けたがる傾向がある。

そもそも‘陰謀’とか‘秘密’という日本語を使うからムラ型性善説志向の日本人には悪いイメージが付き纏うのだ。
これは我々日本人は世界の中で最も ‘善良’ な民族だという潜在意識があるからだ。
世界の中で日本人だけが善人と決込むにはまず他民族を悪人と決込まなければならない。
これを日本国内に置き換えると、自分だけが善人と決込むには隣人含め周りの人は悪人と決込むいうロジックとなる。
今の時代、日本人一人ひとりが、自分が神であり、天上天下唯我独善主義なのだ。
したがって、1億総コメンテイターに化している。

狩猟型性悪説志向の欧米人からすれば、「陰謀も秘密も、何が悪いのか?」となる。
簡単に言えば、騙される方が悪いというのが欧米流の戦略・戦術型発想である。
隣人は生れも育ちも宗教も異なり、肌も髪も目の色も違うのだ。
だから安心・安全に生きるための横の繋がりのクラブや結社が必要となる。
純然たるクラブのためのクラブが必要なのだ。
何々会員クラブのようなヨコ型社会に対し、日本のタテ型のムラ社会には体質的に馴染みが薄いのだ。所属一穴主義であるからだ。
この異質性を島国に住んでいる以上、日本人には到底理解できないであろう。

例えば、犯罪捜査での囮捜査は欧米では正攻法なのだ。
スパイとは正論なのだ、と言うことを日本政府に直訴したい。
ビジネスの戦略・戦術論もコンピューターによるシステム論も全て人を殺傷し合う戦争・闘争から生まれたものだ。いかに効率を高めて敵を数多く殺すかだ。
島国日本の ‘和’ からは ‘平和呆け’ しか生まれない。
村落型性善説ではロシア、中国、北朝鮮に瞬時に蹂躙されよう。

余計なことは知らなくてもいいが、日本人が海外に出て、ある外人さんのホームパーティに招かれ、フリーメイソンの話題に入ったときは、沈黙を余儀なくされる。
多分もう二度と招待されない。
もし招待客にフリーメイソンがいた場合が尚更である。
フリーメイソンは欧米ではエグゼクティブなのだ。名誉ある資格なのだ。
これは私が若い時にU.S.で実際に失敗した体験談である。

換言すれば、それだけ欧米ではフリーメイソンが一般的であり、常識的なのである。

世界のWho’s WhoであるNNBD(Notable Names Database)を覗けば、いかに多くのお偉い方々がフリーメイソンのメンバーであるかに驚くはずだ。
アメリカ歴代大統領のフリーメイソンは、初代のワシントンから38代のフォードまで14人を数える。
太平洋戦争時の32代大統領のF.ルーズベルト、33代のトルーマンもフリーメイソンであった。
マッカーサー司令官もかつての黒船のペリー提督もフリーメイソンであった。
因みに、ペリー提督のフリーメイソンの所属ロッジ(支部)はN.Y.の「ホ―ランドNo.8」であった。

私が勤務していたIBM(海外)にもフリーメイソンが数人いた。役員レベルの方々だ。
フリーメイソンは秘密主義とはいえ、メンバーであれば、自ら公表してもいいのである。
ただし、他のメンバーの名を語るのはタブーである。

一方、日本IBMにはフリーメイソンは一人も存在しなかった、というより全くの無知であった。
したがい、外人がホストのホームパーティにお呼びはかからない。
いわゆるお偉い人でないとメンバーになれないのだ。
日本IBMは社長なら日本では偉い人と扱われるが、グローバルIBMからは組織図では末端の平社員程度に過ぎない。日本IBM社長は、一部長(GM、General Mgr)だからである。
しかし、ムラ社会ではお山の大将で威張れるのだ。

でも安心して欲しい。
あるデータによれば、かつては全世界に約500万人(アメリカに約200万人)もいたフリーメイソン会員数は、近年では約300万人まで減少し、さらに2000年代に入ると約130万人まで激減しているのだ。更に減り続けているという。
理由は、ネット時代にはこうした横の友愛クラブの必要性が薄くなったからである。

フリーメイソンリー(Freemasonry、結社)は「自由」、「平等」、「友愛」、「寛容」、「人道」の5つの基本理念があるが、因循姑息な秘密主義の儀式、階級制度を現在も頑なに保持している。
古色蒼然な儀式が、ネット時代の若い世代に忌避され、世界の各ロッジは概して老人クラブの様相を呈しているのだ。
さらに、同団体の規定では議長のようなは者は存在していないため、集会しても何も進行しない状態が続いているのだという。会員のざわめきだけが会場を埋め、各々が好き勝手に発言している状況という。

そもそも、現代は建築の新技術に押されて、かつての石工の技術を郷愁する時代ではない。
既にネットで新たな会員を募集しているロッジもあるという。
私はいずれ過去の遺物として自然消滅すると推察している。
フリーメイソンリーの上位組織といわれるイルミナティ(Illuminati)の名も同じく忘れ去ることであろう。
それでも極東の隅で日本人だけがいつまでも騒いでいることでろう。

イルミナティ(Illuminati)はラテン語で光に照らされたものを意味し、陰謀論議の分野では元ネタになる横文字である。
そして日本人が好むユダヤ論に繋げるのである。
フリーメイソンをユダヤ系団体や国際金融資本と結びつけてメディアがワイワイ騒ぐのだ。
かつてのオカルト教団のグルと何ら変わらない。

イルミナティ、日本人の好みそうな横文字である。コトバを知っただけで偉くなったような気がしてしまうのだ。
日本のメディアもネタ切れで、こうした横文字で大衆を煽り、視聴率や部数稼ぎに躍起になっているようだ。
一日約60人(変死者を含む)の若者が自殺している事実が日本の現実の課題なのだ!
朝鮮系の俄かタレントを使って井戸端会議をしている余裕はないはずである。


それではまず、フリーメイソンとはどういうものかを概略してみよう。
フリーメイソン(Free Mason、自由な石工)とは、中世期に一定の組合に所属せず、自由に建築関係の仕事を請け負ったフリーの石工である。
中世ヨーロッパでは、城壁や教会などの建築技術はあらゆる分野の技術や文化に精通する必要がある「王者の技術」とされ、職位としての地位が高かった。
また、口伝による技術の伝承についても厳しい掟が設けられた。
これは、日本では宮大工による匠の技術がイメージできるのかも知れない。
ヨーロッパでは伝統的に近世まで彫刻家と石工の区別がなく、同じギルド(Guild、特権的同業者組合)に所属した。

フリーメイソンリー(Free Masonry、石工組合、結社)は、石工の道具であった直角定規とコンパス(Square and Compasses)がシンボルマークとして表わされる。
結社内部の階位制度には「徒弟(Entered Apprentice)」、「職人(Fellow Craft)」、「親方(Master Mason)」の呼称が残っており、それぞれの階級で秘密の合言葉が使われたという。
現在、集会においては、当時の石工の作業着であったエプロンを着用する。

やがて市民革命とともにギルドは解体を余儀なくされ、近代になってマイスター(Meister)制度に形を変えて存続したが、イギリスでは建築に関係のない貴族、紳士、知識人がフリーメイソンリーに加入するようになった。
それと共に、フリーメイソンリーは職人団体から友愛団体に変貌したのだ。

民間人を対象とする国際的な互助組織がない時代だったので、会員であれば相互に助け合うというフリーメイソンリーは、困難を抱えた人間にとって非常に有り難いことであったのだ。
自由博愛の思想を掲げ、特定の宗教を否定することから、カトリック教会などの宗教権力からは敵視された。
とりわけフランス革命の当事者たちの多くがフリーメイソンであったため、しばしば旧体制側から体制を転覆するための陰謀組織とみなされた。
その上、フリーメイソンリーの入会儀式は秘密とされたので、さまざまな好奇心がかき立てられたのだ。
因みに、トルストイの「戦争と平和」でも1810年代のロシアのフリーメイソンの会合の内容が描写されている。

ロッジ(Lodge、支部)とは集会所のことである。

グランド・ロッジ(Grand Lodge、本部)は、多くの場合、国ごとにその国を代表とする本部が置かれ、各ロッジはその下部組織となる。


コンパスと直角定規、及びG

 
これらは、石工を象徴するフリーメイソンのシンボルである。
定規とコンパスは石工職人のギルドだったことの名残である。 上向き三角形(コンパス)と下向き三角形(直角定規)の結合はダビデの星を形成し、男と女、陽と陰、天と地、精神と物質など世界の二元性の融和を表現している。
Gは、God(神)とGeometry(幾何学)を表わし、これらを組み合わせた図版となる。
これは、N.Y.の自由の女神の石版にも刻印されている。
なお、日本でもグランド・ロッジがある港区飯倉のメソニックビル前にそのシンボルの石板がある。

旧東ドイツの国旗にも真ん中に定規とコンパスを組み合わせた図形が描かれていた。
ベトナムのハノイにあるホーチミン博物館には東ドイツから贈られたガラス瓶があるが、
このビンのラベルには定規とコンパスの図柄が描かれている。

高知県の足摺岬にジョン万次郎の立像がある。
左手に何かを握っているのをご存知であったろうか?
それは定規とコンパスである。
アメリカでフリーメイソンに加入できたのだ。



グラバー園のフリーメイソンのシンボル
長崎の洋風の街並みを観光して、グラバー園内の旧リンガー邸横にフリーメイソンの石造りアーチが建っている。
柱頭には、フリーメイソンのシンボルであるコンパスと定規を組み合わせた図形が刻まれている。
こうした意味不明の造形を目の前にして素通りするのも癪に障ることである。

ここには、わざわざ “フリーメイソン・ロッジの石柱” として以下の説明文が掲げられている。

『この門は、松ヶ枝町47(旧小曾根町海岸通り47番)の住宅出入り口の門です。柱頭の彫刻は、
フリーメイソンのマークで石工(メーソン)に使ったコンパスと定規を組み合わせたものです。
使用された石材が開港初期に居留地で盛んに使われた天草石であり、1865年(慶応元年)頃、47番の借地人がイギリス人であったことから、当時イギリスから渡来したフリーメイソンの人々が最初に定着したこの地に彼らのロッジのシンボルとしてマークをかかげたものと思われます。

(注)フリーメイソンとは、中世ヨーロッパの石工職業団体に始まり、それを母体に18世紀初めイギリスで結成され、啓蒙主義精神のもとに博愛・自由・平等を目指す世界的規模の団体です。』
とある。


繰り返すが、「グラバーはフリーメイソンではない」。
要は、小者過ぎて、当時の会員の厳しい資格条件を満たせなかったということだ。
まして、一介の浪人者の坂本龍馬などは論外である。
龍馬的男(人物?)などは現下の巷に溢れている、但し、その夢が蝦夷地の開拓である限りでは。ともかく、まずは出奔だ。


下記のゲラバー園にある定規とコンパスの刻印は、1966年(昭和41)にフリーメイソンのロッジにあったものを長崎市が寄贈を受け、長崎市によって観光目的で移設されたものである。
長崎市もこの事実を認めている。
 


どの地方の観光地でも人口減で劣化中である、地元の話題性ある目玉を捏造までして観光客の誘致に懸命なのだ。そこで日本人の得意の騙しに入るのだ。


なお、このフリーメイソンの門柱を旧リンガー邸横に設置したことは、見学者にリンガーないしグラバーがフリーメイソンであったのではないかという誤解を招くが、彼等はフリーメイソンのメンバーではない。
長崎市が観光客を呼び込もうと1966年(昭和41年)に移動、設置したものである。
とんでもない観光客誘致策である。
園内のガイドがグラバーはフリーメイソンだったと説明しているのだ!
園内のガイドだから、市が「そう説明しなさい」と指導しているのだ。

もし、外国人観光客だったら、当然疑いもなく信じてしまう。
日本人は真面目でウソはつかないと思っているからである。

近年、日本の観光地にはこうしたモニュメントが多いが、ウソは良くない。


日本のフリーメイソンリー
日本人で最初のフリーメイソンは、1864年(元治元年)に留学先のオランダで入会した西周(啓蒙思想家、教育者)と津田真道である(オランダのラ・ベルトゥ・ロッジ No.7)。
以来、戦前までの日本ではフリーメイソンはいなかった。明確な理由は明治20年(1887)に発令された保安条例で秘密結社は禁止されていたからである。
なお、日本に最初に来たフリーメイソンは、1779年に長崎のオランダ商館長として着任したイサーク・ティチングである。
日本で最初にグランド・ロッジが設立されたのは昭和32年(1957)であり、フィリピンのグランド・ロッジ傘下から独立した。
最初のグランド・マスターはベネズエラの外交官であった。
かつての元首相の鳩山一郎がメンバーだったことを‘売り’にしているようだ。

現在、日本には全国的に17のロッジが存在する。
日本での会員数は約1,600人で、多くは在日米軍関係者であり、日本人は約200人という。
しかし、日本での存在感は殆どない
日本のグランド・ロッジ(港区芝公園4-1-3 東京メソニックビル)のHPでは「会員相互の特性と人格の向上をはかり、よき人々を更に良くしようとする団体」とある。
が、具体的な活動内容は非公開である。
主な活動は月に一度の定例会や儀式がある。慈善活動も盛んに行っているようだ。

現在のグランド・マスターは第60代目の猪俣典弘氏である。
メディアには屡々顔を出しているようだ。
日本グランド・ロッジの資料によると、「直角定規やコンパスなどの道具を以て正直さ、思慮、節度」を表すとされており、これらの道具を使うか、それに見立てた何らかの行動を儀式としているとみられる。
こうした詳細は非公開である。

猪俣氏の語りを数点挙げると、
・メンバーになると「参入の儀式」、階級が上る度に「昇級の儀式」がある。
儀式は石工の由来するシンボルを使用して寓意的、象徴的に行われるという。
・フリーメイソンは特定の宗教を超越した“至高の存在”(Supreme Being)を信じ、その神の下での「兄弟愛」を尊重し、自らの信仰と同じく他者の信仰も尊重する。
文化があり、無神論者は入会できない。
・儀式会場の真ん中にある祭壇には聖書、コーラン、仏典など各々が信仰する宗教の聖典が載せられ、宗教ではないが宗教的ではある。
ただし、ロッジ内では宗教の話はしない。

なお、私は猪俣氏がどのような人物かは知らないし、関心もない。
宗教心の薄い日本人が儀式を猿まねしても。似合わない。
神秘性でも訴えてメディアに登場させてもらわないと忘れ去られる時代である。
東北大震災で義援金を拠出したのも販促の一環である。


やっと後半の部分、グラバーの話に辿り着いた。
トーマス・グラバー
トーマス・グラバー(1838-1911年)はスコットランド生まれ。
グラバーはギムナジウムを19歳で卒業後、上海に渡りジャーディン・マセソン商会に入社した。
1859年(安政6)、21歳のグラバーがジャーディン・マセソン商会の上海支店から開港後まもない長崎に主にお茶の商売のために移ってきた。
そして、2年後の1861年にジャーディン・マセソン商会の長崎代理店として「グラバー商会」を設立した。
グラバー商会はHSBC銀行、ロイズ保険等の代理店ともなった。
グラバーは端正な顔立ちであったが、とび色と赤ら顔で赤鬼と綽名されていた。
この頃には、リンガー、オルト,ウォルト、シキュート、クニフレルなど米応の貿易実業家が長崎に集まっていた。

アヘン戦争で大儲けしたジャーディン・マセソン商会の長崎代理人である25歳のグラバーは社費をふんだんに使える、遊郭通いは毎晩、志士たちを自分の家に寝泊まりさせ、軍艦や銃を信用貸しで提供する商談に発展したのだ。

しかし、グラバーは長崎を離れられない、となると2歳年上の坂本龍馬というハングリーな商売好きな男が現れたので、派遣社員的な営業部長で使うことにしたのである。
人生の契機とはある人との偶然の邂逅で決まるものだ。
1864年、グラバー26歳、龍馬28歳の時であった。
なお、この時、グラバー邸には既に五代友厚28歳が寄宿していた。他に桂小五郎、や高杉晋作、中岡慎太郎らもいた。

グラバーは素浪人龍馬とは気が合う、自由人だからだ。
こうして二人は毎晩遊郭通いを始めた、遊興費はグラバーが社費でいくらでもおと落とせるからだ。グラバーには日本語の勉強という口実がある。
龍馬もたかりにたかったが、龍馬はうまく操れていた。。
ただし、赤毛相手の遊女はいわゆる三流であった(赤毛は嫌忌された)。
男同志というものは、飲み代を3回続けて払うと、払った者は後も払い続けるのが義務となり、おごられた方は感謝の気持ちが無くなるというものである。
しかし、金を払う方が指導権を握るなるから、龍馬はグラバーのマリオネット(操り人形)化を余儀なくされた。
しかし、龍馬は世界観が小さい、人物の器を見抜かれていた。
グラバーからすれば、龍馬が訳のわからない北方の蝦夷地の夢を追うからだ。
だから、龍馬と亀山社中はグラバーからは好都合であり、私の商人のダミー以上のものではなかった。
代わりにグラバーが目をつけたのは岩崎弥太郎だった。
男の人脈構築は厳しいのだ。

だが、私が思うのは、龍馬の暗殺はグラバーが仕組んだという一つのシュミレーションがある。
当時の海外に出たイギリス人は須らく海賊魂を有しており、イエローなど犬・猫程度にしか見做していなかった。
切っても寄ってくる邪魔者は殺すしかないのだ。大金が絡んでいたからである。
人間関係は裏の裏を読まねばならない。この魑魅朦朧さを日本人はよく見誤るのだ。

やはりグラバーの最大の功績は、刀を振り回す血気盛んなサムライたちに、資本主義という概念を教え、頭脳を駆使する技術者や資本家に変身させたことだろう。


グラバーのグラバー商会とジャーディン・マセソン商会
ジャーディン・マセソン商会の前身は海賊的な蛮行で悪名の名高かったイギリス東インド会社である。
アヘン戦争(1840年)の仕掛け人の大商社といわれる。
この会社は、スコットランド出身のユダヤ人ウイリアム・ジャーディンと同じくスコットランド出身のユダヤ人ジェームズ・マセソン(カルカッタの貿易商)の共同出資で1832年に中国マカオに設立されたロスチャイルド系の貿易商社である。
主なビジネスはアヘンと紅茶である(同じ畑で栽培されていた)。
1841年にアヘン戦争後に本社を香港に移している。
なお、ジャーディン・マセソン商会は創設から170年以上も経った現在も国際コングロマリット企業として米誌「フォーチュン・グローバル500」にランクインしている。
従業員25万人を擁する世界の大企業である。
現在、香港では香港政庁に次ぐ従業員数を誇っている。
また、HSBC(香港上海銀行)はジャーディン・マセソンなどが香港で稼いだ金をイギリス本国に送金するために設立されたロスチャイルド系銀行である。
アヘン戦争はジャーディン・マセソン商会(アヘン商人)が仕組んだとも言われる所以でもある。
蛇足だが、HSBCは現在のベトナムでも外資系銀行のトップクラスとして根を張っている。

1859年(安政6)ジャーディン・マセソン商会の上海支店にいたイギリス人ウイリアム・ケズィック(ウイリアム・ジャーディンの姉の子)は、「ジャーディン・マセソン商会・横浜支店(英一番館)」を設立した。これが日本に進出した外資系企業の第一号といわれている。
なお、この横浜支店には吉田茂の父吉田健三が支店長を務めている。

長州五傑のイギリス留学
 

 
このケズィックがグラバーの仲介で長州五傑のイギリス留学を支援した。
船は勿論ジャーディン・マセソン商会のものだ。 
彼等の英国滞在はユダヤ人ジェームズ・マセソンの甥のヒュー・マセソン(ジャーディン・マセソン商会のロンドン社長)が世話した。

ここで長州五傑を説明しておこう。
1963年(文久3)4月、井上、山尾、野村の3名が洋行の意志を固めていた。
特に井上はグラバーからの勧誘もあり留学希望が強く動いた。
井上らの強い留学希望の説得に対し藩は黙認という形で挙行を許したのだ。
江戸に到着後、伊藤、遠藤の2人が増えて、5人分の5,000両が必要となったが、井上は「死を賭してもこの志を遂げたい・・・」と脅迫的に説得して集めたのである。
このとき、井上は犯禁の罪が家族に及ぶことを恐れ、離別している。
1963年(文久3)5月、こうして、グラバーの世話でジャーディン・マセソン商会のチェルスウィック号で横浜から上海へと密航した。
5人は、上海の繁栄と100艘余りの軍艦を目の当たりにして、一瞬にして攘夷から開国へと開眼するのである。
だが、コトバが分からない。
ネイビー(海軍の研究)というつもりがネビゲーション(航海)と誤解され、ロンドンまで水夫と同格の扱いとされ、ジャニー(日本人)と呼ばれ、軽蔑され、こき使われたそうだ。
こうした失敗があればこそ、語学が身につく。

到着して約1年後の1864年33に勃発した4国連艦隊の下関砲撃の報を知り、井上と伊藤の2名は急遽ロンドンを発ったのだ。
遠藤は1866年に、後の2人は1868に帰国している。

井上は当時を回想して「国家に対する憂いの思いは、国内に居る時よりも寧ろ海外に在る時が切実なのを覚えた」と言っている。
蓋し、同感である。

ロンドン大学にはChoshu Five(長州ファイヴ)として顕彰碑が建てられている。
また、元の顕彰碑にはこう記されている。
井上聞多(28歳);外交の父、(初代外務大臣)
伊藤博文(22歳);内閣の父、(初代総理大臣)
野村弥吉〈20歳〉;鉄道の父、(新橋-横浜間に鉄道を敷く)
山尾庸三(26歳);工学の父、(工学寮(東大工)創立)
遠藤謹助(27歳);造幣の父、(貨幣鋳造に成功)


● 薩摩藩第1次英国留学生
薩摩藩第一次英国留学生は、慶応元年に日本を密出国し、英国へ渡った19人の薩摩藩士から成る「薩摩藩遣英使節団」のうち、学生として現地で学んだ15名である。

 
薩英戦争(1863年)を戦った薩摩藩は西欧文明との力の差をまざまざと見せつけられた。
そして積極的に西洋知識・技術を吸収しようと藩論を転換し、藩の開成所の藩士を中心に留学生を選抜したのだ。
藩主島津重豪・斉彬ら開明派の薫陶が今更ながらに感得できたのだろう。
江戸幕府はどうでもよい、薩摩藩だけは生き延びねばという新しい時代感覚である。
1865年(慶応元年)3月、海外渡航禁止の時代である、家族に害が及ぶのを恐れ皆が偽名を使った。
グラバーの持ち船である小型蒸気船オースタライエン号で、藩の正式な派遣であったので待遇は最上級であった。
まず香港では夜景のすばらしさと林立するビルの大きさに驚く。
次のシンガポールでは街でのオープンなキスの行為に驚き、接するものすべてに驚愕する。
スエズでは、当時建設中であったスエズ運河の大規模な建設に驚く。
スエズからアレクサンドリアまでは汽車に初めて乗り、その速さにも驚く。
ともかく驚きの連続であった。  
さらに、地中海ではイタリア南部のマルタ島に上陸、ここでイギリスの最新の軍事施設を見学、攘夷の空しさを実感する。

ここで、五代友厚は留学生派遣を強く上申した一人だが、マルタ島の見学を終えたところで、
「留学生の意識を変えるさせる初期の目的は、ここまでの旅で達成できた、これからは藩の上層部の意識を変えることだ」
と吐いた。

2ヶ月余りの船旅で、イギリス南部のサウサンプトン港に到着し、汽車でロンドンまで行く。
駅で出迎えたのは、グラバーの兄(ジェームス・グラバー)であった。
この兄と日本から随行したグラバー商会の社員ライル・ホームの2人が留学生たちの世話をすることになった。
留学生たちはロンドン大学に入った。

鹿児島中央駅の正面に「若き薩摩の群像」の像が建っている。
五代友厚 (29歳);大阪財界の父
寺島宗則 (23);外務卿
森有礼  (21);初代文部大臣
町田久成 (28);博物館の父
町田猛彦 (21);久成の弟、渡航直前に変死(病死)
町田申四郎(19);久成の弟、小松帶刀の養子、不明
町田清蔵 (15);久成の弟、「財部実行回顧談」著者
畠山義成 (23);開成学校(東大)初代校長、博物館長
鮫島尚信 (23);英仏代理公使
長沢鼎  (14);ワイン醸造、ブドウ王、アメリカ定住
松村淳蔵 (24);米国海軍士官学校日本人留学生第一号、海軍中将
吉田清成 (20)米国大使
村橋久成 (23);ビールの父、サッポロビールの生みの親
高見弥市 (34);土佐藩出身
東郷愛之進(21);戊辰戦争で戦死
名越平馬 (19);鉄砲砲術、不明
田中静洲 (24);生野銀山鉱山長
中村博愛 (24);デンマーク公使
新納刑部 (34);家老、引率者、司法官
掘孝之  (21);長崎出身、通訳


● 薩長同盟は日本より先にロンドンの地で既に行われていた
いわゆる薩長同盟(盟約)は1866年3月7日に薩摩藩の西郷・大久保と長州藩の桂が龍馬・中岡慎太郎の斡旋で成立したとするのが通説である。
しかし、これより1年4ヶ月前の1865年7月2日にロンドンで薩長協約(?)が成立していたのである。この時まで、薩長は仇敵の間柄であった。
日本人というのは面白いもので、(今でもそうだが)日本人同士というと海外では一挙に仲良くなってしまうのだ。一人だけだとテレで背を向けるが。

ある日、薩摩藩留学生たちが世話になっているグラバー商会の社員のライル・ホームから伝えられたことは、3人の日本人がロンドンに既にいるという話であり、ロンドンの路上で会ったというのだ。
これには薩摩藩の連中は吃驚した。
偽名まで使って、国禁を犯して密航してきたのである。
自分たちより早くロンドンに日本人がいたことは仰天であろう。
この3人は前記の長州五傑の残留組の野村・山尾・遠藤の3人である。

そして、犬猿の仲であった両藩であったが、7月2日に長州組3人が薩摩藩留学生たちの宿舎を訪問して懇親したのである。すばらしい邂逅である。
異国で「我々は同じ日本人だ」という共通の感覚が芽生えるのだ。
この時、余程打ち解けたのか、もう翌日には薩摩藩の畠山は長州藩の山尾の誘いで大学のスポーツ大会を一緒に観戦しに行っている(畠山の日記による)。
皆、若いから距離が縮まるのが早い。
人生とは面白いものである。
また、邂逅とは不可思議なことである。
それには、まず一歩外に出てみることだろう。何かとぶつかるものだ‘。
この留学生同士の交流は日本で末永く続いたそうだ。

ここで、ロンドンで両藩の同朋意識が目覚めた一例を挙げよう。
長州藩の山尾庸三が造船技術を学びたくて、造船業の地グラスゴーに移りたいと思った。
しかし、長州藩は極秘で派遣していたため、限られた資金は底をついていた。
一方、薩摩藩は藩公認の派遣であったので資金は潤沢にあった。
そこで、薩摩藩留学生たちは、他藩の留学生に藩費は使えないので、皆から義援金を集めることにしたのだ。一人1ポンドずつ募り約100万円(現在価値)を集めて山尾に渡したのである。
この義援金で山尾のグラスゴー行きが実現したのだ。
彼は薩摩藩留学生たちの恩義をどれだけ感涙したかは皆さんの想像にお任せとしたい。
国内にいる坂本龍馬あたりが小さく消えていくように感じるのは私だけであろうか?

この留学生同士の交流は当然、日本の両藩のトップに伝わっているのだ。

歴史の本には坂本龍馬・中岡慎太郎の斡旋で薩長同盟が成立したと仰々しく記述しているが・・・ 
如何なものであろうか?
これだけ大勢の薩長の交流が成立していたのだ。
 
国内に蠢く龍馬は何処にも出てこない!
龍馬の最大の欠如は海外に一度も覗いたことがないことである。
高杉は上海を見学している。
当時の若者たちにとっては、海外に出たか出ないかは人物の大小に格段の差がでた。
司馬遼太郎の創作はここまで踏み込んでいないのだ!!

密航に介在したのはグラバーだが、五代友厚は彼の結婚相手まで世話した仲である。

うした上記の経緯を知った上で、小松帶刀、西郷・大久保、桂らは、薩長盟約に臨んだのだ。
坂本・中岡らは余計な門外漢であった。
講談調の歴史教科書を盲目的に固執していると、現在の我が身の処し方まで誤る。

敢えて言えば、龍馬・慎太郎は勝手に闖入してきた他藩の邪魔者でさえあった。
両藩の秘密会談が漏れてしまうのだ。
一連の流れを追ってみると、土佐藩出は明らかに武器売買における商談成約目的のグラバーの代理人に過ぎなかったのだ。

1966年の薩長盟約成立までの実務者の中心人物は、薩摩藩は五代友厚、長州藩は井上聞多(馨)である。五代・井上が駐日英国公使のオールコック、後任のパークス(1865年から)と英語で交渉、折衝まで行ってきた。
2人ともロンドンへの密航留学生である。英語はデキる。世界観は共有している。

龍馬は海外に不知だから、コトバはできない。当時の世界を見ていない、余りにも器が小さく、視野狭窄であったのだ。やはり、龍馬には既にサムライ魂はなく一商人(守銭奴)根性であり、蝦夷地が龍馬の海外としての目的地であったのだ。日本をどうしようというという機運は田舎浪人の草競馬の龍馬からはまず無理だ。


因みに、巷の龍馬伝などでは、龍馬と薩摩藩との緊密な関係を記述しているが、時の薩摩藩主の島津久光(在位1858-1876)は藩外者及び脱藩者・浪人者(藩内でも)を極度に嫌悪し、藩内に徹底させていた。
他藩の者と差別するために、独特な薩摩弁の使用を藩内に強制させていた。
龍馬のような土佐弁を喋る浪人者は薩摩藩重臣からは最も排除された軽輩であったのである。
家老小松帶刀からは最も忌避されていたのだ。
事実は小説より奇なのだ。


薩摩藩第2次アメリカ留学生の6人がいた。
薩摩藩はこの翌年1866年に第2のプロジェクトで米国留学生を派遣している。
第1次の英国留学生の陰に隠れて、ご存知の人が少ないと思う。
密航させてまでも若手の人材を英米に留学させる決断は、島津重豪やその孫斉彬などの開明的な藩主がいた伝統である。

下記が1866年(慶応2)、長崎から密航出国し、アメリカに渡った6名の薩摩藩士である。
江夏蘇助  (35歳);帰国後病死
仁礼景範  (35);海軍大臣、枢密顧問官
湯地定基  (23);根室県令、元老院議官
吉原重俊  (21);初代日銀総裁
種子島敬助 (22);ギリシャ・ラテン文学に傾倒
木藤市助  (?);当地で首吊り自殺

一概に薩長藩閥政治の弊害が叫ばれていたが、上記のような人材が他藩にいなかったのである。
少なくとも英語ぐらいは喋れなくては人の上には立てまい、今も昔も。
語学より大事なのは世界観的発想力である。

明治維新では、ジャーディン・マセソン商会はアメリカ南北戦争が終わり、売れ残った武器や弾薬を上海で取り扱い、維新軍はグラバー商会を通じて、銃や軍艦を輸入している。
死の商人ぶりを発揮し、明治維新後も造幣寮の機械輸入に携わるなど明治政府との関係を深めたが、武器が売れなくなったことや諸藩からの資金回収が滞ったことで、1970年(明治3)グラバー商会は破産した。
グラバーも龍馬も金、金・・・そして女、女・・だけであったからだ。
賞味期限が切れたのだ。


グラバーは日本の女性5人に子供をもうけた。
ある意味、トンデモナイ英国人であった。
 


龍馬の女関係は14人いた。否、もっといたかもしれない。
龍馬と長崎の遊郭で毎晩遊んだ習癖が止まらなかったらしい。

グラバーは、内縁の遊女の菊園との間に梅吉をもうけたが生後4ヶ月でハシカで病死している。
通説では、グラバーは1867年、五代友厚の世話で芸者の淡路屋ツルと結婚、長女ハナと長男富三郎をもうけた。
妻の淡路屋ツルはまだ17歳であり、長崎の武家の出であったが、一度結婚に失敗してセンという幼い娘を抱えていた。
なお、この娘センは1年程グラバー邸で暮らすが馴染めず、祖母の元に戻り、それ以降は母親ツルと断絶している。

グラバーは、結婚後の1870年頃、加賀マキという女性に男児を産ませている。
しかし、妻のツルと別れる気はない。マキと赤ん坊はグラバーの世話を受けて2人だけの生活を始めた。
勿論、ツルはマキとその赤ん坊の存在は知っている。
グラバーとツルの長女が1876年に誕生。マキの産んだ息子は6歳になっていた。
実は、この息子が富三郎なのである。ハナとは異腹であった。

やがてグラバーは岩崎弥太郎に呼ばれ、一家で東京に転居することになった。
言わずもがな、父親グラバーは息子を一緒に連れて行ってしまった。
この時、マキは悲憤のあまり、息子の前で、首筋を切り自殺したのだ。

グラバー一家の写真では、富三郎は父グラバーから顔を背け、沈鬱な表情がうかがえる。
親子間の相剋が複雑であったのだ。
富三郎は、日英混血のためスパイ容疑もかけられ、戦後直後、長崎の自家で首吊り自殺をして、無残な死を遂げた。

なお、倉場はグラバーを、富三郎はトーマス(トミー)からもじった名である。
富三郎は中野ワカ(日英混血)と結婚したが、子はできなかったので、死後は絶家する遺言を残している。
このワカはグラバーに引き取られて養女として育っているが、さらなる詳細は不明である。
なお、グラバーの子孫は、長女のハナが英外交官と結婚、4人の子をもうけており、子孫は海外に住んでいる。

シーボルトの娘イネ、孫高子と同様に、混血で生き抜くことは日本の社会では実に厳しいのだ。

ツルの実家の家紋は蝶紋のため、蝶の紋付きを好んで着たので「蝶々さん」と呼ばれていた。
そのため、「蝶々夫人」のモデルはツルに、マキの事件を取り入れて創作されたという謂れがある。
1902年に世界で最も有名な歌劇の一つになった所以である。
グラバーがピンカートンということになる。
マダム・バタフライの舞台はグラバー邸であったのである。

蝶々夫人


グラバーがピンカートン、ツルが蝶々夫人グラバーは女中のスズキにも手を出し、胎ませた


 


 
ここで、「蝶々夫人」といえば、オペラ歌手、故三浦 環(たまき)となる。
環は、1884年明治17年)2月22日 - 1946年昭和21年)5月26日)は、日本で初めて国際的な名声をつかんだオペラ歌手である。
環は31歳でアメリカへ渡り、以来、アメリカを中心に世界中で2000回も蝶々さんを演じるという前人未到の偉業を成し遂げた。
その間、プッチーニ本人に称賛されるという栄誉にも輝きました。
三浦環が蝶々さんに扮した姿の銅像は、プッチーニの銅像とともに長崎市のグラバー園に建っている。
 

 

 
 
ここで、先の投稿で「ミス・サイゴン」を記述したが、このプッチーニのオペラ『蝶々夫人』を基にしてアメリカ海軍士官と没落藩士令嬢に置き換え、1970年代にベトナム戦争末期のサイゴンの売春バーで働くベトナム人少女キムと、アメリカ大使館で軍属運転手を務めるクリスの悲恋を「ミス・サイゴン」が描かれた。
この「ミス・サイゴン」は、1989年9月20日にロンドンウエストエンドで初演され、1999年10月30日、4000回以上の上演を経て閉幕した。
1991年、ブロードウェイでも開幕し、その後ツアー公演が行われ多くの都市で上演されている。
2014年ロンドン再演開幕前、初日の興行収入が£4mを越え世界記録となっている。
なお、『ミス・サイゴン』 は、クロード=ミシェル・シェーンベルクとアラン・ブーブリルの脚本、ブーブリルとリチャード・モリトビーJrの作詞によるミュージカルである。

Miss Saigon


以上


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?