CIS編 ;キルギス (1 of 8)

下記は、イバラットというキルギス人女性が日本で自己紹介するときの実情である。
 
-「こんにちは、皆さん!」
-「イバラットと申します、キルギス人です」
-「イギリス人?」
-「いいえ、いいえキルギス人です」
-「へえ、キリギリス人?どこの国ですか??」
-「中央アジアにあるキールーギースーです! 旧ソ連の国です」
-「ああ、分かった!ロシア人ですね!」
-「・・・ですから・・あの・・キルギス人です!」
 
「これは、私が日本で何百回、何千回も繰り返した自己紹介です」というのだ。
「イギリス人でもない、キリギリス人でもない、ロシア人でもない私は、
自分を毎回の自己紹介で強調し、日本の人々に「キルギス」という国を積極的に
アピールしてきました」と。
(彼女の語りはこの国の編の最後に載せている)
もし、自分が逆の立場であったなら、どうであろうか?
しかし、100年後の日本の立ち位置は“日本で何処にあるの?”と訊かれるであろう。
 
「日本はキルギスを通じて中央アジアを発見した」と言われている。言い換えればキルギスは、日本が中央アジアで最初に親密になった国家なのである。
 
而して、このキリギス国は紙面を十分に利用して詳述しようと思う。
 
キルギス人の間では「昔、キルギス人と日本人は同じ民族で、肉が好きな者はキルギス人となり、魚が好きな者は東に渡り日本人となった」という伝説が信じられている。
この伝説はキルギス人なら誰でも知っている古い言い伝えである。
キルギス人と日本人は顔がそっくりだと言うのがこの伝説の所以です。
コマや凧上げの文化もある。
ともかく、キルギス人と日本人は見かけが「瓜二つ」で、一見しただけでキルギス人か日本人かを見分けることは難しい場合が多い。
実際、日本人がキルギスへ行くと、キルギス人と間違われてキルギス語で話しかけられたりすることも多いそうだ。
そのようなこともあり、キルギスの人々は日本に対する関心が非常に強く、日本語教育もとても盛んである。
 
日本神話(古事記、日本書紀)に、山幸彦と海幸彦の神話が語られている。
古事記では、兄の火照命(ほでりのみこと)は海佐知毘古(うみさちびこ)として大小の魚を捕り、火遠理命(ほおりのみこと)は山佐知毘古(やまさちびこ)として獣を獲っていたという。兄弟は争いをするが、兄が弟に服従する事で仲直りする。
 
日本民族は、南方と大陸からそれぞれ移動してきた2つの種族をルーツとするようだが、一説では、大陸から来た集団の発祥の地はシベリアのバイカル湖周辺という。
キルギス人も我々同様、蒙古斑を持つ。
そうすると、バイカル湖西岸で生まれたとされるキルギス民族と近似していたという説をあながち伝説とは決めつけられない。
キルギスでは蒙古斑を「ウマイエネ」という女性の神様がつけた手形だと言われており、この手形が大きければ大きいほど、その赤ん坊は神様に守られていると、信じられているという。
 
こうして、見た目は日本人そっくりのキルギス人だが、中身は最近の日本人の草食系とはちょっと違う。とにかく男は男らしく肉食系であり、女は女らしくが基本である。
例えば、公共交通機関では年上の女性に席を譲るのは当たり前、デートは男性が全額奢るのが当たり前、男性は一目惚れした女性に猛アタックし、ラブレター、花束などのロマンチックなアピールを欠かさない。
そんな男性に押し切られる形でお付き合いが始まることも多いが、いったん交際が始まるとお姫様扱いに女性側もすっかり酔いしれて、彼のことをさらに好きになるのだ。
 
女性にアプローチする瞬間からプロポーズしてくる男性も多いが、キルギス人カップルはとにかく結婚までの交際期間が短いという。
交際数ヵ月~半年で結婚に至るのが普通で、交際1年というと「かなり長い」という感覚。
「長く付き合うと結婚するころには愛情は冷めているので、お互いの情熱があるうちに結婚、すぐに子どもを作って落ち着いてからもう一度ゆっくり愛を育む」という考え方らしい。
お互いをよく知らないまま結婚して大丈夫なの?と日本人の感覚だと思ってしまうが、統計的にはわずかながらキルギス人の方が離婚率が低いという。
この恋愛・結婚観にも見習うべき面はあるだろう。
 
キルギスで言い伝えられている言葉があるそうだ。
「人には五本の指がある。それらはそれぞれ異なっている。同じように、人もそれぞれ異なっていて当然なのだ」
その言葉は、遊牧民族ならではだ。
島国の日本とは違い、いろんな国のいろんな人と交わってきた民族である。
他民族を受け入れながら、他文化を受け入れながら生きてきた人たちだ。
また、日本と異なるのは、キルギスでは家を継ぐのは末っ子の男子だということである。
気に入った男性に最初に聞くのは、「何番目の子か?」という事で、若い女性には特に
重要なのだ。
末っ子の男の子はモテないのである、日本と真逆である。 
 
 
さて、日本人抑留者が、トルクメニスタン、ウズベキスタンと同様、キルギスにも2,000人ほど抑留され、強制労働させられていたとされる。しかし、詳細は今もまだ判っていない
現在、判明しているのは、イシク・クル湖畔のタムガという村に、125人の抑留日本兵がいたということだけだ。
 
厚生労働省によると、史料には抑留された場所として「タムガ」の地名はない。ロシア政府などから提出された死亡者名簿に基づいて抑留を把握しているため、死亡者のいないキルギスについては「抑留された人数や具体的な場所は把握できていない」(社会・援護局)のが現状だ。
日本のお役所はいつもこうしたものだ。
 
彼らは満洲で終戦を迎え、満洲からウズベキスタンのタシュケントへ、タシュケントからタムガへ移動し、46年から48年の2年間、抑留され、強制労働させられたのだ。
全員が帰国している。
 
このタムガ村には、旧ソ連時代に高級将校のためのサナトリウム(療養施設)の建設に従事したのである。イシク・クル湖近郊から採取した沈泥を利用したマッサージや水圧マッサージ、治療などが行われていた。それらは今日でも療養所として利用されている。
 
125人の一人で、日本に帰国した後、2008年に60 年振りにこの村を訪れた新潟出身の宮野泰氏がいる。彼の『タムガ村の600日』(新潟日報事業社刊、2008年発行)で、氏の2年間の抑留生活とその後60年ぶりに訪ねた時の詳しい記録を読むことが出来る。
 
当時の療養所建設に携わった東京都世田谷区の武内栄さんもいた。現地では石とコンクリートで療養所建設に従事。口にするのは1日350グラムの黒パンと乾燥野菜だけ。氷点下になる冬の夜もわらの上に寝た。過酷な環境の中、武内栄さんは「みな土木作業は素人だったが、日本へ帰りたい一心で仕事をした」という。
1948年、舞鶴港(京都府)に帰国。キルギス抑留の事実を残そうと仲間を探したが協力者が集まらなかったという。
また、60年前は内装とか周囲の環境を整えることはできなかったけど、今では、泥浴施設として内装も整えられて利用されているという。
 
2010年9月には現在も療養所として使われる建物の一室に、「キルギス平和センター」という資料室が完成した。
元日本兵の写真や手記、現地の住人も含めたインタビューを撮影したDVDなど約200点を展示されている。部屋は療養所が提供し、入場料は無料だ。
「歴史を形として残すことは意義がある」。当時、療養所建設に携わった武内栄さんは、「平和センター」の完成を喜ぶ一人である。
この「平和センター」の設立の縁由は、2007年にシルクロードを探検する市民団体(シルクロード雑学大学)代表、長沢法隆さん(65)がキルギス抑留の事実を知り、資料収集を進める中で武内栄さんと知り合い、武内さんは、他の元日本兵らと共に協力するようになった。
11年前の2008年、このサナトリウムの診療所の建設に関わった日本人抑留者のひとり、宮野泰さんと一緒に訪れたのだった。
 
長沢さんが現地を訪れたところ、武内さんらが手がけた建物は修復を重ね、今も療養所として使われていることを知る。
現地では「日本人はまじめで働き者」との印象が、連綿と語り継がれていたという。
ここで、療養所側から「一室を記念館にしたらどうか」と提案があり、長沢さんが準備を進める。武内さんら数人がインタビューに答え、写真なども提供した。
武内さんは高齢のため現地に足を運んでいないが、「自分たちが建てたものを見て、現地の人と話をしてみたかった」と話す。
 
ふと見ると、「明恵文庫寄贈本」と書かれたプレートがある。スタッフの人に聞くと、これは安倍首相夫人の明恵氏が寄贈された日本語教材とのことであった。
 
 
しかし、定住民の日本人とは違ってキルギス人がモンゴル人の様にずっと以前から遊牧民である。
なお、キルギスは元来遊牧民の国だが、一方、ウイグル人やウズベック人は農耕民で、タジク人も山岳農耕民、トルクメン人は砂漠の半牧半農民族だという。
 
 
現代のキルギスの大部分が都市化され、以前に比べると遊牧している人の数が少ないが、それでも山のほうで住んでいるキルギス人は今でも昔ながら春からジャイロー(キリギス語)という放牧場に遊牧している。
その時にフェルトからつくられるゲル(テュルク語ユルタ)という移動式の家で住む。
ユルタのいいところが部品を簡単に馬やラクダで放牧場まで運ぶこともできるし、組み立てと分解も早くて簡単である。
ユルタは円形で、中心の柱(2本)によって支えられた骨組みをもち、屋根部分には中心から放射状に梁が渡される。これにヒツジの毛で作ったフェルトをかぶせ、屋根・壁に相当する覆いとする。壁の外周部分の骨格は木組みで、菱格子に組んであり接合部はピン構造になっているので蛇腹式に折り畳むことができる。
 
ところで、キルギスの民族帽子は、カルパックと呼ばれる、折り返しのついたとんがり頭のフェルト帽。白地に黒い刺繍が施されたものが代表的だ。
 
ここでユルタに由来するキルギスの国旗を説明しよう。
中央に描かれているのは、ユルタの中から輝く太陽見上げた天窓を図案化したもの。
太陽が放つ40の光線は、40の部族を表す。
赤は、キルギス民族の英雄マナスに由来し、「高貴なマナス」の色といわれる。
国民からデザインを募集して作られた。
 
現在のキルギス共和国でもマナス王は民族の英雄として顕彰されており、1995年には「マナス1000年祭」を祝い、首都ビシュケクにマナス公園を作った。
中央広場の「アラ・トー広場」には、広場の中央にマナス王像が立ち、背後に国立歴史博物館がある。馬に跨り、剣を手にした「マナス王像」の姿は勇ましい。
なお、『マナス王』は少年編と青年編が平凡社刊の東洋文庫で見ることが出来る。
 
 
日本・キルギス関係
政治関係では、 国家承認日 1991 年 12 月 28 日 。
外交関係開設日 1992 年1月 26 日。
日本大使館開館 2003 年1月 27 日(特命全権大使への格上げは 2010 年1月)。
在日キルギス大使館開設 2004 年4月。
キルギス日本人材開発センター開設(ビシュケク) 1995 年5月。
武装勢力による邦人誘拐事件が発生(南部バトケン州) 1999 年8月(10 月無事解放)
ウズベキスタンの編で触れたが、日本人鉱山技師4人、通訳らが誘拐された事件である。
1991 年 12 月の独立以降、積極的なODA供与も背景に両国関係は進展。
 
日本は1992年にキルギスと外交関係を樹立した。翌年にはJICAが研修事業を開始、爾来我が国は一貫してキルギスタンの民主化と市場経済化、経済の自立を側面援助し、さらに保健・医療、教育分野などの社会面での支援も継続して実施している。
特筆したいのは、人作りへの貢献である。
毎年15名の公務員を選抜し、日本の大学で2年間修学させている。卒業生は、キルギス政府機関で高い地位に就いている。
2016年には初めて大臣(法相)を輩出したほか、次官クラスや大統領府・首相府の主要ポストに座る卒業生も多い。
キルギスは、経済的にはいまだよちよち歩きである。貧困は大きな問題であり、一人当たりGDPは約1,200ドルにとどまっている。
国内に職がないため、人口の優に1割を超える国民がロシアやカザフスタンに出稼ぎに出ている。産業基盤が貧弱で、政府は外資の導入に努めているが、生産分野に投資する諸外国は少ない。我が国も同様であるが、少数ながら、キルギスへ投資する民間企業が出てきている。
 
我が国は、中央アジアの安定と外に開かれた、自立的な発展を支え、この地域の平和と安定に寄与することを目指している。
キルギスには、日本の経済力と技術力への期待が大きい。
「中国だけの進出は怖い。日本にも来て欲しい」との声を数え切れないくらい耳にする。
中央アジア諸国はいずれも親日的であるが、キルギスは格別である。
日本語学習者の数も単位人口当たりでは中央アジア一と見られている。
中央アジアは、先の大戦で日本が負の遺産を背負った北東アジアや東南アジア諸国と異なり、まっさらな白紙から信頼関係を構築しえている貴重なアジア民族の国々である。
キルギスも、ことあるごとに我が国の援助に謝意を表明しつつ、国際機関での選挙や決議の採択に際してしばしば日本を支えてくれるなど、国際場裏での協力も良好である。
 
日本(人材開発)センター(KRJC、Kyrgyz Republic-Japan Center for Human Development)は、1995年に支援委員会により設立され、2003年JICAに移管された国際協力機構(JICA)
日本センタープロジェクトによる現地法人。
市場経済化に資する人材育成を目的としたビジネスコース、日本語教育、相互理解促進事業の3つの事業が柱。
日本語講座は2013年8月より国際交流基金との共催事業となり、JF(国際協力基金)スタンダードを核としたカリキュラムによる日本語コースを提供している。
日本語専門家は一般成人を対象とした日本語講座の運営とともに、キルギス全体の日本語教育に対する支援・協力を行っている。
 
キルギス共和国日本語教師会(KAJLT、Kyrgyz Association Japanese Language Teachers)は、1999年に首都ビシュケクに発足した任意団体である。
各機関から日本語教師40名以上が参加している。
教師会は、キルギス(中央アジア地域含む)における外国語として日本語を学習する者に対する日本語教育の充実と促進を図り、日本語・日本文化の普及、キルギスと日本の相互理解を深めることを目的としている。
キルギス国内の高等教育機関、初等中等教育機関, そして民間語学学校他の日本語教師やJICA青年海外協力隊ボランティア(日本語教育, 青少年活動)、国際交流基金(JF)派遣日本語専門家等が活動に参加している。現時点の主な活動内容は、日本語弁論大会の企画運営、日本語能力試験(以下、JLPT)の実施、年2~3回の教師会会報の発行、地方への出張授業などである。特に弁論大会とJLPTは、日本から遠いこの国で、学習者にとって「力試し」の貴重な機会である。
「なぜ、キルギスで、こんなに日本語が人気があるの?」というのはだれもが持つ素朴な疑問ですが、これに対するはっきりした答えは見つかりません。キルギスには日本企業もなく、在留邦人も60人以下、日本人も日本のモノもほとんど目にすることのないこの国で日本語がこれほど盛んに学ばれているというのは不思議にすら思えるのだ。
 
中央アジア日本語弁論大会( Central Asian Japanese Speech Contest)は、ウズベキスタンカザフスタンキルギスタジキスタントルクメニスタン中央アジア5カ国の日本語学習者が参加する国際大会である。
当該大会は、カザフスタン、キルギス、ウズベキスタンの順で3カ国持ち回り制で開催されている。
多くの場合、各国の日本語教師会が主催となり、日本の在外公館や国際交流基金国際協力機構等が後援、協賛している。
2016年4月開催の大会(開催国:カザフスタン、カザフ国立大学)で、通算20回を迎えた。
第21回大会(2017年4月)はキルギス共和国ビシケク市のビシケク人文大学で行われた(主催団体:キルギス日本人材開発センター、キルギス日本語教師会、在キルギス日本国大使館、ビシケク人文大学)。
この大会では中央アジア全5ヵ国から、計17名の学習者が出場した。
弁論のレベルは全体的に非常に高く、来場者を驚かせたという。
 
 
ところで、キルギスは権威主義の名残りを引きずってはいるが、今日、中央アジア5カ国のうちキルギスのみを民主国家と呼ぶことができる。
全体主義国家ソ連の枠組みに長くはめ込まれていたキルギスが何故に民主国家となり得たのかというのは、興味深いテーマである。
遊牧民族は束縛を嫌い、自由を強く選好する。
自由は民主主義との親和性が高い。キルギスの部族は、クルルタイと呼ばれる全員の集会で物事を決めてきた歴史がある。
キルギスは国土の峻険な山々に覆われているため、大きな部族集団が成立しにくく、全体を束ねるような強い勢力が現れなかったということも背景にある。
このような民主主義の素地があったのである。
 
歴史的経緯から中央アジアを自らの勢力圏と見なすロシアは、中央アジアへの影響力の保持に腐心している。キルギスについては、2015年に「ユーラシア経済同盟」に引き込み、同時に、これに伴うキルギスの経済的ショックを和らげるための巨額の基金を設けた。
経済同盟加入の功罪についてはいまだに議論があるが、キルギス人出稼ぎ労働者の地位が安定し、ロシア等からの送金が増えている。
2018年6月には、ロシアはキルギスの対露債務約2億4千万ドルを棒引きした。
 
一方、キルギス南部で国境を接する中国のキルギスへの浸透は目をみはらせる。
中国は、惜しげもなく無償資金、借款、民間資金をキルギスにつぎ込んでいる。
主な対象は道路建設、石油精製所建設、金鉱開発などであり、投資に限ると、2018年上半期の対キルギス直接投資は約9700万ドルで、ロシアの約2700万ドルを大きく上回った。
2017年の貿易額でも中国はロシアを上回っている。
キルギスの対中債務は、10年前にはゼロであったとのことだが、近年増大の一歩をたどり、現在、対外債務の約4割を占めている。
経済的な影響力では、今や中国がロシアを凌駕したと言えよう。
キルギスは「一帯一路」への賛同と協力を表明しているが、もちろん疑念もある。
ある元政府高官が、「キルギスが独立したとき、それまで交流がまったくなかった西側諸国との関係の構築には自信がなかった。一方、中国は隣国であるので、うまくやっていけると考えていた。
しかし、「現実は逆であった」と述べていた。
キルギスはアジア最大資源鉱床のひとつに位置している。鉱物資源が豊富な国であり、貴金属やレアメタル鉱物鉱床で知られている。
 
更に、クムトー金山は、キルギスのGDPの12%を占め、輸出の3割を占める重要な産業である。
キルギス語で「砂の網」の意味を持つこの金山はイシク・クル湖の南の山中に位置する。
標高1600mの湖畔の町タムガからランド・クルーザーで2時間ほど鉱山道を上ると標高3600mのベース・キャンプに到着する。
採掘場はさらに30分ほど上った標高4000mの高さにある。
訪問に先立ち健康診断を受けるなど注意が必要だ。
カナダのセンテラ社がカナダ政府、IFC、EBRDの融資を受けて金山を開発した。
EBRDは1995年に鉱山に電力を供給する送電線プロジェクトでキルギス政府にも融資した。
鉱山の操業は1997年に始まった。一定純度まで精錬された金はキルギス側が買い上げ、スイスに輸出されて再精錬される。
 
負の遺産も述べておこう。
キルギスのビシュケクから南西の街『マイルス』。2万人ほどが住む小さな街だ。
マイルスというこの小さな町は、かつてウラン鉱山として栄え、ソ連の核開発の時代は海外の技術者たちが暮らすエリートタウンだった。
マイルスでは、1968年に工場が閉鎖されたあと、ウラン工場に残されたものや採掘されたウランのクズが、石や土を上からかぶせただけで町の中に埋められてしまった。
 
世界で1番放射能汚染が酷い場所
    1番;福島
    2番;チェルノブイリ  
    3番;マイルス
    4番;カザフスタン
     ・・・・・
 
この町のホットスポットは、毎時150マイクロシーベルトにもなるそうだ。
そこを人々や家畜が歩き、その家畜のミルクを人間が飲む。
町の前を流れる汚染された川で、魚釣りをする。子ども達は川で水をくんで、家に持ち帰る。
町を歩いていると、障害を持った子どもを不思議なほど多く見かける。
チェルノブイリでも見られたような、生まれつき手足が曲がっていたり、頭が大きくて手足が発達しない子どもたち。
マイルスでは、キルギスのほかの町と比べてガンの発生率が4倍、子どもの30%に甲状腺腫瘍があるという。
 
 
以上
2 of 8に続く、

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?