《 アフガニスタン 5 of 5》

◉ アフガニスタンで発見された仏教遺跡「メス・アイナク(ささやかな銅の源)」
仏教と産業の関係を物語る貴重な遺産が、銅鉱山の開発によって消滅の危機にさらされている。
アフガニスタンのカブールから南東に40 km離れた場所で、ロガール州の不毛の地域にある。
メスアイナック(Mes Aynak)には、アフガニスタン最大の銅鉱床のほか、400を超える仏像、
仏塔、40ヘクタールの修道院群がある古代集落の遺跡がある。
 
仏教遺跡「メス・アイナク」の周囲には100カ所以上の検問所が設けられ、約1,700人の警察官
が24時間体制で警備に当たっている。
厳重な警備体制の理由は、遺跡そのものではない。遺跡の地下に長さ4キロ、幅1.5キロ以上も
ある銅の鉱床が眠っているからである。
未開発の鉱床としては世界最大級の規模で、銅の埋蔵量は1,140万トンと推定されている。
中国企業が銅鉱山の採掘権を獲得している。
2007年、北京に拠点を置く資源開発企業の中国冶金科工集団(MCC)が、この鉱山の採掘権を
30年契約で獲得した。
MCCは採掘権の取得に30億ドル(約3,600億円)以上を支払い、さらにこの辺境の地に道路や
鉄道、発電所といったインフラを整備すると約した。
 
ところが、現在、鉱山の開発はさまざまな脅威に阻まれて進んでいない。
中国の技術者たちのために建てられた青い屋根の建物は、2012年から13年にかけて相次いで
ロケット砲の攻撃を受けた後、放置された状態が続いているし、1980年代に旧ソ連軍が残して
いった地雷や、近年、タリバンやアルカイダなどの武装組織が仕掛けた爆破装置も脅威となって
いる。
2014年には、地雷除去の専門家8人がターリバーンによって殺害される事件も起きた。
こうした治安上の問題に加え、一帯には鉄道もないし、深刻な水不足にも悩まされている。
2012年に開始予定だった鉱山開発がまだ始まっていないのも、当然である。
2013年、MCCはアフガニスタン政府が提示していた契約条件に不服を唱えるようになったが、
両者の交渉はまだ再開していない。
まだ、銅の採掘が始まることはなさそうだ。鉱山開発で失われる前に調査を進めようと、ここで
は7年前から、考古学者たちが地元の作業員を率いて発掘作業を進めている。
出土品は、塑像、木彫仏、石彫仏、壁画、宝飾品、古文書、コインなどすでに千数百点に及んで
いるが、破損したままの状態で保管されている。
この事前調査事業では、特に4世紀頃から7世紀頃の塑像などの構造や損傷状態、資料的価値に
ついて調査し、修復計画を作成する予定である。
 
 
バンデ・アミール湖
2009年、湖のあるバンデ・アミール国立公園は、アフガニスタン初の国立公園として制定されて
いる。現在は初の国立公園として、保護する体制が徐々に整備されつつある
石窟で有名なバーミヤンから、西に100km弱ほど。車で4時間ほど行った所にある。
バンディ・アミール湖は一つの湖ではなく、6つの湖の総称であるが、現在1つの湖が枯れて
しまっているため実質は5つである。
湖は断崖絶壁に囲まれ、それぞれの季節や太陽の日差しの加減で魅惑的な姿へと変わるので、
いつ来ても毎回違った様子を楽しむことができます。
一木一草も無い黄褐色の荒涼たる岩山、その山中に赤、黄、紺碧の水を湛える静まりかえった湖
が何とも神秘的なのだ。
どれも砂漠の中に広がる美しい湖であり、“真珠”という言葉が確かにしっくり来る。
トラバーチン、ミネラル鉱床で作られた天然のダムで区切られた一連の6つの深い青色の湖は
といえよう。
砂漠の真珠とたとえられているだけあり、限りなく透明に近いブルーの湖が美しい。
 
それぞれに名がついている、
バンディグラマーン(Band-i-Ghulaman):奴隷たちの湖。
バンディカムバール(Band-i-kambar):馬丁の湖。
バンディハイバット(Band-i-Haibat):畏れの湖。
バンディパニール(Band-i-Panir):チーズの湖。
バンディプディナ(Band-i-Pudina):ハッカの湖。
バンディズルフィカール(Band-i-Zulfiqar):アリーの剣の湖。
 
バンデ・アミール湖ですが、6つの湖のうちの1つであるバンデ・カムバール(馬丁の湖)
は枯れていて、この湖だけは残念ながら見ることができない。

バブール庭園
バブール( Babur)の庭園は、アフガニスタンの首都カブール市にある歴史的な公園であり、
北インド、ムガール王朝(Mughal Empire)の創始者であり、ティムール朝サマルカンド政権の
君主(在位:1497年 - 1498年)であった皇帝バブール(1483年 - 1530年)の最後の休憩場所
でもあった。
バブールはティムールの三男ミーラーン・シャーの玄孫であり、母方の祖父であるモグーリス
タン・ハン国の君主ユーヌスチンギス・カンの次男チャガタイの後裔にあたる。
バブールは軍事力に優れた指導者、優れた文人として後世でも高く評価されている。
中央アジアからインドに入り、ムガル帝国を建国したのである。
名前の「バブール」は、トラを意味する。
 
この庭は、バブールがカブール市に「大通りの庭」の建設を命じた西暦1528年頃に
開発されたと言われている。 
長い歴史を持つ庭園であるため、雑草が生え、放置されていたが、スイスに拠点を置く
アガ・カーン文化財団の手で修復や復元が行われ、美しい庭園に蘇った。
今、この庭園はアフガニスタンの希望の場所であり、憩いの場で、観光の目玉とも
なっている。
 
バブール庭園はペルシアの建築様式のムガール族によってムガール庭園(Mughal gardens)
として造られたが、インド、バングラデシュ、パキスタンには、「高度に統制された幾何学」
に関して中央アジアの前任者とは異なる数多くのムガール庭園群がある。 
ムガール庭園(Mughal gardens)のスタイルは、ペルシャ庭園、特にCharbagh(四辺形の庭)
の構造の影響を強く受けている。壁に囲まれたエンクロージャ内では、直線的なレイアウトが
重要な構図を表現している。
他のいくつかの典型的な機能には、プール、噴水、庭園内の運河もある。
 
バブールは1530年にインドで死去したが、遺体はこの庭園にある小さなモスクの後ろに埋葬
された。モスクも修復されたが、内戦当時の弾痕が残っている。
 
 
ブルーモスク
ブルーモスクというとイスタンブール(トルコ)のスルタンアフメトモスクが有名であるが、
こちらのアフガンのマザーリシャリフにあるモスクもブルーモスクと呼ばれている。
マザーリシャリフは国の北に位置するバルフ州の州都で、北部の最重要都市で、タジキスタン
国鉄による鉄道が通っている。
 
マザーリシャリーフにあるブルーモスクはハズラト・アリー廟である。
アリーとはアリー・イブン・ターリブのことである。
7世紀半ばに活躍したイスラム教第4代正統カリフ且つシーア派初代イマームでもあったイス
ラム教の指導者、アリー・イブン・ターリブの霊廟として1512年に建築された。
壁一面に鮮やかなコバルトブルーのタイルを基調としたモザイク模様が施されたことから
ブルーモスクと呼ばれ親しまれている。
アリーはイスラム教の二大宗派であるスン二派とシーア派の両方から公認された唯一の指導
者であり、この場所を訪れる人々は宗派の対立を忘れ共に祈りを捧げるそうである。
 
青いタイルが美しく輝くその外観は、アフガニスタン紙幣にもデザインされている。
ブルーモスクは、鮮やかなブルーのタイルをたくさん貼った内部の壁が印象的なことから、
その名前が付けられた。
アフガンのブルーモスクは、ベースカラーにブルーを使い、側面にはカラフルなタイルが散り
ばめられているのが特徴的である。
 
こうした青いタイルが多く作られるのは、コバルトが多く産出したことのほか、タイルを焼く
温度が低くて済み、技術的に簡単であったことも挙げられる。
 
偶像崇拝を禁止する教義に従い、神や預言者、聖人などの像が置かれたり、描かれたりするこ
とはない。装飾は幾何学模様が主体で、メッカの方向に向けて窪みが造られている。
これは、礼拝の方角を示すのが目的で、モスクに必ずある施設である。
 
 
首都カブールにも名所はたくさんある。
ダルラマン宮殿(Darulaman Palace)
現在は廃墟となった西洋様式の宮殿建築である。
ダルラマンとは「 Aman(安全)の居所(家)」という意味であるが、「アマーヌッラー
(Amanullah)の居所」という意味をかけているという
1920年代初頭、近代化政策を進めたアフガニスタン国王アマーヌッラー・ハーンによって、
将来の国会議事堂として建築された建物である。
アマーヌッラー・ハーン失脚後に建物は放置され、その後国防省の庁舎として使われるなど
変遷を経たが、1990年代初頭のアフガニスタン紛争で廃墟と化した。
2015年、宮殿の向かいにアフガニスタン国民議会議事堂が建設された
宮殿は堂々とした新古典主義建築である。カーブル中心部からは南西へ16 km離れており、
カーブル西部の平坦で乾燥した谷を望む丘の上に位置する。

 
クシャー・ド・シャムシラ・モスク(Shah-Do Shamshira Mosque)
シャー・ド・シャムシラ・モスクとは、 2つの剣の王のモスクに翻訳され、 カブール川の
すぐそば、アンダラビロードのカブール (2区)にある黄色の2階建てモスクである。
2階建てであることは独特である。
イスタンブールのオルタキョイ(Ortaköy)モスクをモデルにしています。
近代化のためのアマヌラ(Amanullah)・カーンの治世中に1920年代に建てられた。
モスクは、中央アジアの征服者バブールのいとこでもあったムガール帝国の将軍、
チン・ティムール・カーンの墓の隣にある。
 
カルガ湖(Qargha Lake)
カルガはカブール近くのアフガニスタンのダムと貯水池である。
貯水池とその周辺地域には、ボート、サーフィン、ゴルフなどのレクリエーション施設が
あり、銀行がホテルになっている。貯水池には、銀行のhatch化場に支えられた漁業開発が
ある。
貯水池の貯水からの灌漑と水力発電の開発も計画されている。
ダムは1933年に建設され、高さは30メートル(98フィート)ある。
ダムの長さは450メートル(1,480フィート)で、上部の幅は8メートル(26フィート)
である。損傷を受けたダムの水門はその後修復された。
貯水池は、1950年代にダウドが国の大統領だったときにレクリエーションを目的として開発
された。 現在は、特に金曜日に多くのピクニックが訪れるピクニックの場所として人気が
ある。
 
 
アフガニスタン国立博物館(National Museum of Afghanistan)
かつて、この博物館は世界最高の美術館の1つと見なされていた。
カブール中心部の南西にある。カブール博物館の名としても知られる
アフガニスタン国立博物館は、1919年にアマヌラーカーン の治世中に開かれた。
博物館のコレクションは、以前は中央アジアで最も重要なものの1つであり、数千年前の
100,000を超えるアイテムがあった。
ナジブラ 大統領の政府の崩壊と1990年代初頭の残酷な内戦の開始後、博物館は何度も略奪され、展示されていた100,000個のオブジェクトの70%が失われた。 
 1993年5月のロケット攻撃により、古代の陶器が瓦の下に埋もれた。 
 1994年3月、軍事基地として使用されていた博物館はロケット弾に見舞われ、大部分が破壊される。 
ラバニ大統領の政府の情報文化省は 、71人の博物館スタッフがさらなるロケットや砲撃から彼らを救うために、目録をカブールホテルに移動し始めるように命じる。
 1996年9月、博物館のスタッフは残りの資料の目録作成を完了させる。
 2001年2月と3月に、 タリバンは無数の芸術作品を破壊する。
 2001年11月に、タリバンがその年の間に少なくとも2,750の古代美術品を破壊したことが報告されている。 
 
 2007年以来、ユネスコインターポールは8,000以上の遺物の回収に貢献しており、
最新のものは、ドイツの石灰岩の彫刻である 。有名な1世紀のベグラム象牙など、約843
個のアーティファクトが2012年に大英博物館にイギリスから返されている。
  現在、博物館は国際基準に基づいて大幅に拡張されており、訪問者がリラックスして歩き回れ
るように、より大きなサイズの庭が隣接している。
 
 
ダルラマン宮殿(Darul Aman Palace)
ダルラマン宮殿は、アフガニスタンの首都カーブル近郊にある、現在は廃墟となった西洋様式の宮殿建築である。
1920年代初頭、近代化政策を進めたアフガニスタン国王アマーヌッラー・ハーンによって、将来の国会議事堂として建築された建物である。
宮殿は、アフガニスタンの首都の西部にある平らで埃っぽい谷を見下ろす丘の上にある印象的な新古典主義の建物です。 フランスとドイツの建築家によって設計されたこの建物は、セントラルヒーティングと水道水を手に入れた最初の建物の1つであった。
 
かつて輝いていたアフガニスタンの未来の象徴と考えられていたものが、今では爆撃され廃虚となっている姿がある。
 
他にもたくさんの見所があるが、省略しよう。
 
 
以上でアフガン編は終わろう。
 
 


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