カザフスタン 4 of 5


では、この国の歴史を遡ってみよう。
カザフスタンは、地形的にウズベキスタンの北~東側に広がる国なので、一部は、歴史を共有している。けれどもカザフスタンの方がウズベキスタンより、さらにロシアや中国に近いためロシアや中国の影響を強く受けた。
一方のウズベキスタンは、イランなどのペルシアの影響を受けたが、両国ともトルコやモンゴル民族の支配を受けた。
 
BC20C、ステップでの遊牧生活が始まる。
BC3C~1C頃、カザフスタン周辺に最初の氏族制の共同体が出現する。
6Cから8C、テュルク系(トルコ系)民族のハン国(モンゴル高原から中央アジアを中心とし
テュルク系およびモンゴル系の遊牧民王朝のこと)がこの地を支配する。
8C頃、スキタイ文明の繁栄。
スキタイはペルシア人からはサカ人と呼ばれていたが、言語的には同じイラン系民族に属すると考えられている。スキタイ人の存在はギリシアの歴史書にも現れ、ヘロドトスの『歴史』では詳しく記述されている。
9C~12C、カザフスタンの周辺地域に、オグズ人、キマク人、カラハニド人、キプチャク人
等が流入する。チュルク(トルコ)系遊牧民族の活躍。
キプチャク人とは、テュルク系遊牧民に起源をもつ部族集団である。
11C後半、セルジューク朝(イスラム化したトルコ人)との戦争が始まる。
12C前半、契丹(キタン、キタイとも読む。遊牧民族)の侵入が起こる。
13C初め、カザフスタン周辺は、チンギスハーン(モンゴル人)により征服される。
この征服のきっかけは、チンギス・ハーンが、この土地を支配していたトルコ系のホラズム王国の町オトラル(現、カザフスタン南部南カザフスタン州)に使節団を送ったが、オトラルの城主は使節団皆殺しにしたため、翌年の1219年、チンギス・ハーンは報復のためオトラルの町を攻め落とした。
この「オトラル事件」を機に、チンギス・ハーンの西方遠征が始まり、遠くヨーロッパまで遠征することになった。現在でも破壊の跡を知ることが出来る。
15C前半、アブルカイル・ハーンによるウズベク王国の形成。
15C中、ウズベク王国からの分離、ジャニベク、ケレイ・ハーンによるカザフ・ハン国の形成。
    この頃、カザフ民族の名が史上初めて登場したという。
カザフ民族はウズベク族と別れ、キプチャク草原(カザフスタン)に勢力を拡大し、
15世紀末には、カザフ・ハン国を建国した。
16C前半、カスィム・ハーンの下で領土拡大。
     16Cには、東はバルハシ湖、西はウラル山脈、カスピ海西岸までの、広大な領土を支配下におく。
17C頃、カザフ民族は、主として、大ジュズ(東部)中ジュズ(中部)、小ジュズ(西部)の3部族に分かれて草原に居住していた。
18C前半、ジュンガルとの戦いの中でカザフ人の一体性の意識が明確化。
 
1730年代~1740年代には、小ジュズと中ジュズは、ロシア国籍を自発的に受け入れ、ロシア人による入植が始まる。1730年代に、カザフの支配層の一部がロシア皇帝に臣従。
1735年、ロシアがウラル山脈の南端に、オレンブルグ要塞を建設し、カザフスタン経営の根拠地とする。
1783年~1797年には、カザフ人の反ロシア暴動が発生。
18C中頃、中国からも支配の手が伸び清朝への名目的な藩族国となって、勢力下に入る。
1820年代まで、ロシア帝国、南部を除くカザフスタンを直接支配下に収める。
1837年~1847年、ケネサルの反乱(カザフ人による対ロシア反乱)。
1850年~1860年代、カザフスタン南部がロシア帝国に併合,カザフスタン全域がロシアの支配下に(ロシア人農民の大量植民)。
1917年、ロシア革命後、赤軍の支配下に入る。
1920年、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国内の自治共和国として、 ロシア連邦共和国の一部として「カザフ自治ソビエト社会主義共和国(カザフASSR)」成立(首都オレンブルグ)。1936年まで存在した。
1924年、中央アジアの民族・共和国境界画定により国境線の変更。
1925年、首都をオレンブルグからクズィルオルダに移し,国名を「カザフ(カザク)自治ソビエト社会主義共和国」に変更。
1929年、首都をアルマティ(アルマ・アタ)に移転。
1936年、ソ連邦を構成するカザフ・ソビエト社会主義共和国に昇格。
1986年12月1日、アルマ・アタ事件(カザフ人共産党第一書記コナエフ解任に抗議するデモに対し,内務省軍と警察による弾圧)。
1990年4月24日、ナザルバエフ大統領就任。
1990年10月25日、共和国主権宣言。
1991年12月1日、大統領選挙が実施され,ナザルバエフ候補が当選。
1991年12月10日、国名を「カザフスタン共和国」に変更。
1991年12月16日、共和国独立宣言。CISに加盟。
1992年、カザフスタンは国連、欧州安全保障協力機構および経済協力機構に加盟。
1997年12月10日、首都をアルマティよりアスタナ(旧アクモラ)に移転。
1999年1月10日、大統領選挙が実施され,ナザルバエフ候補が再選。
2010年、2010年~2014年におけるカザフスタン共和国の国家産業・イノベーション発展促進プログラムが採択される。
ロシア、ベラルーシ、カザフスタンの関税同盟が成立。
カザフスタンは欧州安全保障協力機構の議長国に就任。
2019年3月19日、ナザルバエフ大統領が辞任を表明。
2019年3月20日、トカエフ上院議長が大統領に就任。
 
 
人口は、1,860万人(2019年度)。在外に1,000万人はいるという。
 
国内の民族は(2018年1月1日現在)、カザフ系(67.47%),ロシア系(19.76%),ウズベク系(3.18%),ウクライナ系(1.53%),ウイグル系(1.46%),タタール系(1.11%),ドイツ系(0.99%),その他(4.5%)。
「その他」の中には朝鮮系が入っているが、彼らの多くは現時点で3、4世代目となっており、民族的教育も育まれることがないため、母語である朝鮮語を話せない場合が多い。
ソ連時代の名残りにより、国内では現在もロシア語風の姓名を用いる世帯が多い。
現在、ロシア人はロシアへの移住により減少傾向にある。
以前はカザフ人よりロシア人の割合の方が高かったが、独立以降多くのロシア人が転出し、カザフ人の割合が徐々に増加し、逆転した。
さらに、カザフスタン政府が在外カザフ人の帰還を進めており、1991年から10数年で約百万人のカザフ人が移住してきている。
在外カザフ人は本国のカザフ人と比べ、よりカザフ文化を受け継いでいるが、それは本国ではソ連時代にロシア化が進んだためである。
しかし、それに反してソ連時代の名残りが根強いため、本国のカザフ人同様に人名にはロシア語風の姓名を用いる割合が非常に高いことが特徴となっている。
 
言語は、憲法ではカザフ語が国家語、カザフ語とロシア語公用語と定められている。
カザフ語は国語とされるが、カザフスタンにおいてカザフ語を話すことができるのは全人口の64.4%に過ぎない。
一方、ロシア語はロシア系のみならず、ソ連時代から95%の住民が使用しており、異民族間の交流語として、カザフ語と同様の地位を与えられている。
とりわけ都市部においてはロシア語を母語とし、カザフ語をまったく話せないカザフ人も多いなど、カザフ語よりもはるかに広く使われているのが実情である。
政府メディアを通してカザフ語の普及を図り、政府機関などでは積極的に使用されているものの、効果は現れていない。
カザフ語に関しては、同じ中央アジアの旧ソ連国家であるウズベキスタントルクメニスタンウズベク語トルクメン語に行ったような、キリル文字からラテン文字への切り替えを進めており、ナザルバエフ大統領は2025年までの完了を命じている。
当然ながら、カザフ語と共に公用語である国内ではもっとも広範囲に使われているロシア語はキリル文字表記のままであり、公用語から除外されるわけでもない。
カザフスタンはヴォルガ・ドイツ人の移住・追放先の一つであったため、現在でも全人口の1.1%ほどにあたる18万人がドイツ語を話す。
 
宗教は、イスラム教(70.2%)、ロシア正教(26.3%)、仏教(0.1%)、その他は無宗教という。
また、一般的にはイスラム教が浸透しているカザフスタンだが、お酒は飲める環境にある。
昨今、カザフスタンの国内でも上質のワインが製造されるようになっている。フランスから技術を取り入れて、今やワイン通も感心するほどのワインが造られるようになってきたのだ。
カザフ人は高度に発達した遊牧民としての文化があった。
が、8世紀、アラブ人が当時のカザフスタンにあたる地域のカザフ人と交流するようになると、この地はイスラム教の影響を受けるようになった。
現在は旧ソ連中央アジアの中でもっとも文化的ヨーロッパ化された国と言える。
ロシア語話者も多く、イスラム教徒であっても戒律を厳格に守る者は少ない。
 
義務教育は6歳からの8年間と定められている。国民の識字率は国民全体の98.4パーセントと非常に高い。
なお、カザフスタンは中央アジアにおいて国立大学の数が非常に多く、国際学校も豊富に揃っていることが特徴である。
 
以上
 
5 of 5に続く、
 


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