アルバニア共和国 (4 of 5)

 14世紀以降、東ローマ帝国の衰退とともに、幾つかの国に支配された後、オスマン帝国
による侵攻が始まる。

ここで、現在アルバニアで発行されている5000レク紙幣に肖像が使用されている
スカンデルベグ(Skanderbeg、1405年 - 1468年1月)を語ろう。
スカンデルベクは、中世アルバニアの君主であり、オスマン帝国に抵抗した民族的英雄
である。
本名はジェルジ・カストリオティ(Gjergj Kastrioti)で、通称のスカンデルベク
アルバニア語ではスケンデルベウ Skënderbeu)はトルコ名のイスケンデル・ベイ
(İskender Bey)に由来する。
アルバニア中部の領主ジョン・カストリオティ(Gjon Kastrioti)の子。
1423年頃、父がバルカン半島で勢力を広げるオスマン帝国に臣従したため兄弟と共
人質となり、イスラム教に改宗。ムラト2世の宮廷に仕える騎士として
東ローマ帝国セルビアハンガリーとの戦いに従軍し、その勇敢さから
アレクサンドロス大王に因なんだスカンデルベクの名を受けた。
1437年頃、父の領土を封土(ティマール)として与えられてアルバニアに帰国。
オスマン帝国の支配下でアルバニアの軍司令官となるが、1443年にオスマン帝国
に反旗を翻した。
スカンデルベグはキリスト教に再改宗してヴェネツィア共和国ナポリ王国
ローマ教皇の支援を取り付け、アルバニアの北半を統一。
1450年1466年にはムラト2世とメフメト2世の派遣したオスマン軍を撃退
することに成功し、25年間にわたって独立を保った。
1468年にスカンデルベグが病死した後もアルバニアは12年間にわたって独立
を維持したが、1480年、最終的にオスマン帝国によって併合された。

スカンデルベクは、同時代のハンガリーフニャディ・ヤーノシュワラキア
ヴラド・ツェペシュと並んで、オスマン帝国のヨーロッパへの拡大を遅らせた英雄
と見なされる。
19世紀アルバニア人の民族意識が高まると、オスマン帝国からの独立を目指した
スカンデルベクは民族的英雄として高く評価されるようになり、アルバニアの独立
運動と国民統合に大きな役割を果たしている。

こうして、スカンデルベクにより、一時的に侵攻は阻止され、独立が守られるが、
1478年にはオスマン帝国の完全支配下に入った。
以降、400年間にわたるオスマン帝国支配の下、アルバニアにおける風俗や風習は
多大な影響を受けることとなった。
特に地主をはじめとする支配階級によるキリスト教からイスラーム教への改宗が
相次いだため、同じオスマン帝国支配下にあったブルガリア等とは異なり、
現在アルバニア人の半数以上がムスリムであるといわれる。
もっとも、アルバニア人の多くはキリスト教徒から改宗した出自のためか、現在も
家にイコン画を飾る風習など、正教会カトリックとの共通点を多く持つ。

長期にわたるオスマン帝国の支配の影響から「アルバニア人」意識の形成が遅れたが、
19世紀末には民族意識(ナショナリズム)が高揚し、1878年プリズレン連盟
(アルバニア国民連盟、プリズレンは現在のコソボにある都市の名)結成以降は
民族運動が相次いだ。

第1次バルカン戦争の後、1912年イスマイル・ケマルらがオスマン帝国から
の独立を宣言する。
そして、アルバニア公国の国境線(1912年 - 1914年)が提案された
しかし、列強に独立は認められたものの、国境画定の際にコソボなど独立勢力が
「国土」と考えていた地の半分以上が削られた
1914年ドイツ帝国貴族ヴィート公子ヴィルヘルム・ツー・ヴィートに迎え、
アルバニア公国となったものの、第一次世界大戦で公が国外に逃亡したまま帰国し
なかったため、無政府状態に陥った。
1920年君主不在のまま摂政を置く形で政府は再建されたが、その後も政情は
不安定であった。
1925年共和国宣言を行いアフメド・ゾグー大統領に就任した(アルバニア共和国)。
その後、ゾグーは1928年に王位についてゾグー1世を名乗り、再びアルバニアには
君主政アルバニア王国が成立した。
1939年4月7日、アルバニアに上陸したイタリア軍は簡単な戦闘の後、 全土に進駐
し、ゾグーは王妃と共に亡命する(イタリアのアルバニア侵攻)。
イタリア王国との同君連合という形で国王にはイタリアの国王が即位し、親伊派の
傀儡政権が置かれた。
1940年第二次世界大戦時にはイタリアによるギリシャ侵攻(ギリシャ・イタリア戦争
ないしギリシャの戦い)によって南部の各地域が激戦地となった。
翌1941年には、イタリアは同じ枢軸国であるナチス・ドイツなどとともに、アルバニア
北隣のユーゴスラビアに侵攻した。
独ソ戦も始まり、バルカン半島全体が戦場となった。
1943年、イタリアが連合国降伏すると、アルバニアはドイツ軍によって占領される。
1944年11月29日、アルバニアのパルチザンソビエト連邦軍による全土解放が行わ
れ、アルバニア共産党を中心とした社会主義臨時政府が設立された。
1946年、王政廃止とアルバニア人民共和国設立を宣言、エンヴェル・ホッジャを首班
とする共産主義政権が成立した。

1948年、アルバニア共産党はアルバニア労働党と改名する。
同年、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国コミンフォルムを脱退したことに伴い、
ユーゴスラビアと断交した。
1961年以降、ホッジャ政権は、スターリン批判を行ったソビエト連邦を「修正主義
と名指しで非難し、ソ連もニキータ・フルシチョフが第22回ソ連共産党大会に於いて
アルバニアを批判するも、出席していた中華人民共和国周恩来はアルバニアを擁護し、
中ソの路線の違いが鮮明になる。

ソ連と対立していた中華人民共和国に接近して大規模な援助を受け、この時期の
アルバニア軍は、兵士が中国人民解放軍六五式軍服に類似した軍服を着用し、
中国製の56式自動歩槍とそのコピーのASh-78を制式小銃に採用して59式戦車
J-6戦闘機なども配備されるなど、当時のワルシャワ条約機構軍を構成する周辺
諸国と比較しても異様な軍隊となる。

以上(5 of 5に続く)


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