EUの親の親-クーデンホーフ光子

クーデンホーフ光子とは明治時代に商家の娘からオーストリアの伯爵夫人になった黒い髪のシンデレラ・ガールである。

日本人でただ1人、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世と会話した女性でもある。

 

 

 クーデンホーフ光子こと青山みつは、東京府東京市牛込区牛込納戸町骨董品店を営む肥前国佐賀出身の青山喜八と妻・津禰(つね)の三女として生まれた。小学校を卒業後に上流階級の社交の場であった会員制高級料亭の紅葉館で女中として奉公をしていた。

みつは尋常小学校を出て、当時の商家の娘らしく三味線や唄、踊りなどを身につけていたが、異国の文化には触れたことはなかった。

 

骨董品店の近くにオーストリア=ハンガリー帝国公使館があり、駐日代理大使として東京に赴任してきたハインリヒ・クーデンホーフ伯爵もよく来ていた。

クーデンホーフ伯爵が騎馬で来た時、馬が氷の上で足を滑らし落馬したのを、みつ(光子)が看病したのが馴れ初めだという。

このハインリッヒに見初められ、大使公邸に小間使いとして奉公する。

 

1892年(明治25年)、周囲が大反対する中、18歳のみつ(光子) は15歳年上のハインリヒと結婚する。

東京府(当時)に届出された初の国際結婚と言われている。

ただ、この頃の国際結婚は外国人にあてがわれた現地妻という認識が強かったため、光子は実家から表向き勘当されている。

 

クーデンホーフ家はボヘミアハンガリーに跨る広大な領地をもつ伯爵家であり、クーデンホーフの一族は極東アジアからきた東洋人で仏教徒でもあった光子を奇異の目で見た。夫の家はハプスブルグに近い名家である。当然、貴族社会から反発を受ける。

ハインリヒは「光子をヨーロッパ人と同等の扱いをしない者とは決闘をする」と言い、光子の庇護に努めた。このようにハインリヒから非常に大事にされていたという。

 

長男・ハンス光太郎、次男・リヒャルト栄次郎の2人の子を東京でもうけた。書類が残されており、東京府(当時)に届出された初の正式な国際結婚と言われている。

結婚して4年を経た1896年(明治29年)に、光子は、夫の祖国であるオーストリア=ハンガリー帝国へと渡るる。その際には、昭憲皇太后から「異国にいても日本人の誇りを忘れないでください」と激励されている。

 

ハインリヒは子供たちが完全なヨーロッパ人として成長することを望み、日本人の乳母を帰国させ、光子に日本語を話すことを禁じた。

光子は多忙な夫以外に心を打ち明けられる人間がいなくなり、強烈なホームシックにかかってしまう。

ハインリヒは日本への里帰りを計画するが、長期間幼い子供たちと離れることは難しかった。

 

 

長男ヨハネスとリヒャルトが東京で生まれ、渡欧した後もさらに5人の子どもたちに恵まれたミツコ
(写真 チェコ国立プルゼニ公文書館)

 夫婦仲は非常に良く、光子は夫を「パパ」と呼んでいた。

18ヶ国語を理解し、特に哲学に関しては学者並みの知識を持つ教養豊かな夫と、尋常小学校を卒業した程度の学力しかない妻とでは教養のレベルの差がありすぎた。

子供たちのこと以外に夫婦でつながりを持てるものは少なかったが、光子も渡欧後に自分の無学を恥じて、歴史・地理・数学・語学(フランス語・ドイツ語)・礼儀作法などを家庭教師に付いて猛勉強した。伯爵夫人としての教養を身に付ける努力をしたのだ。

ボヘミアの丘の上にあるロンスペルク城で、新に5人の子供を産んでいる。


1905年
日露戦争の勝利により、日本の国際的地位が高まると、光子への偏見も和らぐが、翌1906年5月、夫が47歳のとき心臓発作で急死してしまったのである。

32歳の光子には2歳から13歳まで7人の子供(4男3女)が残された。遺言状には広大な領地と資産の全財産の管理、子供の後見人もすべて光子に託す、とあった。

 

 

 

父ハインリッヒが亡くなった後、南チロル・ブリクセンの学校に

通っていた頃の三男ゲロルフ(左より)、リヒャルト、ヨハネス、ミツコ

 

 

1914年に始まる第一次世界大戦では、オーストリア=ハンガリー帝国と日本は敵国として戦うことになり、光子への差別は強まった。

また、ハンスとゲロルフの2人の息子が兵士として従軍したり、光子自身も赤十字社を通しての食糧供出に奔走するなど多難な時期を送る。

 

第一次世界大戦でオーストリア=ハンガリー帝国が崩壊したことに伴い、クーデンホーフ=カレルギー家も過半の財産を失う。

光子は更に、1925年脳溢血により右半身不随となる不幸な生活を送る。

その後、ウィーン郊外で唯一の理解者であった次女・オルガの介護により静養の日々を過ごすようになる。

初代ウィーン総領事・山路章の娘・綾子(重光葵の甥である重光晶の妻)によると質素な暮らしだったという。

なお、次女オルガは母の介護のため婚期を逃し、生涯独身であった。

光子の唯一の楽しみは、ウィーンの日本大使館に出かけて大使館員たちと日本語で会話し、日本から送られてくる新聞や本を読むことであった。

その後、オーストリアはドイツに併合され、次男・リヒャルトが汎ヨーロッパの思想でドイツから犯罪者扱いを受けていたが、光子は日本政府に守られた。

 

さらに、1939年9月に始まった第二次世界大戦後はドイツ難民として中央ヨーロッパのあちこちへの放浪を余儀なくされた。

1941年8月27日、第二次世界大戦の火の手がヨーロッパを覆う中、光子はオルガに見守られながら息を引き取った。

遂に日本に帰ることはなかった。

葬儀の世話もまだ生存していたオルガの兄弟は何もせず、住んでいたアパートの住人が手分けして行う有様であった。

人生は生々流転である。

 

 

 

光子は、当時のオーストリア・ハンガリーを代表する貴族ハインリッヒ・クーデンホーフに嫁いだ日本人女性であり、ウィーンやパリの社交界で花形的存在だった。伯爵夫人として、母として、生涯をヨーロッパで過ごし、控えめながらも情熱的な美しさで、当時のヨーロッパ社交界のマドンナであった。

 

一方、ゲランの『ミツコ』ができたのは1919年、クーデンホーフ・ミツコが45歳の時であるが、ジャック・ゲランはこの神秘的な日本人女性クーデンホーフ ミツコさんの勇気ある情熱的な生き方に感銘を受け命名したという。

なお、どういうわけかスペルはMitsukoではなくMitsoukoとなったが。

 

 

1916年、ウィーン大学で学位を取得した頃のリヒャルト
(写真 チェコ国立プルゼニ公文書館)

 

この母親似の人物は、光子の次男リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー(日本名:青山栄次郎)(1894年11月16日 - 1972年7月27日)である。

日本東京で生まれたオーストリアの国際的政治活動家である。

そのクーデンホーフ家と楽曲家ワーグナー家とのかかわりは古い。

ハインリヒは夕食後の2・3時間、好みの楽劇の一節を歌うのが日課で、光子を伴って毎夏のように小都市バイロイトを訪れており、次男の名「リヒャルト」はワーグナーにあやかったものであった

 

リヒャルトは、1914年ウィーン大学に入学し哲学近代史を専攻。1917年6月28日にウィーン大学哲学科を卒業、同大学で哲学博士号取得。『客観性即道徳の基本原則』と題された卒業論文が博士論文として認められた。彼は哲学者になりたかったのである。

 

1914年に始まった第一次世界大戦では若干の胸部疾患があったので徴兵を免れた。オーストリア=ハンガリー帝国が第一次世界大戦に敗北して帝国内諸国が独立すると、一家は領地のあるチェコスロバキア共和国の国籍となり、兄で長男のハンスがロンスペルクの領主として領地・領民を治めることになった。一家の領地は多くが政府に没収された。

 

1915年4月に19歳のリヒャルトはウィーン大学在学中、15歳年上の34歳の名女優イダ・ローラン1881年-1951年)と駆け落ち同然に同棲を始めた。成人すると光子の反対を押し切って結婚した。

リヒャルトが城を去る時、交際に反対だった光子の「ライ、ライ、ライ」という叫びが城から響き渡ったと伝わる(日本語の「人さらい」がそう聞こえたとされる)。

イダの連れ子エリカ(Erika)はクーデンホーフ=カレルギー家の養女になった。

 

リヒャルトは、1923年(大正12)、最初の妻イダの資金で汎ヨーロッパ社(Paneuropa-Verlag)を設立し、1924年に発刊した同社の機関誌『Paneuropa』(汎ヨーロッパ)にてジャーナリスト・編集者として働く。

 

ところで、イダは生涯に3回結婚し、イダにはリヒャルトが最後の夫である。2度の大戦を一緒に生き抜いた妻イダは1951年に死去。

リヒャルトは、1952年にアレクサンドラ・フォン・ティーレ=ヴィンクラー伯爵夫人(1896年-1968年)と再婚し、1968年にアレクサンドラが死去後、1969年にメラニー・ベナツキー=ホフマン(1909年-1983年)と再婚した。リヒャルトに実の子はいなかったらしく、知られている義理の子は、イダの娘エリカと、2番目の妻アレクサンドラの息子アレクサンダー(Alexander)だけである。

 

イダとリヒャルト、左は小説家のトーマス・マン

 

 

さて、この次男のリヒャルトが提唱した“パン・ヨーロッパ運動”を語ろう。

父親のハインリッヒは海外生活が長く、18ヶ国を操る国際人だった。

クーデンホーフ家にはヨーロッパの名家らしく、既に16の国に祖先が

いる。そのため、次男のリヒャルトにとって父親の存在は、“ヨーロッパの化身”として映っていたのである。

母親の光子は夫のその精神の継承者として熱心に教育に励んだ。

 

而して、ヨーロッパ統合の源流は、第一次世界大戦後に遡ることが出来る。1922年にオーストリアの外交官であるリヒャルトは『パン=ヨーロッパ』を著し、大戦後に明らかになったアメリカ合衆国の優位と、ソ連というあたらしい勢力に飲み込まれないためには、ヨーロッパ諸国は統合されヨーロッパ合衆国になる必要がある、と説いたのである。

 

欧州統合活動はリヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーを嚆矢として1920年代から始まる。そのような情勢を背景として、地域の混乱を収拾すべく、リヒャルトによって提起され、台頭してきたのが、近代における汎欧州主義であると言える。

 


 

この背景には、彼の父ハインリッヒが仕えたオーストリア=ハンガリー帝国が、多民族から成る巨大国家で、あったことが挙げられる。

そして、語学の手ほどきや膨大な蔵書などから父の薫陶を受けただけでなく、遠い日本から来た母という異邦人の存在も大きかったのだ。

 

リヒャルトは『回想録』の中で、次のように述懐している。「欧州とアジアの子として、私たち兄弟と妹たち)には国々という発想はなく、世界を大陸として把握していた。欧州とアジアは大変違うけれども、同等の価値を持っていた。母はアジアを、父は欧州を具象化していたが、父をどこか一つの国の人間に定義することは難しく、欧州は一つで、そこが父の国であった」と記している。

 

1923年、リヒャルトは“ヨーロッパは一つ”、ヨーロッパ合衆国を

提唱した『汎ヨーロッパ』(1923年)を出版して、運動を広げ、ヨーロッパ議員連盟、ヨーロッパ共同体、鉄鋼連盟、欧州連合の嚆矢となった。

 

リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーが主宰し政治活動の拠点としていた汎ヨーロッパ連合(汎ヨーロッパ運動)もナチス・ドイツに弾圧され、1939年の春にフランス共和国の市民権を取得した。

以後、終生フランス国籍となる。1940年アメリカ合衆国亡命し、ニューヨーク大学のセミナー等をしながら汎ヨーロッパ運動を継続。1944年にニューヨーク大学教授に認定される。

米国亡命中には、クーデンホーフ家のかつての主君の末裔オットー・フォン・ハプスブルク公と協調して(クーデンホーフ家の源流はハプスブルク君主国と類縁の伯爵である)リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー自らを首班とするオーストリア亡命政府の樹立を画策し、米英両国政府に働きかけた。

 

 

 

 

歴史の潮流として、アメリカ合衆国の台頭や、第二次世界大戦による戦火とその後の植民地の喪失による欧州の没落・疲弊などもあって、この汎ヨーロッパ主義の考えは欧州内に広く浸透して行き、現在の欧州連合をはじめとする欧州統合活動全般を支える思想的基盤となっている。

 

第一次大戦後に始まり、第二次大戦後に具体化し、1950年にヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)が発足、1957年のローマ条約でヨーロッパ経済共同体(ECC)・ヨーロッパ原子力共同体(EURATOM)が結成された。

それらが1967年に統合されてヨーロッパ共同体(EC)となり、さらに1993年にマーストリヒト条約でヨーロッパ連合(EU)となった。

2002年に共通通貨ユーロの使用が始まって経済統合が進み、さらに

2009年にリスボン条約が発効して政治的統合も一定の枠組みでできあがった。イギリスが国民投票で離脱を決め、2020年に正式離脱し、EUは大きな曲がり角に来ている。

 

なお、マーストリヒト条約(オランダマーストリヒトに因む)は、欧州連合の創設を定めた条約で、1991年12月9日欧州諸共同体加盟国間での協議がまとまり、1992年2月7日調印、1993年11月1日ドロール委員会の下で発効した。

協議は通貨統合と政治統合の分野について行われた。本条約の正式名称は欧州連合条約である。

 

 

リヒャルトは、1923年の時点において、第一次世界大戦後の将来的な戦争と、ソ連側・米国側の分断を警告していた。

オーストリアと共に第一次世界大戦で敗れたドイツでは、1933年ナチス・ドイツが政権を握った。

ナチスは、ロンスペルクを含むズデーテン地方をドイツ系住民が多いという理由で、併合を企図して英仏に認めさせ、続いてチェコスロバキアを解体した。その前にはかつてオーストリア・ハンガリー帝国の中心だったオーストリアがナチス・ドイツに併合されていた(アンシュルス、独墺合邦)。

 

リヒャルトは、第二次世界大戦後、1946年ヨーロッパへ帰り、スイス山岳リゾートグシュタードに入った。エドゥアール・エリオ(フランス)、フランチェスコ・サヴェリオ・ニッティ(イタリア)、ヴィルヘルム・マルクス(ドイツ)といった大戦で不遇をかこった、旧知を含む欧州各国の政治家らと交流するなどして、汎ヨーロッパ主義への賛同を広げることに努めた。

 

1962年にオーストリア共和国から名誉大銀星勲章(Großes Silbernes Ehrenzeichen mit dem Stern)を受勲した。

1967年には生まれて間もなく離れた日本へも帰郷し、勲一等瑞宝章を受勲した。

クーデンホーフ=カレルギーの血族は途絶えていない。弟のゲロルフは孫のソフィア・ボウイ・マリー(Sophia Bowie Marie)とドミニク・コーネリアス・ヴァレンティン(Dominik Cornelius Valentin)の2人がロンドンで誕生し、弟のドミニクはオーストリア皇帝カール1世の曾孫と2009年に結婚した。

 

 

 

 

リヒャルトの死も伝えよう。

1972年にスイス国境付近のオーストリア国内にある村落シュルンスで死去。表向きの死因は脳卒中である。

彼の秘書ダッシュ女史によると、彼は自殺したという。彼が偉大であったため、人々を失望させないように彼の自殺は隠蔽されたようである。彼はオーストリアで死にたがっていた。

彼が死ぬまで代わることのなかったパン・ヨーロッパ連合のトップの座はオットー・フォン・ハプスブルク公が継承した。

 

リヒャルトの墓は、ゲシュタードのグルーベン地区、晩年を暮らした山荘を見下ろす場所にある。シュミット村木眞寿美の呼びかけで日本の造園家が墓の整備に協力。 傍らには石塔と、妻イダの棺を納めた小屋がある。

日本庭園の枯山水様式の石庭で、野生ブドウに覆われて、慎ましい佇まいである。彼が墓の碑文に偉大な称号を欲しなかったらしいことが伺われ、碑文はフランス語で「Pionnier des États-Unis d'Europe」(ヨーロッパ合衆国のパイオニア)だけである。

 

 

 

 

 

 

なお、私は、IBM-Austriaへ数回訪問しており、また当時の部下が結婚式をモーツァルトの生誕地であるザルツブルグのミラ・ベル宮殿で挙げた時、立会ったり等々、オーストリアには馴染み深い。

 

 

リヒャルトは友愛団体フリーメイソンリーの会員すなわちフリーメイソンであったことを伝えておこう。

フリーメイソンリー(: Freemasonry)は、16世紀後半から17世紀初頭に石工組合としての実務的メイソンリーを起源して起きた友愛結社である。

こうした職人団体としてのフリーメイソンリーは近代になって衰えたが、イギリスでは建築に関係のない貴族紳士知識人がフリーメイソンリーに加入し始めた。それと共に、フリーメイソンリーは職人団体から、友愛団体に変貌したのである。

リヒャルトが、汎ヨーロッパ運動を開始すると、ヨーロッパ各地のフリーメイソンリーが彼を後援に招くなど汎ヨーロッパ運動を支援した。

汎ヨーロッパ連合によると、1922年にリヒャルトはフリーメイソンのロッジに参加し、そのロッジとはウィーンにあるロッジ「人道」(Humanitas)であった。

リヒャルト以前に欧州統合へ言及したフリーメイソンは、例えば、ヴィクトル・ユーゴー である(1849年の平和会議

リヒャルトは、その後は中央ヨーロッパ、フランス、英国、米国のフリーメイソンリーと接触を続けた。

リヒャルトは、汎ヨーロッパ運動主催者であり、また友愛団体フリーメイソンリーの会員であったので、「Brüderlichkeit」(ドイツ語。ブリューダーリッヒカイト)すなわち「友愛」を思想として提唱した。そこに至るまでに特に大きな影響を与えたのが、彼の所属していたフリーメイソンのロッジ「人道」である

 

なお、リヒャルトは、フリーメイソンの理念である「友愛」(ドイツ語: Brüderlichkeit)という言葉を1937年の著書『自由と人生』(Totaler Staat Totaler Mensch)、1968年の著書『友愛の世界革命』(Für die Revolution der Brüderlichkeit)などに於いてその後も用いていた。

 

 

 

 以上

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