南海トラフに沈んだ核弾頭

ベトナム戦争中、南海トラフに沈んだ核弾頭(水爆)- 大地震で大爆発?

このテーマは流言飛語ではない。
思うに、小松左京の ‘日本沈没’ が発刊されたのが1973年、関東大震災のちょうど50年後にあたる。ベトナム戦争特需(終戦1975.4.30)も陰りが出てきて、高度成長が終焉を迎える頃であった。
そうすると、次の節目の大地震は、関東大震災の100年後、2023年前後か?

小松左京の原案は、‘日本人が国を失いジプシーの様に放浪の民族になったらどうなるか?’ であったという。日本列島沈没はあくまでもその舞台設定であったという。
そして、ジプシーはロマ語のみを話し、日本人は日本語のみを共通語として流浪する民となる。

現実味を帯びているのは、政府首脳が ‘難民受け入れ交渉’ と称し、我先に自分たち自らが海外へ逃亡する。
また、世界各国が余りにも多く押し寄せてきた日本人の受け入れに難色を表わし、拒否反応を示すのである。
最期に日本人が生活できる場所は東南アジアになるという筋書きであった。

日本という国には、陸域だけで約2,000もの活断層がある、いつ何が起きても不思議ではない。世界で稀有な地震・火山大国の島国であるが、誰もこの島々から離れようとはしない。
奇矯な民族性を有する島民である。だが、かつては海洋性民族であった。

さて、ソ連との冷戦時代、米国は7万個以上もの核爆弾を製造していた。
朝鮮戦争からベトナム戦争の約20年間に、米の核爆弾の事故が約700件も発生していたという。
こゥした事故を米軍部はブロークン・アロウ(核の紛失)と称し、トップ・シークレットとして隠蔽してきた。

ベトナム戦争中、横須賀へ帰還する途中の ‘空母タイコンデロガ’ が、奄美群島の喜界島沖南東約150キロを航行中、B43水素爆弾(核出力1メガトン)を搭載したA-4Eスカイホーク艦載攻撃機を海中へ転落させてしまった。

1965年12月5日のことである。
なお、この核出力1メガトン(1,000キロトン)という数字は、広島に落とされた原爆が15キロトン、長崎が20キロトンである。
そして、水爆は原爆を起爆装置として重水素を熱核反応させる。

この海中に沈んだ水素爆弾は広島型の約70倍の爆発力だ!

水没した正確な場所は、北緯27度35分2秒・東経131度19分3秒である。
水深約5,000メートルの深海という。
この時、米空軍は、核搭載機パイロットのウェブスター中尉の引き上げ作業すらせず、隠匿したのだ。

この中尉の正式名はダグラス・M・ウェブスターであるが、米国のベトナム戦争関連戦死者のリストにも載っていない。ワシントンのベトナム戦争戦没者慰霊碑の58,132人の中にも彼の名がない、全くの隠滅主義である。

この事故はベトナム戦争の最中で、日本のEEZ(排他的経済水域)内にあるが、当時、日本政府には何も連絡していない。
なお、この空母タイコンデロガはベトナム戦争の発端となったトンキン湾事件に際し,湾内に対峙していた艦船である。

下記に時系列的にこの事件の経過を示そう。
●1965年12月5日、ブロークン・アロー発生。
● 1981年、16年後にペンタゴン(米国防省)がこの事故を初めて公表。
ただし、事故現場は、単に太平洋上にとどまっている。

● 1989年5月7日、 このペンタゴンの公表から8年後に至って、米誌ニューズ・ウィークが「1965年に空母タイコンデロガから水爆搭載機が沖縄近海に水没し、海軍は事故をもみ消し」 、
と報道。
海軍機は1メガトンの水爆1個を搭載したA-4Eスカイホークと詳細記述。

● 1989年5月8日、グリーン・ピース(国際環境保護団体)が海洋汚染の観点から調査。
空母タイコンデロガの航海日誌から奄美群島の喜界島沖の海底と究明。

● 1989年5月24日、 第114回国会、外務委員会の衆議院会議。
 下記に、長くなるがこの与野党議論の議事録を転写してみよう。

Quote

○ 河上委員(社会党) 日米関係という点から見まして、最近起きました水爆機の沈没に伴うさまざまな問題でございます。
 日米安保が日本外交の基軸であるという考え方は、この委員会でも何度も伺っているわけでございますが、ここに二十四年前の事件が明らかになりまして、これはもう過去のことだから水に流すということではなくて、
こういう問題をきちんとすることが本当の日米関係を確立するゆえんではないか、こんなふうに思うのです。
先ほどちょっと私が触れましたように、米ソ間ではキューバ危機のようなことについてさえ、お互いにあるものを全部出し合って、秘密文書も出し合って討議して、二度とこういうことが起きないようにしよう、こう言っている世の中でございます。
日米関係で、この事件について、アメリカも日本も知り得る資料は全部出し合って、どうしてこういうことが起きたのか、今後再びこういうことが起きないようにしなければいかぬ、そのかぎはどこにあるかということを討議するのが至当ではないか、私はこんなふうに思うのです。それをあしたにやれと言っても無理かもしれませんけれども、ひとつ姿勢としては、そういうふうに切りかえていかないと、何度も聞いているように、アメリカが言ってこないからないんでしようというようなことでは済まない、私はそのことを強く大臣に申し上げたいと思うのです。大臣、いかがですか ?
○ 宇野国務大臣(宇野宗佑) 事故そのものに関しましては、やはり核物質の問題もございますから、直ちに外務省が中心となりまして、一応アメリカの報告を受けて、その報告に基づいて、我が方としてはまだこれだけ照会事項はあるよということを各省庁でまとめてほしい、ようやく昨今まとまっておると思います。
やがてこれを外務省で整理整とんして、照会すべきことはきちっと照会しなくてはいけない、かように思っております。
 そこで、その船が核を積んでいて横須賀へ入った、それに対してどうかというような問題でございますが、我々といたしましては、地位協定に基づきまして事前協議というものは確立されておりますから、アメリカからそうした核持ち込みの話がない限りは搭載されておらない、これが私たちの今日までの姿勢でございますし、今日その姿勢を変える所存は全くございません。
だから、その当時もそうしたものがアメリカからなかったわけでございますので、私たちといたしましては、そうした安保条約上の信頼性の確認のためにも、このことに関しまして従来の姿勢を国会において御説明申し上げておるというところでございます。
○ 河上委員 至急どういうことをアメリカに問い合わせているかということもこの委員会にはっきり御報告願いたい。これはぜひお約束いただきたいと思いますが、いかがですか ?
○ 宇野国務大臣 この件に関しましては重大な関心を日本政府は有しておるということを、私はこのことが起こりました当日に予算委員会で申し上げましたし、なおかつ国民の、また近辺住民の不安を早急に私たちは除去しなくちゃいかぬ。そのためには日本政府は可能な限りの経験者によるところのそうした会合を持ってもらって解明に当ってもらう、こういうふうに申しておりますから、したがいまして、このことはきちっと皆さん方にも御報告をしなければならないだろう、かように考えています。
 ○ 河上委員 大臣から非核三原則、それから事前協議、こういうことで御説明いただきまして、アメリカから報告ないしは事前協議がないから核は存在しない、したがって非核三原則は守られている、こういうようなお話でございますが、これはある意味においては二十世紀最高の論理的な傑作じゃないかと私は思っておるんです。
ところが事実は必ずしもそういう論理学のとおりになっていないわけでございます。
 余り時間がないので、私は事実関係だけをお尋ねして御答弁を求めたいと思いますが、一つは、空母タイコンデロガの元乗組員ウィリアム・レーン氏の証言、これは新聞に出ておりますが、「滑り落ちたあと、機体から外れて波間に十秒-十五紛間浮き沈みしながら「灰色の煙を噴き出し、一瞬爆発するのではないかと思った」というようなレーン氏の証言があり、またこの空母に核は五十個ぐらい積んでおったという証言をいたしておるのでありますが、この証言を事実として認められますか ?
○ 有馬政府委員(外務省北米局長) そのような報道があることは存じておりますけれども、今の一私人の発言につきまして、彼が申していることを事実として受け入れるわけにはまいりません。
○ 河上委員 この証言は、事故の二日後、一九六五年十二月七日に同空母は横須賀に入港したとしておりますが、この事実関係を日本政府は調査をしておられますか。もし調査していないとするならば、今後調査するとここでお約束していただけますか ?
○ 有馬政府委員 既に米側に照会いたしております。それから我が方でもできる限りの調査をいたしましたけれども、その確認を得るに至っていないということでございます。国民の特別な感情を承知しており、日米安保条約及び関連取り決めのもとでの義務を誠実に履行してきており、今後も引き続き遵守するとの趣旨を述べております。
○ 河上委員 アメリカ政府からの最初の説明というのは、外務省の有馬局長がさきに別な委員会でも読み上げておられたのをテレビでも拝見いたしました。
しかし、多くの国民は、果たしてあのとおりなのだろうか、例えば汚染の心配は全くないというのか。そんなことになりますと、国民の不安というのはなかなか消えないと思うのです。  

最後に、私もう時間がありませんので、そういうことを含めまして、四半世紀たつまでアメリカは一切沈黙を守っておった。事件が起きたことだけはもう既にわかった、認めたわけですから。この二十四年間、四半世紀アメリカは一切沈黙を守ってきたことを外務大臣としてはどうお考えになるか、それを伺って、私の質問を終わりたいと思います。
私は、二十何年間黙っておったがどうだろうとおっしゃる御質問に対しましては、今の核政策上、これはアメリカのずっと持ち続けてきた政策であるとしかお答えしようがない、かように思っております。ただ、汚染問題は我々といたしましても関心が深いのでございますから、この問題は当然究明をしていきたいということでございます。

Unquote

(この時の外務大臣は宇野宗佑で、のち総理となったが、‘小指’の件で69日で辞職している。
 社会党の河上委員とは河上民雄で、社会党委員長であった河上丈太郎の息子である。)

 このように、非核三原則がらみで、曖昧な応答を繰り返しているうちにやがて沈静化してしまった。メディアも政府寄りで、騒がなかった。
‘米国から何らの報告もなかった’、というのが日本政府の回答となる。
米国の回答には絶対的に反論しない、これが日本政府の従前からの立場である。
このように日本の近海に水爆が沈んでいるという事実が判明したのに、米国の意向に配慮して形式的な質疑だけで立ち消えになるとは驚きである。
日本のメディアはどこに隠れてしまったのだろう?
パイロットの遺体もコックピット内に座っているはずである。気圧の関係でどのように無残な死骸の有様かは想像し難い。
米国は遺族にどう説明しているのであろうか?
何故、政府は当時存在した潜水探査船 ‘しんかい6500’ で実地調査するという日本政府の総意に至らないのであろうか?
 スカイホーク機が真っ直ぐに海底まで沈んだとは限らないのであり、途中黒潮に流され南海トラフの浅瀬に漂っているかも知れないのだ。

私の半世紀は、南海トラフというコトバを見聞する度に、脳裏に突き刺さるインシデントであるのだ。

画像1

 

画像2

上記は、1966年1月、スペインのアンダルシア州、パロマレス米軍機墜落事故で引き上げられた水爆である。

1997年6月、「水爆搭載機水没事件-トップ・ガンの死」をノンフィクション作家であるドウス昌代氏が講談社から発刊、その詳細を記述している。
なお、ドウス昌代氏はノンフィクション作家として数々の賞を受賞している著名な方である。スタンフォード大名誉教授で日本近代史研究者のピーター・ドウズは夫。

● 2011年7月22日、 BS歴史館「暗号名 ブロークン・アロー-隠された核兵器事故」放映。

● 2011年8月、雑誌「軍事研究」で軍事評論家の野木恵一氏の同記事。

ここで、私がベトナム戦争中、米軍キャンプで将校(Major、空軍少佐)から聞いた話がこうだ。
それは、ベトナム戦争中に3個の核積載機スカイホークが日本近海で沈んでいるというのである。3個とは沖縄近海(前記)、日本海、太平洋だというのである。3個とも沈んだままという。
この話は、彼と軽く飲んでいた時の雑談中の一話題であり、またジョーク好きの男だったので、また冗談だろうと軽く受け流していた。

彼に依れば、米空軍ではそれ程珍しいことではなく、世界中で練習中のトップ・ガンが能力不足で誤って落としてしまうのだという。米ソ冷戦中である、世界中で核が飛び回っていたのである。
私が日本人で、IBM社員だからコンフィデンシャル情報を教えてあげるのだ、と耳打ちした。

ここでの雑談で日本人のグリーンベレー(Green Berets、特殊部隊)の故・三島瑞穂曹長もいたのである。グリーンベレーは米陸軍の超エリートのコマンドである。三島曹長はランボーのような精悍な顔付きではなく、優し気が漂った第一線のコマンドであった。話をいろいろと聞いたが、数々の死線を生き延びてきていた。ベトナム語も話せたのには驚いた。
日本人でもいろいろな人がいるものだ。彼も米軍基地にいた私の所在に驚いていたが。

概して、将校連中はベトナム戦争下でのイエロー退治は西部開拓時代のインディアン討伐程度と同一視していた。
そして、日本が原爆2個でギブ・アップしたので、ベトナムも最後は核攻撃で白旗を掲げるだろうと楽観視していた。
因みに、日本への3個目の原爆目標地は京都であったという。古都だから避けたという噂は真実ではない(駐日大使ライシャワーの発言)。

ベトナム戦争中には水爆積載空母が、日本の横須賀、沖縄の嘉手納を恰もフリーパスで軍港ないし軍事基地化してベトナムへの核攻撃の準備をしていたのだ(日米秘密協定に拠る)。
そもそも当時、空母タイコンデロガの乗務員全員が日本への核持ち込み禁止条項は知らなかったという。
一方、ソ連軍は沖縄嘉手納基地、横須賀基地を仮想攻撃目標としていたという。

日本人は自分のことしか関心がない。無知とは幸せである。

なお、水素爆弾(Hydrogen Bomb)は1950年1月トルーマン大統領が製造命令した。これは前年に原爆保有国となったソ連に対抗するためであった。
しかし、核兵器は一度使うと応酬合戦で人類滅亡という結果になることは米もソ連も当然に了知していた。

ところで、朝鮮戦争時のマッカーサー国連軍総司令官は中国、ソ連への原爆投下をトルーマン大統領に強弁に求めている。この二人は相性が非常に悪く、結局、マッカーサーは解任される。その後マッカーサーは大統領に立候補したが、彼のフィリピン時代の副官であったアイゼンハワーが大統領になっている。この時の副大統領がニクソンであり、核の使用とポーカー好きな海軍出の男であり、悪名高いウォータ―ゲート事件で辞職している。

なお、日本統治下のマッカーサーの言葉、”我々アングロサクソンが45歳に達しているのに、日本はまだ12歳だ” が記憶に残る。蓋し、日本は現在も12歳のままである。尤も、マッカッサーは極端なマザコンであったが。

ここで、ブロークン・アロー(Broken Arrow、折れた矢)という言葉をご存知であろうか?
ペンタゴン(米国防省)で使われている有名な暗号名で、‘核兵器の紛失’を意味する。
ブロークン・アロー以外にも下記のような暗号名がある。
Dull Sword  ダル・ソード   (切れない刀)、
Bent Spear  ベント・スピア(曲がった槍)
Rogue Spear  ローグ・スピア(核の強奪、国家権力以外の核兵器所有)
Faded Giant  フェイデド ジャイアント(消えた巨人)
Nuke Flash ヌク・フラッシュ(核の閃光)

ベトナム戦争は、危うく核戦争(第3次世界大戦)になるところだった。
1965年、米統合参謀本部は、中国との国境近辺まで攻撃目標をおき、もし中国が応酬してくれば国境を越え中国へ侵入、共産主義を潰すための核攻撃を行う戦略をジョンソン大統領に提言していた。国内外の反戦運動の拡大がジョンソン大統領を牽制させていたのである。

 1954年、世界を変えた56日間の闘いといわれるディエンビエンフーの戦いで、アイゼンハワー大統領は仏に2発の核兵器の提供を申し入れた。が、仏はこれを拒否した。
米国は日本を2発の原爆で黙らせた自負が、核脅迫でベトナム戦争は終結できるという外交戦術であった。
この裏にはインドシナ3国を日本と同様に米帝国の傘下に組み入れる国家戦略があったのである。
こうして、ニクソン大統領とキッシンジャー国家安全保障補佐官はベトナム政府とソ連の両方に脅しの合図を送っていた。ユダヤ国際資本の大番頭であるキッシンジャーはベトナムを ‘ちっぽけな四等国’ と呼び、イエローを蔑視していた。

実際に、米軍が核爆弾の使用を作戦したことがある。1968年1月のベトナム戦争最大の激戦ケサンの戦い(第2のディエンエンフーの戦いとも言う)で、17度線に近い米の軍事的要衝基地があった。この時、北解放軍は4万の兵力で米軍を囲み、また初めてソ連製戦車を使い、77日間の激しい攻防戦であった。
米政府は、このケサン防衛のため、核兵器の使用をウェストモーランド大将に密電までしている。もし、米が核兵器を使用すればソ連と中国が黙っているはずはなく、全面戦争に突入するため、両陣営の抑止力が作用したのであった。
結果的には、米は戦術的には勝利したが、最前線基地を放棄することになり、米市民に大きなダメージを与え、ベトナム撤退の声が大きくなった。

このイエローに対する認知力の欠如が、やがては 米国をして ”屈辱を避けるための戦” に変質させていくのである。。
なお、1954年の対仏ディエンエンフーの戦いは、(イエロー)蟻が(ホワイト)象を倒した1905年の日露戦争に匹敵するアジア主義の歴史的な勝利であった。

さて、私がこの奄美群島の喜界島沖でのブロークン・アロー事件を顕然と惹起するに至ったのは、2015年5月30日、小笠原諸島西方沖で発生したM8.1の682キロメートルの深発地震であった。
連動型地震と聞いたからである。ハッと瞠若驚嘆したのだ。
沖縄沖と小笠原父島、そして日本海の3ヶ所に核弾頭積載機が水没した、という当時の荒唐無稽な雑談に過ぎなかったが。
世界で最も深い地震で、震度1以上の揺れが47都道府県全てで観測され、沖縄でも韓国南部の全羅南道でも揺れを感じたという。
私は咄嗟に、ベトナム戦争時に米将校から耳にした核積載スカイホークの記憶が蠢いたのである。

大きな深発地震が発生すると、プレートの留め金が外れ、震源が浅い海溝型の大地震が誘発され、東海、南海と連動型の大地震が続発する。
あのA-4Eスカイホークが50年間もゆったりと黒潮で流され、南海トラフ、相模トラフ辺りに漂って、浅い海にまで流されているかも知れないのだ。水爆は? 放射能漏れは? ウェブスター中尉の残骸は? 次々と私なりの疑心暗鬼が沸き上るのである。
万々が一にも、小笠原諸島の近海地震から連動型大地震が発生し、この水爆が大爆発を起こすかも知れないのである。

南海トラフは四国の南の海底にある水深4,000メートル級のトラフ(深い溝)である。
黒潮の流れを説明しよう。フィリピンの東から発し、琉球海溝から九州東方沖へ、北東方向に進み室戸岬沖から駿河湾の御前崎沖へ、そして房総半島の東へと流れる。
黒潮は透明度が高く。黒潮大蛇行という大きな流れがある。
一体、水爆機はどの辺を漂っているのであろうか?
下手すると、静岡県の御前崎辺りで(髑髏の)ウェブスター中尉は日本を呪っているのでは?
呪いで地震を引き起こすかも知れない。

沖縄には1950年代半ばから1972年の復帰までに、核弾頭1,300個が配備されていた。
一方、NATO加盟国8ヶ国には1954年から3,000の核兵器が持ち込まれ、1971年には約7,300個まで達している。さすが軍事国家であり、警察国家である。
私は、それ以前に軍需・化学産業は儲かったと思わずにはいられない。

小笠原諸島(Bonin)の父島(Peel Islands)には1956年2月から1965年12月まで潜水艦発射ミサイル用核弾頭や地対空ミサイル用核弾頭が配備されていた。
硫黄島(Ioushima Island)には、巨大な滑走路があり、1956~66年まで核爆弾が配備されていた。日本の米軍基地が破壊されても硫黄島や父島は攻撃を免れると想定し、両島に秘密配備していたというのである。

冷戦時代はソ連、中国との核戦争に対敵するため、最前線基地が韓国、日本本土の基地であり、さらに硫黄島、父島から核爆弾の爆撃機を発進する軍事戦略だった。
日本は敗戦国である。戦勝国は自国主導で行動できるものと、特に米軍人パイロットは皆そう思っていた。しかし、パイロットの能力不足、操縦ミス、エンジン・トラブル、操縦系統の故障などで墜落する。
対ソ戦略で日本海にも盛んに飛んでいた。だから核積載機が落ちたのである。

私が米軍基地で空軍将校から耳にした、太平洋にも核爆撃機が沈んでいるという話も場所が硫黄島か父島なら辻褄が合うのである。
想定外だが、核弾頭の2個か3個がこの地域に沈んでいるかも知れない。

前述のブロークン・アロー事件に戻ろう。
再度、時系列的に追ってみる。
 1965年12月5日  事件発生(水爆、奄美群島の喜界島沖に沈む)。
 1981年       ペンタゴンが落下地点を太平洋と公表する。
 1989年5月7日    ニューズウイーク誌が沖縄沖と報道
 1989年5月8日    グリーン・ピースが奄美群島の喜界島沖と特定。
 1989年5月24日     国会・外務委員会。
 1997年6月    ドゥズ昌代「水爆搭載機水没事件」発刊

  ・・・・・・・

ここで、日本には独立行政法人 JAMSTEC (Japan Agency for Marine-earth Science and Technology、海洋研究開発機構)が 大深度有人潜水調査船 ‘しんかい6500’ を所有している。就航は1989年1月19日である。
潜航深度は6,500メートル、潜航時間は9時間、乗員3名である。
ということは、1989年5月24日に国会の外務委員会で質疑応答があった時に、既に‘しんかい6500’ は存在していたのである。
広島原爆の70倍もある水素爆弾が5,000メートルの深海で25年間沈んでいると知ったなら、何故、直ちに探知しようという発議がでなかったのであろうか? 米国への恭順か、遠慮か?
不可解である。
メディアはまた政府寄りか?
この時点から更に25年経ち、もう50年間、半世紀となるが、未だ誰も問題視しない。日本は既に負け組老人が徘徊する病人社会に劣化している。

上記のJAMSTECには、既に7,000メートル級の無人潜水艇が用意されている。
無人潜水探査機 ‘かいこう7000II’ 及び ”かいこう MK-IV”(11,000メートルまで潜航可能)である。

半世紀前に水没したままの水素爆弾を何故調べようとしないのか?
一刻の猶予もないはずだ。

2015年5月30日の小笠原諸島西方沖の深発地震の深度は682,000メートルである。メートルで表すと、いかに深い地点でのプレートのズレかが判る。
伊豆・小笠原海溝には深さ400,000メートルに硬い岩盤があるので、太平洋プレートが沈み込む際、ここに突き当たって崩れた可能性があるという。

過去の小笠原諸島西方沖の深発地震を示そう。

1951年7月  深度490キロ 規模M7.2
1968年10月  深度460キロ 規模M7.3
1970年5月    深度350キロ 規模M7.1
1998年8月    深度467キロ 規模M7.1
2000年8月    深度445キロ 規模M7.2
2010年11月  深度490キロ 規模M7.1

深発地震は大震災の予兆といわれるので、危険度は高いのだ。かつての関東大震災がそうであったが、今度は核爆発という未曾有の天変地異たるスーパー巨大地震が付帯しているのだ。
日本は、経済、経済と右往左往しているうちに、会社も人の命も一瞬で消えてしまう。
なお、地球表面の海と陸の割合は70.8対29.2であり、海は地球の体積の0.02%ほどしかない。

次に、世界の深海を順に示そう。
伊豆・小笠原海溝は世界で5番目、9,780メートルの深海である。
ここで、海溝(trench)とは6,000メートル以上の深い溝をいい、その以内をトラフ(trough)という。

1.マリアナ海溝     10,924メートル 太平洋(サイパン島も含む)
2.トンガ海溝         10,800メートル トンガの東側
3.フィリピン海溝    10,057メートル フィリピンの東側
4.ケルマディク海溝   10,047メートル ニュージーランドの北
5.伊豆・小笠原海溝     9,780メートル
6.千島・カムチャッカ海溝  9,550メートル
7.ヤップ海溝        8,650メートル 太平洋ヤップ島東
8.プエルトリコ海溝     8,605メートル プエルトリコ北側
9.チリ海溝         8,170
10.日本海溝        8,020メートル


地震用語も簡単に説明しておこう。
プレートPlateとは、卵でいうと外側の殻で、地球の表面を覆う、十数枚の岩盤のことをいう。地殻Crustは、プレートの上部分をいう。
プレートには、大陸プレート(約30~40キロメートル)と海洋プレート(約6キロメートル)あり、海洋プレートは大陸プレートより強固であり、両者がぶつかると海洋プレートは大陸プレートの下に沈むことになる。
ただし、場所によって多少の違いはある。
地球上のプレートは十数枚に大別される。
日本に関連するプレートは下記のプレートがある。

ユーラシアプレート
太平洋プレート
フィリピン海プレート
オーストラリアプレート
北アメリカプレート

さて、島国日本を改めて眺めると、人口が集中している大都市には0メートル地帯(満潮時で海水面より低い)が多い。
5年前の東日本大震災では、房総半島を迂回して東京湾に津波が発生、千葉の木更津市で2メートル83センチ、富津市で3メートル60センチを記録している。
もし、小笠原沖大地震から巨大津波がストレートに東京湾を直撃したらどうなるか?

大都会に住む人たちは、土地の高低感覚を喪失している。
不動産屋の甘い誇大広告に乗せられて高いローンを組み、0メートル地帯のエレベーター付き高層マンションに住んでいる。
大震災ではエレベーターは停止する以前に、ビルが崩壊するだろう。
人の命はあっけないものだが、日本民族は、出直して500万人位の人口(デンマーク、ノルエー、フィンランド等)から再生すべきという意見もあるが。

何よりも地下鉄が0メートル地下を走っているのである。地獄絵図になることは想像に難くない。
要は、都会の砂、浜、谷、島、窪、池とかいう名の付く埋め立て地域には住むべきではない。

それでは、3大都市圏の0メートル地域をみてみよう。

●東京湾(横浜市、川崎市~千葉市) 
  面積 116平方キロ
  人口 約180万人、

●伊勢湾(濃尾平野、川越町~東海市、桑名市)
  面積 336平方キロ
  人口 約100万人

●大阪湾(芦屋市~大阪市)
  面積 124平方キロ
  人口 約140万人

・・・と、いくら日本人に危機感を訴えても誰も動かず、現状維持を保つだけである。
日本人の集団志向特有の‘赤信号、皆で渡れば怖くない’、という‘認知バイアス(risky shift)’に同調して、レミングの集団自殺のように溺れ死ぬかも知れない。
そして、私の様な傍観者が多ければ多い程、心理的に‘傍観者効果’が現れ、積極的行動が起こせなくなってしまうものだ、と心理学者はいう。
しかし、大地震に関しては、‘赤信号、皆で渡れば、皆、死ぬ’、ことになろう。

例えば、江戸時代の1707年の宝永地震では南海トラフ大地震が発生し、その49日後に富士山が大噴火した。既に富士山は300年以上もマグマを溜め込んでいるのだ。
小松左京のストーリーが現実化する?

東日本大震災で15,894人の死者が出たが水死が91%だった。未だに行方不明者が2,523人もいる。両親や先祖の墓も一切流された。

日本人は想定外という便利な言葉が用意されているので、誰も責任は負わないで済む。
全国に2,000以上もある活断層を予測するのは難しい、しかし原発の再稼働にはその予知データが必要である。54基もの原発があったのだから驚く(世界3位)。

終戦後、日本に進駐したGHQが地震の多さに驚き、地震予知研究計画がスタートしたという。予知不可能というと国から地震研究予算がつかないため、御用学者たちはこの大震法の下で予知不可能を逸脱した予測を国に提示しているだ。そして、原発再稼働となる。誰もが既得権益は絶対離さない。

1995年の阪神大震災、2011年の東日本大震災も予知学者たちは敗北宣言した。先般発生した熊本地震では2週間で震度1以上が1,000回超と発生し続けているが、過去に例がないという。
日本、全くお手上げである。実に怖い。
明日の地震は誰にも予知できないのである。
要は、日本列島が崖っぷちに存在するということをユメユメ忘れてはならない。それではどうするか?

これまで、太平洋側だけを考察してきたが、日本海側もリスクが高い。
日本は、昔年以来の‘大地変動の時代’ に突入しているのである。

冒頭に述べたように、小松左京が語る様に、日本沈没後、日本人はジプシーの如く各国で疎まれながら(日本語)集団で流浪した末、最後は東南アジア地域に安住の地を見出すのである。
日本人は、皆と一緒なら怖くないのである。
しかし、互いの僻みと嫉妬心は世界一と言える。

心ある人は次世代のために新しき住処を用意しておくべきであろう。
今なら、東南アジア各国では日本人なら好意的に迎えてくれる。
有り難いことである、日本人というだけで歓迎してくれるのである。
長期的に住むとなれば、それこそ大歓迎である。

インドチャイナ3国を地震という点から簡単に述べてみよう。

●ベトナム ;南部サイゴンはない。
        北部ハノイは山脈があるので、稀に揺れる。
        フィリッピンからの台風は中部以北に流れる。
        農業人口は62%。

●カンボジア;地震は全くないが、代わりに水害である。
        農業人口は65%。

●ラオス  ;南部の都市部はないが、北部は山脈地域のため度々揺れる。
        海がないので、津波の心配はない。
        農業人口は74%。

スローライフ、ロハス的生き方を模索する時代でもあるが、
日本の田舎では過疎化と老齢化(農業人口3%、平均年齢66歳)で自滅、
土に触れたことのない都会人が自給自足、地産地消の農業は覚束ない。
田舎に住んだが、近くのスーパーまで10キロともなると、全くの余所者である。まして、2,000超もある活断層の上で不安に怯えながら耕作しても
明日への生きる希望すら湧かない。

それではどうするかである?
日本人なら誰しも不安である、海外は初めてという人もいよう。
その時は私に個人的に何でも相談すればいい。
老弱男女どなたでも歓迎したい。

以上

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