サントメ・プリンシペ民主共和国

この国の名をご存知の人は少ないだろう。

“世界一知名度の低い国”と言われている。


しかし、下記に示す様に日本との接触があるのだ。

時は、2005年の愛知万博である。

長い道のりを経て来日したサントメ・プリンシペ国立歌謡舞踊団が、EXPOホールで

伝統あるダンスと音楽を披露した。

男女ペアになったダンサーたちが軽やかなステップを踏み、クルクルと回りながら愛を

表現するダンスを踊ったり、世界中で活躍する歌手のシンヤさんが、アフリカンダンス

のステップを踏みながら力強い歌声を披露し、島国の情熱的な文化を伝えた。

また、式典にはガウデンシオ・ルイシ・ダ・コスタ経済相が出席し、スピーチしている。

挨拶の中で「サントメ・プリンシペは開発途上の小さな国。愛・地球博への参加は困難

だと思われましたが、多くの人にわが国を知ってほしいという願いから参加を決めまし

た。ナショナルデーを迎えられ、とても光栄に思います」と話し、愛・地球博への参加

が、両国の発展につながることを強調した。

 

さらに、2012年7月3日、社団法人OPRT(Organization for Promotion of Responsible

Tuna Fisheries、責任あるまぐろ漁業推進機構)が外国研修生(海外漁業協力財団招請)

を招いいる。その研修生の一人にサントメ・プリンシペの研修生(漁業担当官)がいた。


この国を知らないで済む問題ではないだろう。


サントメ・プリンシペ民主共和国(Democratic Republic of Sao Tome and Principe)は

西アフリカギニア湾に浮かぶ火山島であるサントメ島プリンシペ島という2つの主島

と、その周辺の島嶼を領土とする島国である。

ガボン共和国の沖250 - 300km にある。

世界​地図​の​上​で​は,アフリカ​西岸​の​ギニア​湾​に​ある​小さな​点​の​よう​に​見え​る。

サントメ​島​は​赤道​の​ほぼ​真下​に,プリンシペ​島​は​その​やや​北東​に​位置​する。

面積は東京都の約半分、人口は約20万人で、その約90%がサントメ島に住んでいる。

国土面積の大きさはアフリカ54ヵ国中、53番目だ。

首都はサントメ(Sao Tome)。ポルトガル語諸国共同体である。

因みに、アフリカで最も小さい国土面積の国はセーシェルである。

 

サントメは、ポルトガル語で「聖トマス」を表し、ポルトガル人が来航した1471年7月

3日がキリスト教の「聖人トマスの日」だったことを記念して命名された。

「聖トマス」というのは、イエスの十二使徒の一人で、イエスが復活した時にイエスの傷

口に指を入れて初めて復活を信じたという言葉で知られる。

一方、プリンシペは「王子」の意味で、15世紀に海洋国家ポルトガルの基礎を築いたエン

リケ航海王子に敬意を表したものである。

 

国旗の由来は、この旗の配色にはエチオピア国旗に範をとった赤、黄、緑の汎アフリカ色が

用いられ、アフリカ諸国との連帯意識が体現されているほか、黒い2つの星は、国を構成す

る2つの島、サントメ島とプリンシペ島を表し、黒はアフリカ人としての誇りを表している。

また、赤・黄・緑の「アフリカの色」が用いられ、赤は独立闘争で流された血と犠牲を、緑

はこの国の重要な産物であるカカオと森林を、黄は豊かな国土を表している。

 

国鳥は、ヨウム科のトビである

体調は約30cm程度。トビは全長がオスで59cm、メスでは69cm、翼を広げると

157~162cmもある大型の猛禽(もうきん)類であるが、わりと身近に生息する。

知能が非常に高く、5歳児の知能を有することが証明された大型鳥である。

人の言葉を覚えることからペットとしても人気がある。

しかも話している言葉だけではなく電話の音などの電子音すら覚えるという。

人間とコミュニケーションを取ることも可能と言われており、なかなかすごい鳥である

しかも50年も生きる。


国土は全て火山島であり、最高峰はサントメ島のサントメ山(2,024m)。アフリカ大陸

カメルーン山(活火山)から赤道ギニアビオコ島アンノボン島に至るカメルーン

火山列に属する。

雨​が​多く,湿度​も​高い​ため,豊か​な​熱帯​雨林​が​広がり,2,000​m​級​の​山々​を​覆っ​て​い​る。

その土壌は火山灰がもたらす天然のミネラルを豊富に含んでいるため、農業に適した

環境を持つうえ、アフリカ大陸本土に向かう船の寄港地としてちょうど良い位置にある。

そのため、大航海時代に西洋人として初めてこの地を発見したポルトガル人が入植を推

進した。

 

サントメ山(ピコ・デ・サントメ、ポルトガル語: Pico de São Tomé)は、この国の

最高峰。標高2024m。サントメ島の西部に位置し、オボ国立公園に指定されている。

南東に国内第二のアナ・チャベス山がある。山容は森に覆われ、徒歩でしか登ること

ができない。

見た目は垂直な岩壁だらけに見えるが、ロッククライミングの技術なしで1泊2日の

登山で頂上まで辿り着くことができ、頂からは島の全景を眺めることができる。

この山の裾野に広がる原生林には、「アフリカのガラパゴス」と呼ばれるほど手つかず

の自然林や、非常に貴重な種のランとベゴニアをはじめ約800種の植物が観葉できる。

そのうちの約100種類はサントメの固有種である。

その他、原生林内ではバードウォッチングなども楽しむこともできる。

 

さらに、ピコ・カン・グランデ峰(Pico Cão Grande) (別名グレート・ドッグ・ピーク)

がサントメ島の南を占めるオボ国立公園の中にある。

針のように切り立つ火山岩栓で、平坦な地面から300メートル以上も聳えたち、頂上は

海抜663メートル、インパクトの強すぎるこの尖塔の山頂は、雲や霧に覆われていること

が多い。

なお、火山岩栓(頚)とは、火山活動によって火道(噴出口)で固まったマグマが、侵食に

よって削られて、火道内の岩栓が地表に現れた塔のような形成物のことを言う。

 

この山の登頂は登山というよりクライミングで、岩場は苔むしていて手が滑る上に、岩の隙

間に沢山ヘビが住んでいて登山者の手を噛むそうである。

この山に挑戦した者が言うには、雨が降ると岩がガラス瓶みたいに滑るそうである。

加えて、カオン・ペッケーノ(Cão Pequeno)という小型版もあり、こちらもヒンズーの

リンガにしか見えないという。

噂ではこの奇怪な山の頂上に初めて到達したのは日本人の登山グループであるという。

 

なお、首都サントメにある5つ星リゾートカシノホテルである「ペスターナ・サントメ・

オーシャン・リゾート(Pestana Sao Tome Ocean Resort)」では、カシ(ジではない)ノが

楽しめる。

 

サントメ島の南に浮かぶ小さな島、ロラス島にはちょうどこの島の真上を赤道が通っており、

見晴らしの良いビューポイントには赤道の碑が建てられている。島には唯一のリゾートホテ

ルがあり、ポンタ・ベレイア港からボートでしか足を伸ばすことができないが、訪れる人も

少なく、静かなリゾート滞在を楽しむことができる。

 

 

歴史的には、1469年、ポルトガル人が上陸する。島は無人島であった。

ポルトガルの探検家Joao de Santaremは、アフリカ開拓の足掛かりとしてこの島が最適で

あると考え、この島への入植を決めた。

1486年、初めての入植者が足を踏み入れたが、それはポルトガルの牢屋に入れられていた

罪人であった。以来、この島は罪人を収容するための島とされた。

16世紀に入り、ポルトガル王室によってサトウキビの栽培が開始された。

同世紀末には、砂糖の生産が確立し、その労働者のほとんど全てがアフリカ大陸から連れ

てこられた奴隷であった。

1530年、最初の抵抗暴動が起こり、植民者らはより抵抗の少ないブラジルへ(同じ公用語)

と移動していったが、奴隷貿易を伴った砂糖生産は当時の経済の大きな支えであることに

変わりはなかった。

1537年、ポルトガルによる完全な支配が開始される。しかし、流行病の影響により、

この島の人口が減少するのと同時にサトウキビ栽培も衰退していった。

1800年、コーヒーの登場によって大きな変貌を遂げた。

19世紀の終わりには、世界のコーヒー生産の11.5%がこの島で行われたほどであった。

この頃、カカオ生産も同時に開始された。

 

第二次大戦後からは国際社会が植民地という統治形態そのものを悪と見なすようになった

ため、本国は国際的な非難を回避しようと1951年に島々を「海外州」という地位に格上

げし、植民地ではなく本国の一部であるという建前を根拠に、支配継続を正当化しようと

した。

 

1960年、独立運動がサントメ・プリンシペ解放運動(MLSTP)により組織化され、独立に

向けての運動が本格化する。

1974年、ポルトガルでカーネーション革命(リスボンの春)が起こった影響で、ポルトガ

ル革命新政権は植民地からの撤退を決める。

1975年7月、サントメ・プリンシペは独立を達成。

サントメ・プリンシペ民主共和国が誕生した。9月に国連加盟。

初代大統領はMLSTPを指揮したダ・コスタ大統領が就任。

当初,ソ連,キューバに支援されたが、80年代半ばに非同盟を基本方針としつつ親欧米外

交に転換。独立以来ダコスタ政権が3期15年続いた。

この頃、内戦が勃発した同じポルトガル圏のアンゴラからの難民が多数移住してくる。

1985年10月、ダ・コスタ大統領3選。

2001年7月、 大統領選挙で、デ・メネゼス大統領を選出。

なお、2002年10月~2003年7月、マリア・ダス・ネヴェス(Maria das Neves)が、同国初

の女性首相となる。彼女は1958年生れ、サントメ・プリンシペ財務省で勤務後、アフリカ

開発銀行に勤めていた。

2003年7月、クーデター未遂事件。

政治腐敗と石油からの収入の配分の不正などを不満とする軍事クーデターが行われたが、

協議の後、メネゼス大統領は職務に復帰した。

2006年3月、国民議会議員選挙

2006年7月、大統領選挙(デ・メネゼス大統領再選)

2009年2月、クーデター未遂事件

2010年8月、国民議会議員選挙

 

 

住民は、こうした歴史を反映して、ポルトガル人との混血クレオール、ギニアからの入植

奴隷の子孫フォロス、アンゴラからの奴隷の子孫アンゴラレスなどが混住している。

人口的には大半がアンゴラレスによって占められている。

 

公用語は、ポルトガル語で、国民の大半が理解可能だが、標準的なポルトガル語は政府

機関や教育など公共性の高い場で使用されることが多く、国民の8割はフォロ語と呼ば

れるポルトガル語系のクレオール言語を日常的に用いる。また、ある程度の教育を受け

た層であればフランス語も通じる。

 

宗教は、キリスト教82%(ローマ・カトリック教会72%、プロテスタント諸派10%)、

無宗教14%、イスラム教3%である。

 

 

国内産業は、カカオ生産およびその輸出に依存する農業国。経済基盤は非常に脆弱で、世界

最貧国の1つ。旱魃や資本不足で生産量は落ち込み、経済不振が長期化。食糧や生活物資の

大半を輸入に頼る。重債務貧困国でもあり、2000年の対外債務残高は国民総生産 (GNP) の

460%にも達し、国家経済は事実上の破産状態。観光産業も未整備であった。

国連では後発開発途上国に位置付けている。

なお、後発開発途上国とは、国連が定めた世界の国の社会的・経済的な分類の一つで、

開発途上国の中でも特に開発が遅れている国々のことである。

略語として、LDC (Least Developed Countries) と表記される。

 

しかし、世界屈指の原油埋蔵量を誇るギニア湾に位置することから、油田開発が有望視されてきたが、隣国のナイジェリアにも鉱区の範囲が及ぶため権利関係のもつれを解消できず開発が遅滞していた。

2003年、ナイジェリアとの共同開発案がまとまり、鉱区の国際入札が行われ、シェブロン・テキサコ社が、翌2004年の入札では中国の巨大国営企業SINOPEC(中国石油化工集団)らが落札している。既に海底油田の開発が着手されている。

2016年、サントメ・プリンシペが台湾断交と中国との国交樹立した背景には、小国が生き延びるためのこうした政治的駆け引きが見え隠れする。

 

日本との関係は、1975年7月22日に国交を樹立した。

サントメ・プリンシペは、在ガボン日本国大使館兼轄している。

在留日本人数は、ゼロである。

 

 

最後に、サントメ・プリンシペのココアを事業化したポルトガル在の日本女性を紹介しよう。

日本女性は海外で飛翔するのだ。

 

須賀友子;サントメ・プリンシペのココアを独自のチョコレートに事業化した日本女性

京都市出身、現在、ポルトガルはアヴェイロ( Aveiro)に在住。家族は3人。

1967年生。京都市立紫野高出、経歴は、 文化服装学院 アパレルデザイン 、

 Universidade de Lisboa Língua portuguesa、セツ・モードセミナー 美術

 EPRTC- Escola Portuguesa de Reiki e Terapias Complementares Reiki Healingを

経ている。

現在、FEITORIA DO CACAO(フェイトリア・ド・カカオ)のGMである。

 

フェイトリア・ド・カカオは、ポルトガル人のスザーナと、ポルトガルに住む日本人女性

トモコが、サントメ・プリンシペを旅した日から始まる。

サントメとプリンシペでは、いくつかのコーヒー農園(Roças)を訪問し、ココアを生産

する人々と直接連絡を取る機会を得る。

衝撃的だったのは、チョコレートの甘くリッチなイメージとはかけ離れた、カカオ生産者

の苦くも貧しい暮らしの現実であったという。

温かく迎えてくれるサントメの人々の無垢な笑顔とやさしさ、自らの無知と世界の不条理

に対する暗澹たる思いが、2人の心に焼き付いたのである。

微力であれ、ココア農家とチョコレート生産者の間のギャップや経済的差異を減らすため

に貢献することがいかに重要であるかを認識する。

このようなサントメ・プリンシペでの得難く、忘れがたい体験と思いが、FEITORIA DO

CACAO(フェイトリア・ド・カカオ)のプロジェクトを立ち上げる力をくれたという。

 

それから約1年間、ショコラティエ及びチョコレートメーカーの専門講座を受講し、勉強

と調査を重ねながら、世界中の様々なカカオについて研究、試行錯誤を繰り返す。

そしてようやく、それぞれの産地のテロワール(土地)がもたらすカカオ独自のキャラクター

を宿した自分たちなりの製品を、完成させるに至った。

 

現在、フェイトリア・ド・カカオは、ポルトガルにおいて唯一のビーン・トゥ・バー・

ブランドであり、このカテゴリーにおけるパイオニアとなっている。

ビーン・トゥ・バー(Bean to Bar)とは、原材料のカカオ豆から板チョコが完成する

まで、すべての工程を一貫して行い、カカオのクオリティとチョコレートメーカーの

スタイルをより丁寧に、明確に反映した製品づくりが可能な製法をいう。

原料の個性を尊重し、製造プロセスすべてのディティールに細心の注意を払いながら、

カカオ豆から板チョコレートまで、極小ロットで造り上げるのである。

 

ポルトガルでは、チョコレートのアイデアを子供のためのシンプルな甘いものに変えたい

という。

なお、日本国内輸入販売元は下記である。

Cozy Plus Incorporate

神奈川県茅ケ崎市緑が浜12-10-802


以上

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?