アルバニア共和国 5 of 5

なお、ワルシャワ条約機構とは、1955年5月、ポーランドの首都ワルシャワで締結
された東欧8カ国友好相互援助条約に基づいて結成された。
ソ連を中心とした東ヨーロッパ社会主義圏(共産圏)の軍事同盟。通称WTO。
すでに1949年4月に結成されていた西側の北大西洋条約機構(NATO)に対抗する
軍事同盟である。
直接的にはソ連が同年の西側諸国のパリ協定で認められた西ドイツの再軍備とNATO
加盟に反発したためである。
加盟国はソ連ポーランド東ドイツチェコスロヴァキアハンガリールーマニア
ブルガリアアルバニアの8カ国。
東欧圏に属するユーゴスラヴィアは独自路線を採り、参加しなかった。
また、1968年にはチェコ事件でソ連に反発してアルバニアが脱退している。
冷戦期間はNATOと厳しく対立してにらみ合う状況を続けた。
同時に、東側諸国間での異端分子に対する抑圧にも動き、1968年、チェコ事件
際してはワルシャワ条約機構5ヵ国軍(ソ連・東ドイツ・ポーランド・ハンガリー・
ブルガリア)がプラハを制圧し自由化運動を抑圧した。
このとき、ルーマニアは派兵せず、アルバニアはソ連を批判してワルシャワ条約機構
を脱退した。
体制の締め付けを強化する必要に迫られたソ連のブレジネフ書記長は、制限主権論を
掲げて一国の利益よりは社会主義国共同の利益が優先され、社会主義国全体の脅威に
対しては共同して介入することは正当であると主張した。

1968年、アルバニアはワルシャワ条約機構を脱退し、実質的にソ連を仮想敵国とし、
極端な軍事政策を取ったわけである。

国民ほとんどに行き渡る量の銃器を保有する国民皆兵政策は、現在の治安状態に
暗い影を落としている。
更に、1976年からは国内全土にコンクリート製のトーチカ石灰石は国内で自給できる
数少ない鉱産資源のひとつである)を大量に建設し、国内の武装体制を強めた。
ホッジャの在任中、50万以上のトーチカが建設され、現在でも国内に僅かに残っている。
例えば、1970年代には核戦争を想定して、ティラナ東方の山腹に部屋106室、広さ2,685
平方メートルの大型核シェルターが建設された。

鎖国時代、ソ連を仮想敵国として、いつ攻められても対応できるように国中にこの様な
バンカー(核シェルター)バンカーを作りまくった。2~3人は入ることができ、コン
クリート製で頑丈すぎて壊すのが大変なので、そのままボコボコ放置されている。
今でも、いたるところに、おわんを逆さにしたような半球形のバンカーが点在している。

しかし、1967年、アルバニアは国内での激しい宗教対立を背景に内外に「無神国家
を宣言した。
共産圏では初めて、これは国民全てがいずれの宗教も信仰しておらず、そのため国内
にはいかなる宗教団体および宗教活動は存在しないという宣言である。
この世界に類を見ない強力な宗教の弾圧と排除が特筆すべきものになったのは、当時
のアルバニアの指導者エンヴェル・ホッジャが過激なスターリン主義者であったこと
と、アルバニアの国土面積と人口が旧ソ連や中国に比べて極めて小さかったこと、
1970年代から鎖国体制に入ったことなどによる。
そのため1970年代の鎖国体制以降、アルバニア国外では、アルバニアではどのような
宗教が信仰されているのか、どのような宗教活動が行われているのかは、不明という状
態となったのである。
1990年、信教の自由が認められた。
現在では多くの人々が穏健で世俗的なムスリム正教徒カトリックであり、異なる宗
教の信者間での結婚にいかなる制約もない。異教徒同士のカップルも少なくない。
一方、最近では、信仰する宗教が特に無いという人々が多数派を占めていると言われて
いる。

一方、農業や教育を重視して識字率を5%から98%に改善して食糧の自給も達成していた。
同年、国号を「アルバニア社会主義人民共和国」へ改称した。
1976年毛沢東主席の死によって中国で文化大革命が終息し、1978年鄧小平
改革開放路線に転換するとホッジャは中国を批判した(中ア対立)。
当時の経済状況から決して多くなかった中国の援助もなくなり、1980年代には、
欧州の最貧国とまで揶揄されるに至った。
当時の西欧各国の左派政党が採択していたユーロコミュニズム路線や隣国
ユーゴスラビアのチトー主義、更に社会主義国でも同様の独自路線を行っていた
ルーマニア北朝鮮 すらも批判した。
ホッジャは「アルバニアは世界唯一のマルクス・レーニン主義国家である」と宣言し、
事実上アルバニアの鎖国とも言える状況 を招いたのである。
体制の引き締めを狙って政府高官の粛清も行われ、ホッジャに次ぐナンバー2の
権力の地位にあったメフメット・シェフー首相は、1981年不可解な自殺を遂げている。
上記のように国際的な孤立を深める一方で、「ホッジャ主義」と呼ばれる独自の理論
を掲げたアルバニア労働党とその支持者たちは、主に第三世界の左派において大きな
位置を占めていた毛沢東主義者に対して、イデオロギー的に勝利することに成功した。
日本共産党(左派)ブラジル共産党コロンビア人民解放軍のようにホッジャの思想
に共鳴し、一時的ながら毛沢東主義より転向する勢力も現れた。

 勤労党(1991年に社会党に党名変更)による一党独裁の下に共産主義鎖国体制を
とってきたが、1989年から全国的に反政府デモが続発し、1990年より東欧改革の影響
を受け、ホッジャの後継者のラミズ・アリア1990年から徐々に対外開放、複数政党
制の導入等を開始し、民主化を始めた。

なお、この間に、それまで外交関係がなかった日本国との国交1981年に樹立して
いる。

1991年に国名を「アルバニア共和国」に改称した。アリアは経済の開放とともに
政党結成を容認したが、国内の混乱を抑えられず、1992年3月の総選挙によって、
戦後初の非共産政権が誕生し、民主党を中心とする民主政権が成立。
民主化後のサリ・ベリシャ政権は、共産主義時代の残滓の清算や市場主義経済の導入、
外国からの援助導入などを政策化し、国際社会への復帰を加速させた。

しかし、市場主義経済移行後の1990年代ネズミ講が流行し、1997年のネズミ講の
破綻で、国民の3分の1が全財産を失い、もともと脆弱を極めたアルバニアの経済は
一瞬で破綻した(アルバニアのネズミ講)。
多くの市民が抗議のために路上に繰り出し、詐欺から国民を守ることができなかった
政府への不満から暴徒化し、これによって政権が転覆し、無秩序状態となるという暴動
が発生した(1997年アルバニア暴動)。
暴動の発生を受け、暴動収束のための妥協案として同年中に総選挙が実施され、
アルバニア労働党を前身とするアルバニア社会党が与党となり、一応の沈静化を見
せたものの、未だ尾を引いているともいわれている。

EU加盟を最優先課題とし,2006年にEUとの間でEU加盟の前段階となる安定化・
連合協定を締結したほか,2010年12月にシェンゲン領域への査免が開始,2014年
6月にはEU加盟候補国の地位を得て,2020年3月には加盟に向けた正式交渉が開始
されることとなった。
なお、NATOには2009年4月に加盟している。

農業についても少し触れておこう。
アルバニアは山がちな地形にも関わらず、国土に占める農地面積が25.5%と高い
(因みに、日本は12.2%、アメリカは41%である)。
伝統的に農業従事者の比率が高く、政府は農業以外の産業確立に苦心してきた。
1940年時点における農業人口の比率は85%であったが、1989年には55%、2004年
時点では21%まで下がった。なお、農業人口の減少は同国の経済体制の変化にも
原因がある。
1946年に創設された集団農場は成長を続け、1973年には全ての農場が集団化
(社会主義化)された。
しかしながら、1991年に集団農業を放棄したことで、生産額が1年間に20%低下し、
一時的に大打撃を受けている。その後、農業生産は持ち直し、労働生産性が向上した。
主な生産品目は主食の小麦、生産額は2004年時点で30万トンである。その他の麦や、
トウモロコシジャガイモの生産も盛ん。地中海性気候に適したオリーブブドウ
ザクロクルミレモンメロンオレンジスイカも生産している。
食糧自給率については、1995年時点では95%と発表されていたが、2003年時点では
輸入に占める最大の品目が食料品(輸入の19.6%)となっている。
一方、近年では農産物加工品の輸出も盛んになりつつある。

輸出については衣類を中心とした軽工業が主体である。繊維自体の生産は小規模であり、
布・皮からの衣服の加工、縫製が主となる。
アルバニアの輸出に占める工業製品の割合は82.6%(2003年)に達する。
品目別に見ると衣類34.2%、靴などに用いる皮革26.1%であり、輸出工業品目の過半数を
占める。
この他の工業製品としては鉄鋼、卑金属が輸出に貢献している。
輸出相手国は、イタリアとの関係が深い(輸出の74.9%がイタリア向け)。
イタリアの繊維産業と深く結びついた工業形態となっていることが分かる。
イタリア企業向けのコールセンターが起業されるなど海外向けのサービス業の発展が
近年では顕著である。
ところで、ドイツで盗まれたベンツの9割はアルバニアにある、と言われているほど
(中古の)メルセデスベンツばかりである。
その他アウディ、BMWなどの高級車もたくさん。そのおかげで洗車屋商売が大繁盛
しているのだ(機械で洗うのではなく人が洗っている)。

以上

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