旧ソ連邦CIS編 ;キルギス (2of 8)

キルギス共和国(Kyrgyz Republic)、通称キルギスは、中央アジアに位置する旧ソ連邦の共和制国家。首都はビシュケク(Bishkek、旧名フルンゼ)である。
かつての正式国名はキルギスタン (Kyrgyzstan)であり、現在でもこの通称が公式に認められている。
キルギスの国土面積は日本の53%で、全体の40%が標高3000mを超える山国であり、93%が1,500m以上の高地である。
キルギス人は、主にキルギス共和国を中心として中央アジアに分布するテュルク系民族で、クルグズと自称している。
クルグズ(キルギス)の語源は40の意味で、40の民族を指し、また中国人にかつてグンヌィ(匈奴)と呼ばれていた背景から、それらを合わせてクルグズとなったと言われている。
キルギス共和国の約260万人のほか、周辺の旧ソ連邦諸国や中国の新疆ウイグル自治区などにも数十万人が住み、中国55の少数民族の一つに数えられる。
隣接している国々は、北はカザフスタン、東は中華人民共和国、南はタジキスタン、西はウズベキスタンなどがある。
 
 
キリギスは、東洋のスイスと比喩されるほど自然豊かな山岳地帯である。
キルギス主な産業の一つは観光業で観光ポテンシャルの強い国として世界に知られているからキルギスは観光事業を通じて世界のコミュニティに融合するいい方法であろう。
 
 
キルギスの一番魅力的なのは『中央アジアの真珠』、『天山の真珠』、『キルギスの海』と呼ばれ、キルギスが誇りとするイシク・クリ湖がある。いわゆる山岳湖である。
湖の南には天山山脈が連なり、天山山脈を越えれば中国新疆ウイグル自治区。湖の北にはクンゲイ・アラ・トー(クンゲイ山脈)が走り、クンゲイ山脈を越えればカザフスタンである。
2つの山脈に挟まれ、まるで山肌に隠されている風情である。
この広大な湖の名前は、キルギス語の《イシク(熱い)・クル(湖)》から由来する。
玄奨三蔵の記した書物「大唐西域記」にも“熱海”と記されている。
イシク・クリ湖は、イシク湖、イシククル湖、イスィククリ湖などとも表記される。ウイグル語の発音では「ウスク・キョル」となる。
透明度は20mを超え、世界で第2番目であり、最大深度は668mもある。
標高は1,606mという高地にあり、10万年以上存在する世界でも数少ない古代湖の一つである。
謎に包まれた湖で、色は吸い込まれるように青く、湖底には集落跡があり、青銅器や土器などが湖岸に打ち上げられる。なぜ集落が湖底に沈んだかは謎である。
イシク・クル湖周辺にかつて暮らしていた人々はアーリア系の白人であり、やがて、この地には東方からモンゴル系やトルコ系の人々が次々に移動して住みつくようになった。そういった多くの民族の遺跡がイシク・クル湖には沈んでいて、様々な民族の痕跡が発見されるのだという。
 
因みに、透明度世界第1位は、勿論、ロシアのバイカル湖であるが、何と透明度は42mで、さらに最大水深は1,600m以上という驚異的な数字が並ぶ。
 
イシク・クリ湖は、長さ182km、幅60km。面積は6,236 km2。周囲は688kmで、琵琶湖の9倍である。
湖の前方には遠く7,000m級の天山山脈が連なり、湖周りのどこから見ても南にそびえる天山山脈が見えるから景色は絶景だ。その向こうは中国、また、後方にはクンゲイ・アラトー山脈が連なり、その向こうはカザフスタンである。
 
周囲から流れ込む河川は存在するが、イシク・クル湖より流出する河川は認められない。
而して、塩分濃度は0.6%程度である。
標高が高く、冬季は厳寒の気候であるが、の水温は20度、の水温は3度程度ある。
塩分濃度が比較的低いにも拘らず、冬でも湖面は凍らない。
原因は不明だが、これは湖底から温泉が湧き出ているためという説がある。
イシク・クル湖周辺には多数の鉱山が存在し、また、旧ソ連時代から魚雷の試験場があったため、外国人の湖畔への立ち入りは禁じられていたので、“幻の湖”と称されていた。
しかしキルギスが独立した後は、貴重な観光資源としての活用が行われている。
通年凍ることが無いので、どんな季節に行ってもその絶景を堪能できる。
 
 
キルギス国土の93%は山、国土全体の90%は標高1,000m以上で、かつ全体の40%が標高3,000mを越えるレベルにあり、中国の新疆ウイグル自治区との国境にある「中央天山の宝石」と形容される天山山脈最高峰ポべーダ峰7,439m(露語、勝利峰)、ハン・テングリ峰7,010m、長さが62km、幅3kmを誇る中央天山最大のイニルチェク氷河が多く、キルギスに存在する河川水源のほとんどは氷河である。
 
ほぼ東西方向に並走する数条の山脈から成る。
天山山脈は、全長2,500キロメートル、中国内は約1,700キロメートル。標高4,000~6,000メートルで、山脈はおおむね北、中、南の三つに分けられる。
キルギス共和国はシルクロードの中心地で、パミール~アライルートのほか北と南にそれぞれ1本ずつ、合計3本のルートが通っているのである。
詳しくは、パミール高原の北から中国の新疆ウイグル自治区を東に走り、モンゴルとの国境近くまで延びる大山系である。
南・北両山麓のオアシス地帯は古来中国から中央アジアに通じる交通路であった。
 
下記の3本のルートがある、
・北天山山脈は氷河が発達し比較的雨量が多く、東方のボグダ山(5445メートル)の中腹1900メートルの地点には天池があり、針葉樹林帯が発達している。
・中天山山脈はやや低く、イリ河谷などの盆地が多い。湿潤な気候を示し、草原や耕地が広がり、牧畜、農業が盛んである。
・南天山山脈には天山山脈の最高峰ポべーダ峰(別名トムール峰、7443m)があり高山が多いが、乾燥地域で森林帯はほとんどみられない。
 
西部はキルギスタンと新疆を分かち,東部は北のアルタイ山脈との間にジュンガル盆地ジュンガリア)を,南の崑崙山脈との間にタリム盆地を成す。
 
ここで、天山山脈を徒歩で往復した三蔵玄奘法師を簡述しておこう。
『大唐西域記』は全12巻からなる玄奘の17年間の見聞録である。
三蔵法師とは、仏教の経、律、論に深く通じられた僧位の官名で、玄奘(げんじょう)が実名である。玄奘法師は中国河南省洛陽の出身の人である。
 
27歳(629年)にして、天竺(インド)へ求法の旅に出る。唐の都である長安(現; 西安)を出発。
河西回廊を経て、「生きては戻れぬ死の砂漠」と言われる灼熱のタリム盆地(タクラマカン砂漠)の北、敦煌、往来が禁じられていた西域を通る国法を犯して玉門関(ぎょくもんかん)を出て高昌からカラシヤールー、クチヤから天山山脈の南を通り、アコスから天山山脈の峠を越えて、「大清池」(イシク・クル湖)の湖岸を通り、当時の遊牧国家であった西突厥の破葉(スイヤーブ)城へ。
なお、砕葉(素葉)城は、イシク・クル湖の西側に位置し、現在のオアシス都市スイアブ(Suyab)内に、アク・ベシム遺跡(スイアブ城跡)として残されている。
 
さらに、タラス河のほとりを西へ、そして今の中央アジアのウスベキスタン国に入り、タシケントから南下してサマルカンドへ、なおも山地と砂漠の中を下ってワージラバート。
ここからヒンドウークシ山脈の天険そして石窟で有名なバーミアンの石仏を拝して、カイバー峠を越えてインドへ。
スリナガルからはヒマラヤ山脈を北に仰ぎ、ただ東へと道を取り、そして目的地のルンビニー、やっと釈迦生誕地へ辿り着き、そして釈迦の入滅地のクシナガラへ。
帰路はカーブルからバーナバートへ出て、天山南路を通りタクラマン砂漠の西の果てカシュガルから、砂漠の荒漠地を北に見て西から東へと向かい、楼蘭(ろうらん)から出発地点の敦煌へ無事到着した。
ここまでくれば自国の唐の国である。玄奘は629年に唐の長安を出て645年に帰国、その間17年間を要した。
後の明代(1580年)に、呉承恩が三蔵玄奘法師のインド旅行記を「西遊記」と名付けて、三蔵法師のお供に孫悟空、猪八戒、沙梧浄を従えて国の異なるしかも様々の妖魔の障害を排してインドに至り、大乗経典を得て帰るという物語りに仕上げた。
その西遊記は日本にも伝わり、これによって三蔵法師の苦難の大旅行が広く知られる様になったのである。
 
この三蔵玄奘法師が唐の国から遠い天笠まで大旅行を決行した時代は、 わが国では大和時代の孝徳天皇(645~654年)の時、奈良から智通、智達の二人の僧が唐へ渡り、大慈恩寺で玄奘から直接、法相宗の教えを直接受けている。 
 
 
略史を記そう。 
キルギス(クルグスとも表記)はモンゴル高原の北に広がる南シベリアの草原のエニセイ川流域で遊牧生活を送っていたトルコ系民族
現代のキルギス人とは違って目が青く、顔色が白くコーカソイド族であったが、やがて現在のキルギスのある天山山脈まで移動してトルコ系突厥の勢力下に入る。
匈奴を服属し、中国の漢代には結骨として出てくるが、その文化的影響と人種的混合が進み、トルコ化した。エニセイ川上流に残る突厥文字のエニセイ碑文はトルコ化したキルギスが残したものである。
突厥に次いでウイグルの支配を受けたが、840年、ウイグルの分裂に乗じてこれを滅ぼした。
 
その後、キルギス国家は13世紀に、モンゴルのチンギス=ハンに滅ぼされたが、キルギス人は西方に移住するに従ってイスラーム化されていった。
次に、ティムール朝(帝国)の支配を受けたが、ティムール朝がウズベク人の台頭によって滅亡した16世紀の初めに、ウズベク人の東に再びキルギスが登場してくる。
この頃は、バルハシ湖(現、カザフスタン)の南東岸セミレチェ地方を根拠にした弱小集団で、モグーリスタン=ハン国(東チャガタイ・ハン国の別称)やカザフ人の支配を受けていたが、彼らが現在のキルギス人の先祖にあたると考えられている。
18世紀後半から-19世紀の前半、コーカンド・ハン国(ウズベク系)に服属した。
 
なお、コーカンド・ハン国は、18世紀後半から19世紀前半にかけて、フェルガナ盆地を中心に中央アジアに栄えたテュルク系イスラム王朝。 現ウズベキスタン領フェルガナ州西部のコーカンドを都としてカザフスタンキルギスタジキスタンの一部に及ぶ西トルキスタンの東南部に君臨する強国に成長した。一時は清朝の支配する東トルキスタンにまで勢力を伸ばしたが、内紛と周辺諸国の圧力から急速に衰え、ロシア帝国に併合されて滅んだ。
1876年、ロシア帝政に併合
1910年代1920年代、ソビエトの支配下に入り、トルキスタン自治ソビエト社会主義共和国の一地域となる。
1922年ソビエト連邦が成立)
1925年 、キルギス自治州に改称。
1926年 、 キルギス自治ソビエト社会主義共和国 (1926-1936)に改称。
1936年、 ソビエト連邦を構成するキルギス・ソビエト社会主義共和国となる。
 
1990年、アカェフ大統領が就任
同年、ギスタン共和国に改名、国家主権宣言
1991年、国家共和国独立宣言
1993年、国名をキルギス共和国に変更
2005年、政変によりアカェフ大統領辞任   
2005年、バキェフ大統領当選
2010年、バキェフ大統領辞任
同年4月7日、首都ビシュケクを中心に野党勢力による数千人規模の反大統領デモが勃発。政府軍側の発砲により大規模な武力衝突となり、死者は少なくとも75人、負傷者は1,000人以上に達した。野党勢力は内務省や国家治安局、国営テレビ局などを占拠した。
翌日8日、バキエフは南部へ逃亡。その後に大統領を辞職してベラルーシに亡命する。
同年、議会選挙実施、オトンバェワ大統領就任(臨時政府)
2011年、アタムバェフ大統領就任
2017年11月、 ソーロンバイ・ジェーンベコフが第5代大統領に就任
 
人口約600万人のキルギスはロシア主導のユーラシア経済連合に加盟し、伝統的にロシアとの関係が強い。近年は中央アジアでの影響力拡大を図る中国との関係も深め、中国主導のアジアインフラ投資銀行(AIIB)には創設国として参加。
巨大経済圏構想「一帯一路」でも連携し、中国の無償・有償支援により多数のインフラ開発事業などが進められている。
 
 
地政学的に見て、キルギスを含め中央アジア諸国がロシアと中国という地域の大国との関係に意を用いずに発展することは難しい。
中央アジアでは、ロシアが政治・安全保障面を手当てし、中国が経済面で面倒を見る、という「分業」が成立しているようだ。
今この地域の安定を脅かしているのはイスラム過激主義の浸透である。
この地域でのテロの脅威が語られて久しい。
キルギスでは、2016年8月にウイグル人が当地の中国大使館を狙った自爆テロが発生している。キルギス国籍者が海外でテロ犯となっている事例もある。
シリアなどに戦闘員として出国したキルギス人は数百人とされ、キルギス政府は帰国する戦闘員を注意深く監視している。
我が国も国連薬物・犯罪事務所(UNODC)を通じ、過激主義対策に資金を拠出しているが、同時に、これらキルギス人の多くが貧困度の高い南部出身者であることを見ると、長期的には、過激主義の問題の根本的解決のためには経済的な発展が待たれる。
 
ところで、2015年10月、安倍首相がプラントメーカー、商社など50社の幹部を同行して中央アジア5か国を歴訪して、日本とこの地域の関係が深まったが、圧倒的なロシアと中国の影響力の中で、どの分野で日本の役割を伸ばしていくかが注目される。
現在、日本とキルギス共和国との交流は盛んではない。キルギスに在住の日本人は、大使館関係者かJICAジャイカで活動している人がほとんどで、あとはキルギス人と結婚した人が僅かにいて、ビジネス関係の人はごく僅かである。
ただ、日本からの中古車はキルギス内を走り回っている、お隣のウズベキスタンは韓国製のシボレーばかりだが・・・。
 
中央アジア諸国はいずれも親日的であるが、キルギスは格別である。
日本語学習者の数も単位人口当たりでは中央アジア一と見られている。
中央アジアは、先の大戦で日本が負の遺産を背負った北東アジアや東南アジア諸国と異なり、まっさらな白紙から信頼関係を保っている貴重なアジア民族の国々である。
キルギスも、日本の援助に謝意を表明しつつ、国際機関での選挙や決議の採択に際してしばしば日本を支えてくれるなど、国際関係の場で協力も良好である。
「日本の支援には野心がない」と言うキルギス政府関係者は多く、日本への好意と信頼は厚い。我が国はこれからも両国関係を大切に育てていくべきである。
 
以上
3 of 8に続く、

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