アフガニスタン1of 5



アフガニスタン・イスラム共和国、通称アフガニスタンは、南アジアまたは中央アジアに位置する共和制国家。首都はカーブル
目下、紛糾中で世界の関心を集めているアフガニスタン、北に中央アジアのタジキスタントルクメニスタンウズベキスタンが位置し、紐帯関係にあるので、この国は看過できない。
 
アフガニスタンは多民族国家である。
シルクロードの時代、「民族の十字路」といわれるほどいろいろな民族が通過し定住した。
谷が深く、谷ごとに違う民族が住んでいるといってよく、「アフリカ人以外ならすべてアフガニスタン人に化けられる」といわれるほどで、ほぼ独立した自治体制を営みながら、その集合体としてアフガニスタンという国を形作っている。
20以上の民族・言語が錯綜しながら一つのまとまりをつくる地域である。
主な民族は、パシュトゥーン人(狭義のアフガーン人)のほか、タジク人ハザーラ人ウズベク人トルクメン人などである。
 
ただ、厳格な超男性社会なので、女性だけのアフガニスタン旅行は絶対にやめるべきだ。

こういうデータがある、
“ジャーナリスト保護委員会によると、アフガニスタンではここ数年でジャーナリストの殺害が急増し、2018年だけで過去最多の13人が殺害された。1994年~2018年の間に殺害されたジャーナリストは少なくとも48人にも上る”のだ。
 
アフガニスタンの詳述に入る前提として、下記の2点を頭の片隅に入れておいて欲しい。
●まず、日本人として知っておいて欲しいのが、アフガニスタンには対人地雷が約1千万個も埋められているという事実である(この点、日本は平和であり、安全である)。
 
●アフガニスタンは、公然とケシが栽培されている。灌漑設備がないため農民は水が少なくても育つアヘンの栽培に従事している。
 
“アフガンで安全な人は誰もいない“ このコトバを脳裏に叩き込んでこの編を読んで欲しい。
 
まず、銃撃され、亡くなった日本人医師から語ろう。
(私から視点では、余りにも日本的な死だと思っているが・・・)
多くの日本人はご存知と思うが、アフガンで銃撃され、命を落とした日本医師である故中村 哲氏(1946年9月15日 - 2019年12月4日)の凄惨な事件である。
故中村哲医師はアフガニスタンでは高く評価されており、同国から国家勲章や議会下院表彰などが授与されており、さらに同国の名誉市民権が贈られている。
NGOペシャワール会現地代表、ピース・ジャパン・メディカル・サービス総院長、九州大学高等研究院特別主幹教授などを歴任した。
なお、NGOペシャワール会パキスタンでの医療活動に取り組んでいた医師中村哲を支援するために1983年に結成された非政府組織である。
死去に伴い、旭日小綬章や内閣総理大臣感謝状などが授与された。
アフガンではカカ・ムラド(ナカムラのおじさん)とも呼ばれていた。
一浪後九大医学部出、専門は脳神経内科の医者である。
神経科に入ったのは、人間の精神現象に興味があったからだという。高校の頃、極度のアガリ症で、教師に当てられただけで汗がわっと吹き出し顔が赤くなる。女性が前に座っていると自然に振る舞えなくなり、固まって動けなくなるくらいだったという。そのことでずいぶん悩み、それで哲学の世界に入り始め、読書に没頭していった過去の素性があったという。
“寡黙で男らしく、優しい九州男児を絵に描いたような人だった”というが・・。
母親は作家の火野葦平(“糞尿譚”や“麦と兵隊”等の小説家)の妹である。
父親の中村勉は、給仕として働いていたところ、その英才を松永安左衛門に認められて給費生となり早稲田大学を経て、再び若松に戻り、火野葦平と交流を深めた。
外祖父で若松において港湾荷役業を営んでいた玉井金五郎が映画『花と竜』のモデルとなった。
若松港(現・北九州港)の沖仲仕(おきなかし)を取り仕切る「玉井組」の組長であった。
祖父金五郎が亡くなった後、一家を取り仕切った祖母マンはしつけに厳しかった。火鉢の近くに泰然と座り、キセルでたばこを吸っていたという。
「率先して弱い者をかばえ」「どんな小さな命も尊べ」。折に触れて聞いたマンの説教が「自分の倫理観として根を張っている」と、中村さんは著書に書き残している。

災厄は、2019年12月4日、作業現場に向かう途中、武装した何者かに銃撃された。
詳細は、アフガン東部ナンガルハル州の州都ジャラーラーバード(首都カーブルから東へ約90マイル)において、車で移動中に何者かに銃撃を受け、右胸に一発被弾した。負傷後、現地の病院に搬送された際には意識があったが、さらなる治療の為にパルヴァーン州バグラームにあるアメリカ軍バグラム空軍基地へ搬送される途中で死亡した。なお、中村と共に車に同乗していた5名(運転手や警備員など)もこの銃撃により死亡した。
志半ばでの悲報だった。
 
葬儀が11日、故郷の福岡市であった。参列者はゆかりのあった人や支援者らで1,300人を超えた。会場正面に安置された中村さんの棺にはアフガン国旗がかけられた。その両脇には、中村さんとともに命を落としたアフガン人の運転手1人と警備担当の4人の遺影が置かれた。
医療支援から井戸掘り、用水路建設へと広げていった活動を辿った。参列者が献花する間、会場には中村さんが好きだったモーツァルトが流された。
 
ミッションスクールの西南学院中学校在学中に日本バプテスト連盟香住ヶ丘バプテスト教会(福岡市東区、当時は香椎伝道所)でF・M・ホートン宣教師よりバプテスマを受ける。
当時の香住ヶ丘教会はまだバプテスマが行われたことがなく、教会にとって中村は最初期の生え抜き教会員だったという
中村医師は、国内病院勤務ののち、1984年日本キリスト教海外医療協力会(JOCS)から派遣されてパキスタン北西辺境州の州都ペシャワールに赴任。
以来、20年以上にわたってハンセン病を中心とする医療活動に従事する。登山昆虫採集が趣味で、1978年には7000m峰ティリチミール登山隊に帯同医師として参加した。
パキスタン・アフガニスタン地域で長く活動し、戦乱に追われたアフガン難民の苦境を知り、両国で診療所を展開していく。
パキスタン国内では政府の圧力で活動の継続が困難になったとして、1983年からパキスタン、そして、アフガニスタンで活動する中で培われていたものであった。
転機は、2000年にアフガンで起こった大干ばつだった。乾きと飢えの犠牲者の多くは幼児。診療所の列を待つ間に腕の中で子どもが息絶え、呆然とする母親の姿は珍しくなかった。「もはや治療どころではない」。
止むに已まれず土木の勉強を一から始め、00年に井戸を、03年からは用水路を掘り始めた。
2003年には、長年にわたる貢献が認められ、「アジアのノーベル賞」といわれるマグサイサイ賞を受賞した。
また、皇太子ご夫妻時代の1971年にアフガニスタンを訪問されており、2004年5月に住まいの御所で、始めたばかりの用水路建設や現地事情をご説明している。

ソ連による侵攻(1979年~1989年のアフガニスタン紛争)、激しい内戦、アメリカなどによる空爆、そして相次ぐテロと、大国や国際情勢に振り回され続けてきたアフガニスタンにあって自らの信念に基づき翻弄される人々を救う活動を開始した。

2003年、中村さんは貧困問題を解決しようと、新たな活動を始める。
中村哲医師「前より、だいぶ水量が増えている」、山々の氷河を源流とする、アフガニスタン有数の大河、クナール川。干ばつでも枯れることがない、この川の水を引き込む用水路を作ることにしたのだ。
緑の大地計画。川から用水路を引き、水が届かない地域を潤す。全長20km以上。周辺の土地と砂漠を農地に変えていく、壮大な計画である。
資金もノウハウもない中、手探りの作業が続く、川の流れを変え、水路に水を呼び込むための工事。遠く離れた山から巨大な石を転がして運び、次々と入れていくのだ。
 
中村哲医師が医療から灌漑・農業支援へと活動を広げたのは、アフガンを大干ばつが襲い、農地が砂漠化するのを目の当たりにしたからだ。
病気の背景には食料不足と栄養失調があると考えて「100の診療所より、1本の用水路を」と、アフガン東部で用水路の建設に着手したのが2003年からだが、用水路は福岡市の面積のほぼ半分に当たる16,500ヘクタールを潤し、砂漠に緑地を回復させた。
今、農民65万人の暮らしを支えている。
 
 
中村医師は、武力ではテロは断ち切れない、その背景にある貧困の問題を解決しなければならないと考えていた。
「家族を食わせるために米軍のよう兵になったり、タリバン派、反タリバン派の軍閥のよう兵になったりして食わざるを得ない。家族がみんな一緒にいて、飢饉に出会わずに安心して食べていけることが、何よりも大きな願い、望み。」
こう言うのだ、「アフガン問題とは、政治や軍事問題ではなく、パンと水の問題である。人々の人権を守るためにと空爆で人々を殺す。果ては世界平和のために戦争をするという。いったい何を何から守るのか。こんな偽善と茶番が長続きするはずはない」と。
 
日本は、テロとの戦いの一環として、インド洋で海上自衛隊による給油活動を行っていた。
欧米の支援団体と差別化でき、安全につながると中村さんたちが車に付けてきた日の丸。かえって危険を招くと感じ、消すようになったという。
その上空を、アメリカ軍のヘリコプターが行き交うようになる。
中村哲医師は言う、
「攻撃用っていうんですかね。それが旋回してきて、ここを機銃掃射したわけですね。危なかった」と。インディアンの居住地内では丸腰のカーボーイは自衛できない。
アメリカは、アフガニスタンへの空爆を継続。誤爆も相次ぎ、民間人の死者が急増する。
一方、タリバンは爆弾テロなどで対抗。治安は一段と悪化する。
 
「日本だけが何もしないで良いのか、国際的な孤児になる」ということを耳にします。
だが、今熟考すべきは「先ず、何をしたらいけないか」です。
民衆の半分が飢えている状態を放置して、国際協調も対テロ戦争も、うつろに響きます。”と語るのだ。
 
2008年8月、中村医師にとって、衝撃的な事件が起きます。
5年にわたり活動をともにしてきた仲間を、武装グループに殺害されたのだ。
伊藤和也(31歳没)さんである。
武装勢力のテロリストにより伊藤は誘拐され、伊藤の仕事仲間だった村人やボランティアが捜索に当たったが、テログループはパニックになり伊藤に銃を突きつけ発砲。
その銃弾は左太ももを貫通し、出血多量で死亡した。
2001年の同時多発テロ事件をきっかけに、中村さんの志に共感し、活動に加わっていた。
中村さんは伊藤さんへの追悼文で決意の言葉を寄せていた。
 
伊藤和也さんの母 順子さん、
「ここでやめたら、和也の遺志とか、先生が描いていらっしゃるものが揺らぐ。揺らいでしまったら、和也を殺した人たちとか、いろいろな人たちのことを思うと、絶対ここではやめてはいけない」
「和也さんが亡くなったあと、クナール川の石を中村さんが届けてくれました」。
「中村さんは、和也さんの志とともに、みずからの信念を貫くと伝えていました」。
「6年前に作業を始めて以来、あなたたちは懸命に働いてくれました。雨の日も強い日ざしの中も。この用水路が未来への希望となることを願っています。」
 
中村医師は、事件の後もアフガニスタンに残った。
現地のスタッフとともに用水路の完成を急ぎ、工事は最終段階に入った。
 
一方、アメリカはアフガニスタンへの兵力の増強を打ち出す。
アメリカ オバマ大統領は、「アルカイダは、殲滅させなければならない。今、この地域を見捨てれば、アルカイダに対する圧力を弱め、アメリカや同盟国を攻撃されるリスクを生み出しかねない。」
ペシャワール会 会報にはこう掲載している、
「作業地の上空を、盛んに米軍のヘリコプターが過ぎてゆく。彼らは殺すために空を飛び、我々は生きるために地面を掘る。彼らはいかめしい重装備。我々は埃だらけのシャツ一枚だ。彼らに分からぬ幸せと喜びが、地上にはある」”。
着工から7年。総延長25.5kmの用水路が完成した!
かつて、死の谷と呼ばれた干からびた土地。それが緑の大地へと姿を変えました。ふるさとを離れていた人たちが次々と戻り始め、大地の恵みが育まれてきたのだ。
 
現地の男性はいう、
「人は忙しく仕事をしていれば、戦争のことなど考えません。仕事がないから、お金のために戦争に行くんです。おなかいっぱいになれば、誰も戦争など行きません。」
中村医師は用水路が見える農場に、伊藤和也氏の功績をたたえる碑を建てた。
 
没後、伊藤の両親が伊藤の意思を受け継ぎ、アフガニスタンなどテロ・戦争などで荒廃した国への復興支援のためのボランティア活動を志す人を支援するための「伊藤和也・アフガン菜の花基金」を設立した。
この基金運営に当たり、2009年にかけて伊藤が生前撮影したアフガニスタンの現状を知ってもらうための写真展示会を全国各地で順次開催した。
 
2011年5月2日、アメリカは、10年越しで追ってきた同時多発テロ事件の首謀者、オサマ・ビンラディン容疑者の潜伏先を襲撃し、殺害した。
米オバマ大統領は、「アメリカにとって最良の日だ。ビンラディンの死で、世界に安全がもたらされた」と発表した。
3年後の2014年、アフガニスタンの治安維持などにあたってきた、アメリカ軍を中心とする国際部隊の大部分が撤退した。
その後、力の空白が生じたアフガンでは、タリバンが勢力を盛り返し、過激派組織ISの地域組織も台頭。軍の施設や政府機関を狙ったテロなどが繰り返し発生し、民間人の死傷者は、毎年、年間1万人を超えるようになっている。
 
中村医師が言う、「このころには、銃を携えた警備員を同行させるなど、安全管理に細心の注意を払わなければならなくなっています」
また、
「アフガニスタンは40年間戦争が続いていますが、いまは戦争をしている暇はない。敵も味方も一緒になって、アフガニスタンの国土を回復する時期だ。できるだけ多く緑を増やし、砂漠を克服して人々が暮らせる空間を広げること。これはやって、絶対できない課題ではない。」
と語っていた。
 
以上
 
次は、2 of 5に続く、
 
 

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