アフガニスタン 4of5

内戦が続くアフガンにも観光資源は豊富である。
それでは、観光スポットを覗いてみよう。
アフガニスタンの世界遺産は、文化遺産として、ジャームのミナレットと考古遺跡群 (2002年)とバーミヤン渓谷の文化的景観と古代遺跡群 (2003年)の2つが指定されている。
まず、この2つの世界遺産から入ろう。

日本人には、アフガニスタンの史跡名所といえばまずバーミヤン渓谷にある破壊された2つの石仏が呼び起こされるであろう。
 
●バーミヤン渓谷の文化的景観と古代遺跡群は世界文化遺産(2003年)に指定されている。
大仏の破壊に端を発したバーミヤンは、悲劇の舞台として一躍脚光を浴び、世界が注目すると
ころとなった。
アフガン中部、バーミアン州の州都。北のヒンドゥー・クシ山脈と南のコーヒ・バーバー山脈の
間のバーミアン盆地に位置し、1世紀からバクトリア(BC3~BC2)によって石窟仏教寺院が開
削され始め、1,000以上もの石窟がある。
盆地は標高2600メートル、東西10キロメートル、南北1キロメートル、バーミアン川が東流
し、アム川に注ぐ。東はシバル峠、ゴールバンド渓谷を経てカブールに通じ、西はバンディ・ア
ミール湖群、北はバルク、南はハザーラジャートに通じる。
住民の大半はハザーラ人で、農業に従事。バザールと観光で知られる。人口約3万人。
 
ここでも日本人男性がリーダーとなって、現地で大仏復興に携わっているのである。
長岡正哲(まさのり)氏である。。
 
「建設作業中に、対戦車地雷が見つかるというハプニングもありました。
また、地中に埋まっていた不発弾、この他にも対戦車地雷や多くの地雷が見つかった」
という。 
バーミアン主岩で働く地元のガードマンたち。昼夜二交代制で働く彼らの給料も日本からの
支援でまかなわれている。彼らが来ているユニフォームには、ユネスコ・プロジェクトの一環
として日本の支援が明記されている。
 
1968年生まれ。ユネスコ・カブール事務所文化部主任。
経歴は、筑波大学大学院で世界遺産学博士号、米国コロンビア大学大学院美術史考古学修士号
を取得。2004年よりユネスコ勤務。ユネスコ・パリ本部世界遺産センターアジア太平洋課事業
企画専門官、ユネスコジャカルタ事務所文化部主任を経て現職。
私がユネスコの文化部主任としてカブールに着任したのが2014年の6月で、今回のアフガン
への着任は2回目だという。
彼が言うには、日本政府は2002年よりユネスコに対し、これまで7億円以上の文化遺産保護
信託基金を拠出している。つまり日本人の税金がバーミヤンの文化復興に使われている。
日本とバーミアンの接点はこうして存在していると語る。
 
バーミアン文化遺産の核をなすのは、かつて東西二体の大仏立像が刻み込まれていた主谷の
崖とそこに掘られたおよそ千にも及ぶ石窟、そしてそれらを飾る多彩な壁画である。
バーミアン渓谷の向こうに見える渓谷主岩。その長さは1キロにも及び、千以上もの石窟が彫
られている。
東大仏は体の大半を失ったものの肩を少し残し、周囲にはわずかながら壁画や天井装飾も
残っている。ブルーシートが掛けられた大仏の足元を避けるように、東側の入り口から壁の
内部に作られた通路を上っていくと、大仏の頭部があった部分まで辿りつくことができる。
西大仏の破壊状況はさらに悪く、大仏は形を残さず、壁画なども見学できるものは殆どない。
東大仏同様に崖内部の通路で頭上まで上ることは可能だが、大仏のいたはずの場所は全くの
空洞である。
巨大な大仏立像2体は破壊され、多くの仏教画が破壊や盗難で失われてしまったとされるが、
それでもいくつかの価値ある見どころがまだ残っている。
その一つが大仏坐像たちだ。東西の大仏に比べれば規模が小さいものの2~16m程度の高さを
持つ。ただし、ほとんどの坐像は既に丸い岩の塊と化していて、細かな体つきや装飾を見とることができない。
その点楽しみが残っているのは仏教壁画たち。壁や天井に当時の彩色をうかがわせる微かな色を残した仏教画が多く残っている。
大仏たちから3 kmほど離れたフォラディ谷にも50ほどの石窟が残されている。
風化や破壊から逃れることはできなかったものの、複雑な掘り込みで作られた天井装飾「ラテルネンデッケ」などを見ることができる貴重な遺跡となっている。
バーミアンの東にはカクラク川が流れ、デコボコした巨大なアリの巣のような丘に80ほどの石窟が造営されている。しかし、6 mを超える仏陀の立像を含む石窟内の仏教遺跡は、やはりターリバーンによって破壊されてしまい、現在は穴ばかりが残されている。

イタリア隊は崩壊の危機にあった高さ38メートルの東大仏の仏龕(ぶつがん)の保護を行い
ました。プロのロッククライマーがイタリアから参加し、ダイヤモンドが先端についたドリル
で壁面に穴を開け、1トン以上もののセメントを壁面に注入しその崩壊を防いだ。
 
ドイツ隊は破壊により散逸した大仏片の保護を行った。破壊された大仏片を全て仏龕か
ら取り除くために、何トンもする大仏片は重機を使い、またパウダー状になってしまった大仏
の破片は手でかき集める作業を続け、地道ながらも非常に重要な活動を行った。
 
2004年にはフランスの考古学者が、7世紀に玄奘が記述した「涅槃仏」の基壇らしきものを
東大仏よりさらに東に行ったストゥーパの近くで発見したという。
何層にも重ねて塗られた油絵技法が既に5~6世紀に使われていることが日本隊によって解明
され、西洋の油絵よりはるか昔にこの技法がバーミヤンで使われていたことが学会で発表され
大きな反響となっている。
 
バーミアンはインドの長方形、トンネル形天井の石窟と異なり、正方形、円堂、八角堂の平面
とキュポラ(丸屋根)、あるいはラテルネンデッケ(井桁(いげた)持送り式)の天井をもち、
ササン朝の建築様式の忠実な模倣とされている。
世界遺産条約の趣旨は「登録されたものを守る」ではなく、「登録をきっかけに、どうしたら人
類の歴史的建造物や自然を後世に残せるのか、国境を越えて人類の英知を集めみんなで考えまし
ょう」というものである。
ところが、偶像崇拝を否定するターリバーンは2001年3月、国際社会の反対を押し切って2体
の大仏を爆破した。
 
現在バーミヤンはイスラム教徒がその大勢を占めている。バーミヤンには現在ひとりの仏教徒
もいない。
が、地元の人々は休日には家族とともにそこを訪れピクニックをし、毎年新年の3月21日のナ
ウルーズの日にはここで祝い、断食月の終わりのラマダンの終了を祝う大祭をここで催し、伝統
的なアフガニスタンのスポーツであるブズカシもここで開催されている。
なお、ブズカシは2組の騎馬隊がヤギをボール代わりにして奪い合う競技で、アフガニスタンの
国技である。
バーミヤン遺跡は地域の文化と慣習に密接に繋がり、今では日常生活には欠かせない場所として
地元住民に愛され、密着しているという。
ただ、大仏や仏龕が宗教儀式や礼拝の場として利用されることはない。
 
2002年、当時、東京芸大学長でユネスコ親善大使だった日本画家、故平山郁夫氏が現地入り
した。
大仏の再建には、修復の技術論や文化財のオーセンティシティー(眞正性)の問題、関連する国
際条約との整合性や、アフガニスタンの治安面の問題など様々な課題を考慮しなければならない。
1960年代からアフガンを訪問し続けた平山氏は、破壊された無残な大仏の姿をスケッチに描き、
世界遺産にして保護することを望んだ。だが、大仏再建には否定的で、「広島の原爆ドームやド
イツのアウシュビッツ、また奴隷貿易の拠点となったセネガルのゴレ島のようにように、そのま
ま人類の『負の遺産』として後世に遺し、蛮行を二度と繰り返さないというメッセージにすべき
だ」と語った。
平山氏自身、広島で原爆を体験した思いもあった。
 
2016年トルコで開催された第40回世界遺産委員会で、アフガン政府はバーミヤン大仏を再建す
る意向であると正式に表明した。
これを受けユネスコは日本政府の支援により、2017年9月27日から29日までバーミヤン大仏
再建のための技術会合を東京芸術大学で開催した。
参加者は情報文化大臣をはじめとするアフガン政府要人の他、世界遺産や文化財保護の専門家、
教授、ユネスコ職員等計80名に及んだ。
3日間の技術会合に続く9月30日には、同じく東京藝術大学で一般の方を対象に公開シンポジ
ウムが開催された。
 
破壊から16年が経った2017年3月11日、地元政府と市民の共同事業として文化財の保護と恒
久的な国の平和を希求する記念式典が、高さ55メートルの西大仏の後背に位置する仏龕(ぶつ
がん)内で開催され、250人を超える地元住民が集まった。
なお、38メートルの東大仏立像は現在仏龕内に存在していない。
 
バーミヤンの文化的資産の保護と平和の維持をどのように実現させるか。式典ではバーミヤン知
事や地元NGOの若者らが、それぞれの立場から、集まった多くの市民に訴えかけました。
バーミヤンの歴史的、考古学的価値のある文化財はもちろん、世界遺産の価値を有するバーミヤ
ン渓谷一体に広がる文化的景観の保護は急務である。
 
式典では東西両大仏がどのように破壊されたかを伝える劇も上演された。
この時、大仏がいよいよ破壊される様子を地元の役者らが演じている時、一人のアフガン人が
いた。
彼はターリバーンによって大仏破壊工作を強いられた23人のうちの一人で、今もバーミヤンに
住み続ける唯一の村人であった。
子供6人を含む家族8人で平和に暮らしていたが、2000年にターリバーンによって捕らえられ4
ヵ月間拘束された後、大仏爆破の準備のため24日間休みなく強制的に働かされたという。
爆発物の運搬の他、大仏頭頂部から一本の縄で吊りされながら、石像にドリルで穴を空け、ダイ
ナマイトを仕掛けることを命じられる。その工作に従事していた村人の一人がこの蛮行を非難す
ると、即座に彼の目の前で銃殺されたと話す彼に表情はなかった。
心臓発作で亡くなった村人もいた。作業の間、棒で体を殴打され続け、常に死がすぐ目の前にあ
ったのだ。
現在空洞になっている仏龕を見る度、当時の壮絶な記憶が蘇ると同時に、悔しい気持ちが沸き起
こるという彼の周りには、無邪気な幼い彼の子供たちがまとわりついている。
ターリバーンにより大仏破壊の強制労働を強いられた村人の家族には笑顔が広がっていた。
多くの村人が観戦する伝統スポーツのブスカシが毎年数回大仏前の広場で開催されているのだ。
しかし、大仏が再建されれば、彼は救われるという反面、またターリバーンによって大仏破壊工
作が起こるのではないかと危惧するのである。
 
その一方、シリアやイラクなどの中東では、現在もテロリストによる文化財の破壊が横行してい
るだけでなく、それらの盗難、転売により新たなテロリズムの資金源として活用されているのが
現状である。
 
最後に下記の一つの咆哮を付記したい、
“・・・ついに私は、仏像は、誰が破壊したのでもないという結論に達した。仏像は、恥辱の為に崩れ落ちたのだ。アフガニスタンの虐げられた人々に対し、世界がここまで無関心であることを恥じ、自らの偉大さなど何の足しにもならないと知って砕けたのだ・・・” と。

ここで、アフガンで現地にて結婚して、ホテルや手工芸品店を経営する日本の女性である
安井広美さんを次に紹介しておこう。
 
世界文化遺産のあるバーミヤンには、一人の日本人女性が経営に関わっているホテルがある。
東西の大仏と石窟群の真正面という素晴らしいロケーションだ。
ホテル・シルクロード・バーミヤンの経営者は、安井浩美(やすい・ひろみ)さんという日本女性である。
彼女は、短大卒業後、会社勤務を経て26歳でシルクロードの旅に出かけたことをきっかけに写真の道に入り、1993年以降フリーランスの写真家としてアフガニスタンなどを取材してきた。
2001年のアメリカ同時多発テロをきっかけにアフガニスタンに入り、以来共同通信カブール支局で通信員として働くとともに、アフガン帰還民の子どもたちのための教育を支援してきた。2007年にアフガニスタン人の夫とホテル・シルクロードをオープンしたのである。
 
そして、2010年には客室用のクッションなどの備品の製作を手掛けたのがきっかけで、シルクロード・バーミヤン・ハンディクラフトという手工芸品の製作と販売のための会社もカブールに設立している。 
 
何とも贅沢な立地条件にあるホテルのレストランに国連のチームで夕食に立ち寄ったところ、私はクラフトショップの手工芸品の鮮やかな色使いに心をわしづかみにされて見入ってしまい、「あれも欲しい、これも欲しい」とたくさんお土産に購入してしまいました。他のお店だとなかなか日本に戻ってから使えるようなデザインや色味のものがないのですが、安井さんが細かく指導して品質管理にも目配りしているのでしょう、ここには心惹かれるものがたくさんあって、手工芸品やアクセサリー大好き人間の私はアドレナリンが出っ放しでした。 
 
彼女は、バーミヤンの伝統的な織物はバーミヤンで作り、、クラフト類はカブールで暮らすバーミヤンやガズニ出身のハザラ民族の女性たち中心に作っている。
彼女は言う、「貧困社会のアフガニスタンでほんの少しですが私の会社に努める女性たちの家族の経済的な支援になっているところが励みになるし、素晴らしい刺繍や素晴らしい商品が出来上がることは、私にとってこの会社を運営していく上でのやりがいになっています」と事業にかける意欲を語る。 
 
アフガニスタンの魅力については、「やはりいろんな文化が混ざり合うシルクロードの十字路という部分に惹き付けられました。日本にはない、多民族社会でそれぞれ異なる言語や文化習慣がある部分にも魅せられます。さらには、日本にはないダイナミックな景観となんでも大雑把なところが、私にはピッタリなのかもしれません!」と言う。
安井さんはホテルの運営にも係わっているので関わり、ホテル内のレストランには和食のメニューも用意してある。アフガニスタンで太巻き入りのボックス弁当をお箸で食べられるのである。
バーミヤンには、多少なりとも治安の安心・安全が存在するからこうしたゆとりの時間を楽しめるのである。
首都カブールではたとえ国連アフガニスタン支援ミッション(UNAMA)の国際スタッフでも外部のレストランで外食を楽しむこともできないし、買い物に行くことも許可されていない。
数年前の2017年にラマダン中の5月31日には首都カブールの各国大使館が集中する地区で起きた爆破テロ事件は多数の犠牲者を出し、この国の脆弱性を改めて突き付けた。
アフガニスタン政府の発表では、150人以上が死亡、そして数百名が負傷するという大惨事であった。
大使館などが集まるこの地区は高さ3メートルのコンクリートの壁に囲まれ、一般市民の立ち入りが厳しく制限されたアフガニスタンでもとくに警備が厳重な場所である。
逆に言えば、外国の大使館や政府の施設があるからこそテロの標的となる可能性が高いといえる。威力の大きな爆発物を持ち込むために疑われにくいバキュームカーを使い、警備の隙を突いて突入を図った。車は入り口で阻止され、ラッシュアワーで渋滞中の道路にいた多数の市民が犠牲になった。
安井浩美さんは、治安が悪化の一途をたどっているアフガニスタンの今について、「悲しい、残念、悔しいの3つの言葉です。この国のあらゆる問題ですが、問題の根源がわかっていながらどうしようもできない歯がゆい状況に常におかれていることに憤りを感じるとともに、武器をもって戦うこともできない無力な自分が苛立たしく思ったりします」とコメントしている。 
 
彼女によると、この5月31日の後も数回、死者を出す自爆テロや爆発がカブールで起きているが、それでもラマダン明けの祭日のイード(犠牲祭)の3日間は何とか静かに過ごすことができたという。
一見はカブールも以前と同じように見えますが、やはり人々の脳裏にはあの爆発テロは深く焼き付いていて、彼女自身もあの事件以降、自宅にセーフルームを作ったり、飛散防止フィルムを窓ガラスに貼ったり、防弾の窓ガラスを玄関口に設置したりと、「備えあれば憂いなし」という気持ちで用心してセキュリティーを高めたという。
「バーミヤンもカブールの事件を受けて一瞬もぬけの殻になったようですが、また少しずつ人が戻り始めているようです。でも全体的に見て、観光客はアフガン人も含めて少なくなっていると思います」とも語っている。 
このような状況の中で、心配なのは治安がなかなか安定しないために思うようにビジネスが立ち行かず、失業率が4割近くに達している。
彼女のクラフト工房で働く女性たちの家族もラマダン明けの祭日のイードに際して、子供たちにイーディーと呼ばれるお年玉をあげることもできないと聞くそうだ。あの自爆テロは人々の将来的な生活に不安を与える要因になってしまったという。
息を呑むほどに美しい大自然があって観光業などの発展の可能性があるだけに、非常に残念でなりません。

ジャムのミナレットと考古遺跡群Minaret and Archaeological Remains of Jam 
ジャームのミナレット(尖塔)は、アフガニスタン西北部,ヘラートの東方約200km(中部のゴール州)、標高1900mの人里離れたところに建つ尖塔で、険しい不毛の山々の間を流れるハリー川とその支流ジャーム川の合流点の畔にある。
ゴール朝最盛期のスルターン、ギヤースッディーン・ムハンマド(在位:1163年 - 1202年)が築いたとされる。ゴール朝における建築技術の最高峰とも言われる。
高さ65m、八角形の土台の直径約9m、全体は4層構造で、褐色の煉瓦と、青色のタイル装飾、ブハラで発展を遂げた幾何学模様、クーフィー体アラビア文字の刻印などを特徴とする。

ミナレットとは、尖った屋根を持つ塔で、ここからイスラム教徒に礼拝を呼びかけるアザーンが流される。イスラーム世界では、ミナレットはイスラームの権威の象徴となっている。 
イスラム教のミナレットはモスク(礼拝堂)に付属しているが、ジャムのミナレットにはモスクがないのである。
ミナレットのある場所はモスクを建てられるような広さはなく、モスクが倒壊してミナレットだけ残ったとは考えにくいと推測されている。
記念碑として建てられたと言われ、未だにミナレットが建てられた理由が不明である。
 
2001年のアメリカのアフガニスタン侵攻では、混乱に乗じての文化財の盗掘が行われ、遺跡も大きな打撃を受けた、またハリー・ルード川によるミナレット土台の浸透浸水の問題や、道路建設などの開発計画も唱えられており、早急な対策が求められている。
なお、2002年には遺跡保護のためユネスコ世界遺産(文化遺産)に登録され、問題の早急な対応を促すため危機遺産にも指定された。
なお、危機にさらされている世界遺産とは、ユネスコの世界遺産登録物件のうち、その物件の世界遺産としての意義を揺るがすような何らかの脅威にさらされている、もしくはその恐れがある物件のことである。
 
以上
次は、5 of 5で、世界遺産以外の名所を記そう。
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?