アフガニスタン 2 of 5

テロー色のイメージが強い近代のアフガンという国の昔年を知ろうとする人は少ない。
そのため、まずアフガニスタンの略史を追ってみたい。
 
BC 10万年旧石器の文化が存在した。
BC 7000年新石器の文化が存在した。
BC 3000年~BC 2000年四大文明が起こり、都市文化が生まれつつあった。その背景には農耕文化の発展があった。アフガニスタンは、先史時代からイラン高原メソポタミアの諸文化と早くからつながりがあり、また、インダス文明とも交流があった。
BC 2000年~BC 1800年、青銅器時代で、ムンディガク遺跡、デー・モラシ・グンダイ遺跡が見つかっている。また、バクトリア地方から出土した数体の石製女性像が見つかっている。
BC 12Cリグ・ヴェーダによれば、十王戦争が勃発し、バルフからパンジャブへ侵攻した。
BC7~BC4C、アケメネス朝ペルシアのキュロス大王が版図を東方のインダス川まで拡げ、その支配下にあった
BC4C、アレクサンダー大王の東征で、ギリシア・ヘレニズム文化の影響を受け、のちクシャナ
朝時代に、仏教文化と融合したガンダーラ美術となって、仏像彫刻を産み出しだ。
BC 3C、インドのマウルヤ朝アショカ王、各地に碑文を建立。インドとアフガニスタンで仏教が
盛んになった。紀元前232年、アショーカ王が死ぬとマウリア朝は衰退する。
AD 2C、クシャナ朝の支配下に置かれ、この時代にバーミヤンの石仏が造られる。
4C、ササン朝ペルシアが支配。
5C、エフタルの侵入を受ける。
6C、西突厥、アフガニスタン支配。
7・8C、イスラム勢力の浸透。
977~1186年、ガズニ朝(アフガニスタン最初のイスラム王朝)北インドへの侵入を繰り返し、
インドのイスラム化を促進。
12~13C、ゴール朝。1152年にアフガニスタン北西部に位置するゴール朝アラー・ウッディーン・フサイン2世によってガズニー朝を滅亡させる。アラー・ウッディーンはこのことから「ジャハーンソズ(世界を焼き払う者)」という異名を持つ。
1220年、モンゴル軍、アフガニスタン侵入。
  アラー・ウッディンとその息子たちの軍、チンギス・ハーンの軍と戦う。
  バーミアン包囲、破壊される。アフガン軍の猛烈な抵抗に遭い、チンギス・ハーンの
  破壊苛烈をきわめる。モンゴル軍、全アフガニスタン占領。
15~17C、チムール帝国、ムガール帝国による支配。
ティムール家の子孫のバーブルはカーブルの南北に征服し、1527年、アーグラを首都として
ムガール朝の基盤を築く。バーブルは1530年に死ぬが、ムガル朝は、この後200年に
亘ってインドを支配し、大いに栄える。
1722年、パシュトゥーン族のギルザイ族、イランに攻め込みサファビ朝の首都イスファファン
 を占領。
1747年、ナディール・シャー下のアフガン族部隊、故郷カンダハールに帰り、部族連合を結成し
アフガニスタンを建国(ドゥッラーニー朝)。ジュンガル部を完全に制圧すると中国と国境を接するようになり、清の皇帝から朝貢 を要求される。以後清の朝貢国となる
1826年、ドースト・ムハンマド・ハーンドゥッラーニー朝から独立してバーラクザイ朝を建国。(以後1978年まで彼の家系が王位を継承)。
 国家形成期、近代化派と部族保守派との間で激しい確執が続くが、近代化に成功せず
ロシア南下政策でアフガニスタンへ動きを見せる。イギリスこれを警戒。
1835年、君主の称号をアミールに変え、アフガニスタン首長国となる。
1830年代、当時のアフガニスタンは、中央アジアへの南下政策を推進するロシアと植民地インドの防衛を至上とするイギリスの対立(第I期グレート・ゲーム)に巻き込まれていた。
1838-42年、第一次アフガン戦争(アングロ・アフガン戦争)。アフガニスタン軍、イギリスを打ち破る。
1878-81年、第二次アフガン戦争。イギリス軍破れ、アフガニスタン支配を諦める。
  イギリス、国王を援助。部族連合から専制国家へ脱皮。
1919年、第三次アフガン戦争。アフガニスタン軍、イギリスの疲弊に乗じてインドに侵攻。   イギリス、外交権をアフガニスタンに戻し、アフガニスタン独立。
1926年には君主の称号をシャー(国王)に変え、アフガニスタン王国となった。急激な改革はウラマー(イスラーム知識人)の反発を招き、各地に僭称者が乱立することとなった。
1919-29年、国王アマーヌ・アッラー、社会改革と経済開発を試みるが宗教家や部族長など保守派の反対で成功せず。
1929年、ムハンマド・ナーディル・シャーがこの混乱を収め、翌年、シャーに即位した。
ナーディル・シャー朝では、ウラマーとの妥協が図られ、パシュトゥーン人色が強まる。
1953年9月、ザーヒル・シャーの従兄弟で、親ソ連急進派のムハンマド・ダーウードが首相に就任。ウラマー会議が改革に反発して反政府キャンペーンを組織すると、ダーウードはウラマーを弾圧。
1973年、ダーウード、クーデターを起こし、アフガニスタン共和国成立。
1978年、4月27日のクーデターでダーウードは殺害された(4月革命)。
アフガニスタン民主共和国成立、タラキーによる親ソ政権成立。
    ソ連と友好善隣協力条約締結。民族主義による反政府運動起きる。
1979年9月、アミン首相がクーデターで政権をとる。
1979年2月には、イラン革命が起こり、親米派のパーレビー国王が失脚した。
これに、アフガニスタン国内のイスラム教徒は刺激された。 
ソ連側は、ソ連領内のイスラム教徒もその影響を受けるのではないかと不安があった。
さらに、アメリカのアフガニスタン進出を阻止するためにも、イスラム教徒の反政府ゲリラで荒れるアフガニスタンを正常化したかった。

アメリカは、イラン革命で中東における重要拠点を失い、イランに代わる対ソ拠点として、アフガニスタンに目を向けていた。

    こうした背景からソ連(ブレジネフ政権)はアフガニスタン侵攻を決定、ソ連軍を派遣してアミン政権を倒し、カルマル政権を樹立するとともに、イスラーム勢力に対する弾圧を強化した。

    侵攻したソ連軍の後押しでクーデターが起き、アミンは侵攻したソ連軍の後押しでクーデターが起き、アミンは処刑された。そして、亡命中だったカルマルが全権を掌握した。
    ソ連は、アフガニスタン政府の要請から侵攻したと主張し、アメリカは内政干渉だと非難した。
東西冷戦の最中でもあり、アメリカはソ連の南下政策と受け止め、パキスタン経由でムジャーヒディーンやハザーラ人に武器援助を行い、紛争は泥沼化する。

一方、無神論の共産主義国家がイスラムの土地を侵したことにたいする憤激がイスラム圏に湧き起こり、抵抗する地元アフガンのイスラム勢力を支援しようと各地から義勇兵がアフガンに向かった。

ソ連軍との戦いを聖戦(ジハード)と意義付け、ムジャヒッディーン(聖戦戦士)を組織して抵抗した。サウジアラビア出身のオサマ・ビンラディンもそのなかにいた。富豪の父の遺産を継いだオサマは、その豊富な資金力をもとに、米CIAやサウジ王室の協力も受けつつ、イスラム圏からの義勇兵に訓練を施し、武器・糧食を整えて戦場に送り込んだ。
こうして産まれたアラブ戦士のネットワークが「アルカイダ」である。
結局9年間の戦闘(アフガン紛争)でソ連軍は反政府イスラーム勢力を押さえることが出来ず、ゴルバチョフ政権のもとで1988年に和平に踏み切り、アフガニスタン撤退を決定、89年に全軍を撤退させた。

なお、“ムジャーヒディーン”とは、アラビア語で“ジハードを遂行する者の意を意味し、”を意味する。一般的には、“イスラム聖戦士” 即ち、イスラム教の大義にのっとったジハードに参加する戦士たちのことをいう。
 
     12月、クーデターで共産主義者バブラク・カルマルが立ち、ソ連軍はアフガニスタンに侵攻、駐留。
    
1979年のソ連軍によるアフガニスタン侵攻以降、周辺国(特にパキスタン、イラン)には最大時には約620万人の難民が周辺国に流入した。
現在でも、270万人弱の難民がパキスタン(120万人)、イラン(140万人)等に滞留している。また、アフガニスタン国内の国内避難民は、判明しているだけで30万人を超えている。
1980年、反政府・反ソ民族抵抗運動が燃え上がり、各地でゲリラ戦闘が展開。
 
一方、アメリカなど西側諸国は、1980年のモスクワオリンピック参加をボイコットする。
ソ連はアフガニスタン政府軍へ、アメリカは反政府ゲリラへそれぞれ軍事援助を続け、アフガニスタン紛争は “第二のベトナム”  の様相を呈した。
 
1986年5月、カルマル革命評議長は解任され、秘密警察出身のナジブラが後継者となって
87年11月大統領となり憲法を制定、アフガニスタン共和国(~1992年)となった。
1989年、アメリカのパキスタン経由でのゲリラ側への軍事援助などを得て、反政府・反ソ連闘争は民族的広がりを持って燃焼した。内戦による難民は、パキスタンに300万人、イランに105万人と膨れ上がり、同時にその難民キャンプが反政府ゲリラの温床になった。
反政府ゲリラ戦士は自ら「ムジャーヒディーン(イスラム自由戦士)」と呼び、その戦いを「ジハード(聖戦)」と呼ぶ。
30に及ぶその組織は85年スンニ派の主要7勢力がアフガニスタン・ムジャヒディン・イスラム同盟IUAMを結成した。
シーア派も主要8派でアフガニスタン・イスラム連合評議会を結成したが、両派の溝は深く、反政府ゲリラ側も不統一などの問題が横たわったまま闘争が続けられた。
アフガニスタンでのソ連軍の被害と軍事支出の累積は膨大なものになり(撤退時ソ連軍被害死者13,310人、負傷者35,478人/軍事支出約9兆5,000 億円)、ソ連は1988年アフガン和平に合意し、89年2月に撤退を完了した。   
ソ連軍撤退後も国内の支配をめぐって、政府軍や武器が戦後も大量に残されていたムジャーヒディーン同士による戦闘が続き、ムジャーヒディーンからターリバーン(Taliban)やアルカーイダ(Al-Qaeda)が誕生した。
 
なお、ターリバーンとは、“求道者達、あるいは神学生達”の意で、謎に包まれた最高指導者ムッラー・ムハンマド・オマル師(1959年頃-2013年4月)が率いる神学生を中心とする集団である。
ターリバーンはパシュトゥーン人(イラン系民族で、アフガン内で最大人口を持つ民族を主体に構成されており、パキスタンの宗教学校(マドラサ)で教育を受けた神学生を中心として結成されたという。南部のカンダハールが本拠地である。
権力を握ったターリバーンは、反対派を次々と公開処刑するなど恐怖政治を行った。
徹底したイスラーム原理主義による政教一致をめざし、コーランやハディーズに基づいて一切の欧米文明を否定、市民生活に対しても女性の就職や教育を禁止、女性にはブルカ(ヴェール)着用、男性にはひげを伸ばすことが強制され、テレビ・ラジオ・映画なども禁止された。
このように厳格なイスラム法解釈及び適用を行うことから、西側諸国及び国際機関との摩擦が絶えない。
 
蛇足になるが、やがて、30数年後の世界宗教人口は、イスラム教徒とキリスト教徒の人口比率は同列になると予測される。キリスト教徒の驕りはいつまでも続かないであろう。
 
また、ビン・ラディン(1957年3月10日-2011年5月2日)という人物の素性は、
サウジアラビア生まれ。アフガニスタンで対ソ連のゲリラ活動を展開し、ソ連撤退後サウジアラビアに戻り、湾岸戦争から反米姿勢を強め、サウジを追われてスーダンに移って事業を展開して資金を獲得し国際テロ組織「アルカーイダ」を組織した。1996年に再びアフガンに入り、カンダハルなどを拠点にアルカーイダとしての活動を展開した。当時アフガンの権力を握ったターリバーンにも資金を援助する代わりにその保護を受けたという。
2001年9月11日、米で起きた同時多発テロはこのアルカーイダの犯行とされ、ビン・ラディンも犯行声明を発表した。それを受けたアメリカのブッシュ大統領は、国際テロ組織アルカーイダとの全面的な対テロ戦争を宣言、同年10月、アメリカ軍はビン・ラディンらがアフガニスタンに潜伏していると判断して、大規模なアフガニスタン攻撃を行った。それによってターリバーン政権が排除されてからは、アルカーイダも保護者を失い、大仕掛けの活動よりは小さな分派に分かれて活動を継続しているようである。
 
さらに、 トランプ米大統領は2019年9月14日、国際テロ組織アルカイダの指導者だったオサマ・ビンラディン容疑者の息子、ハムザ・ビンラディン容疑者が「米軍の対テロ作戦により、アフガニスタン・パキスタン地域で殺害された」と発表している。
 
1992年、反政府ゲリラ連合軍により、カブール占領、ゲリラ八派は連合して新政権を樹立。
しかし各派の対立・抗争が深まり、分裂・解散して戦闘再開。
ここに登場したのが、イスラム原理主義を標榜する新勢力のターリバーンである。
1994年、ターリバーンは急速に勢力を拡大し、96年には首都カブールを陥落させ、ナジブラ元大統領を絞首刑にした。
ここにターリバーン政権によりアフガニスタン・イスラム首長国が成立。
97年にはドスタム派の拠点マザリシャリフを一時制圧、さらに98年、99年の夏の大攻勢で、バーミアンなど対ターリバーン勢力の拠点を次々に落とし、国土の9割を支配するにいたった。
1998年8月7日ケニアタンザニアでアルカーイダによるアメリカ大使館爆破事件が起こり、テロリストがターリバーン政権の保護下に逃げ込んだ。
アメリカ政府(クリントン大統領)はテロリスト訓練キャンプをトマホーク巡航ミサイルで破壊し報復。1999年11月15日にアメリカ政府はテロリストの引き渡しを求めたが、ターリバーンがこれを拒否したため、経済制裁が課された。
1999年、「タシケント宣言」採択。
    国連、ターリバーンに対し、経済制裁決議。
2000年、2年連続の旱魃に襲われ、200万人が飢餓に陥る。
 
2001年3月12日、ターリバーンによるバーミヤンの大仏(磨崖仏)の破壊
2月26日にターリバーンはイスラムの偶像崇拝禁止の規定に反しているとしてすると宣言し、ターリバーンは批判を無視して、2体の大仏を破壊した。
破壊の様子が、映像で撮影されており、撮影者が「アッラーフ・アクバル」(「神は偉大なり」の意)と唱えている中で爆破される大仏の映像は、世界中に配信された。
ユネスコの負の世界遺産(文化遺産)となった。
 
バーミヤン渓谷は首都カーブルの北西230kmのヒンドゥークシュ山脈山中の渓谷地帯で、標高2,500mほどの高地に位置する。
古代から存続する都市バーミヤーンの近郊には、1世紀からバクトリアによって石窟仏教寺院が開削され始めた。
石窟の数は1000以上にものぼり、グレコ・バクトリア様式の流れを汲む仏教美術の優れた遺産である。
5世紀から6世紀頃には高さ55m(西大仏)の男像と38m(東大仏)の女像の2体の大仏をはじめとする多くの巨大な仏像が彫られ、石窟内にはグプタ朝のインド美術やサーサーン朝ペルシア美術の影響を受けた壁画が描かれた。
バーミヤーンの仏教文化は繁栄をきわめ、630年の仏僧玄奘がこの地を訪れたときにも依然として大仏は美しく装飾されて金色に光り輝き、僧院には数千人の僧が居住していたという。
クルアーンの中に偶像破壊の命令は一つもないのだが・・・。
 
2001年9月11日アメリカ同時多発テロ事件が発生し、その報復として10月からアメリカ(ブッシュ政権)と北部同盟によるアフガニスタン紛争が行なわれた。北部同盟を構成するのは、タジク人イスラム協会ウズベク人イスラム民族運動ハザーラ人イスラム統一党である。
12月22日にパシュトゥーン人でザーヒル・シャー元国王派のハーミド・カルザイが暫定行政機構議長に就任。こうして、多数派パシュトゥーン人のターリバーンに少数民族連合が挑むという対決の構図が形成されたが、その結果、アメリカが撤退することが難しくなった。
2004年10月9日、アフガニスタン・イスラム共和国発足。
2011年5月2日、CNNが、ビン・ラーディンをパキスタンの首都イスラマバード郊外の地方都市アボッターバードの隠れ家で殺害した、と報道。
    
遺体は即刻、北アラビア海に待機する米空母の甲板に運ばれ、“水葬”と称して海に沈められた。
遺体写真の公表もない。拘束し裁判にかけることを意図的に避けたようなこの作戦じたい、国連関係者が批判するように国際法違反であろう。
が、「最後の審判」を待つため土に埋葬されることが必須のイスラム教徒の遺体を海に流した行為は、きわめて因業な宗教的冒涜であり、イスラム教徒の怒りを煽ったはずだ。
キリスト教における私審判という考え方はイスラム教にはないのであり、
最後の審判の目に復活するための内体が必要なので、火葬ではなく土葬なのだ。
末世の “ジハード“ が恐い!
 
2015年7月8日、アフガニスタン政府がパキスタンの首都イスラマバードでターリバーンと初めて公式に和平を直接協議。同年7月30日、消息が不明だったターリバンの最高指導者ムハンマド・オマルが2013年4月に死亡していたことが確認。
2016年1月11日、パキスタン・アフガニスタン・中国・アメリカがターリバーンとの和平を目指す4カ国調整グループ(QCG)を設立。同年3月、ターリバーンは和平交渉を拒否した。
 
因みに、余裕のある方は、“ランボー3”怒りのアフガン” を観てみることをお勧めしたい。
 
以上
次は、3 of 5に続けよう


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