バルカン半島;マケドニア 3of4

簡単にマケドニアの歴史を鳥瞰しよう。
バルカン半島が複雑怪奇で理解し難い。
 
古代のマケドニア王国
古代のマケドニアは、ギリシア北方にあった国で、フィリッポス2世の時ギリシアに進出し、スパルタを除くポリスを制圧した。その子アレクサンドロスは、前4世紀に東方遠征に出発、ペルシア帝国を滅ぼしてバルカン半島からインダス川流域に至る大帝国を建設した。その死後、アレクサンドロス帝国はディアドコイの争いで分裂、マケドニアはアンティゴノス朝がヘレニズム諸国の一つとして存続したが、前1世紀にローマに征服され、その属州となった。
 
マケドニアの前身
 マケドニアはギリシア本土(ヘラス)の北方の地方。エーゲ海北岸に接する平野部と、バルカンの山岳地帯に接する山岳部からなる。ギリシアの大部分と異なり、平野部が広く、地中海性と大陸性の気候が併存している。マケドニア人は平野部と山岳部を季節ごとに移動する遊牧生活を行っていた。彼らは現在ではギリシア民族の一派で古代ギリシア人の北西方言群に属する考えられているが、古代のギリシア本土のヘラスの人々(ヘレネス)から生活習慣がまったく異なるので、異民族つまり、バルバロイ扱いを受けた。マケドニア王国は世襲の王族が支配し、貴族の族長たちが騎兵としてそれを支える族長社会であって、農民は農業や移動的な牧畜を営み、奴隷は基本的には存在しなかった。
 
マケドニアの成立
 マケドニア人は前7世紀ごろに国家を形成し、王政を成立させていたが、前6世紀末、アケメネス朝ペルシア帝国の勢力がバルカン半島に及ぶと同盟関係を結び、その宗主権下に入った。ペルシア戦争が始まると前492年のダレイオス1世、前480年のクセルクセス1世の派遣したペルシア陸軍が、いずれもマケドニアを通過してギリシア本土を目指した。しかし、ペルシア戦争でギリシア征服に失敗したペルシア帝国は、エーゲ海域から撤退したために、マケドニア王国はギリシア諸都市と関係を強め、特にアテネとは同盟を結び、海軍の艦船建造のための木材を輸出して利潤をあげた。
 
ギリシャ化の進行
 マケドニアは前5世紀の末、都としてペラを建設した。王たちは新都ペラにギリシア文化の粋を集め、宮殿を建設し、芸術家を招いてギリシア化政策を進めた。アテネの悲劇作者エウリピデスも晩年にペラに招かれている。1957年に王宮跡が発見され、その発掘調査によって全貌が明らかになった。さらに1977~78年にはペラ以前の都だったアイガイで前4世紀の三基の王墓が発掘され、フィリッポス2世などの墓と比定されている。このように現在では考古学上の発見もあって古代マケドニアの歴史がかなり明らかになってきている。
フィリッポス2世
 ギリシア化を進めたマケドニアであったが、 ギリシア本土とは異なり、都市国家は形成させず、王政のままとどまった。前4世紀の前半は王位を巡る内戦が続き、北方からのイリュリア人、パイオニア人の侵攻もあって危機を迎えたが、前359年に23歳で即位したフィリッポス2世は、巧みな外交と軍隊の育成に成功して、マケドニアをバルカン半島で最有力の国家に成長させた。バルカン半島の豊かなパンガイオン金鉱を手にいれて金貨を発行し、財政を豊かにしたことも大きかった。また軍制改革では重装歩兵密集部隊を独自の長槍で武装させ、さらに生産活動から離れた職業的戦士を育成した。
カイロネイアの戦いとコリントス同盟 
フィリッポス2世は、ペロポネソス戦争後のポリス民主政の衰退に乗じてギリシア本土に侵攻し、前338年カイロネイアの戦いアテネテーベの連合軍に対し圧倒的な勝利をおさめ、ギリシア本土=ヘラスの大半を屈服させた。さらに翌年スパルタを除くポリスを加盟させてコリントス同盟(ヘラス同盟)を結成し、その盟主となった。フィリッポス2世はさらにペルシアへの遠征を企図していたが、前336年、暗殺されて挫折し、その遺志は子のアレクサンドロスが継承することとなった。
 
アレクサンドロス大王
その子アレクサンドロスは東方遠征を行い、小アジアからシリア、エジプトを征服、ついにペルシア帝国を滅ぼして、ギリシア世界からオリエントにまたがる空前の大帝国を建設した。アレクサンドロス大王は、コリントス同盟の盟主として、全ギリシア軍を率いたが、その主力となったのはマケドニア人であった。多くのギリシア人にとって、大王の東方遠征による負担への不満が充満していた。アレクサンドル遠征中のマケドニアは代理のアンティパトロスが統治したが、アレクサンドロスの母のオリュンピアスの力も強く、両者はしばしば対立した。前331年にはスパルタ王アギスの反乱が起こり、アンティパトロスはそれを鎮圧することに成功したが、不穏な状態は続いた。
 
ディアドコイ戦争
前323年のアレクサンドロス大王の死後は、その大帝国は後継者(ディアドコイ)たちが争って分裂した。マケドニアの王位もアレクサンドロス大王が後継者を指名しないで死去したので、母や正妻(ロクサネ)などがそれぞれ血縁のものを建てて争った。前316年、実権を握ったアンティパトロスの息子のカサンドロスは大王の母のオリュンピアスを殺害、正妻ロクサネと大王の子アレクサンドロス4世を擁立したが、前310年頃、密かに殺害し、ここにマケドニア王アレクサンドロスの血統は途絶えた。カサンドロスは前305年頃、マケドニア王を宣言した。しかし、アレクサンドロスの部将アンティゴノスは帝国の再統一をめざし、小アジアを支配して前306年にマケドニア王を宣言(アンティゴノス1世)したが、それに対抗してエジプトのプトレマイオス、シリアのセレウコス朝なども王を称し、ディアドコイ同士の戦争は激しさを増した。前301年のイプソスの戦いでアンティゴノス1世とデメトリオスの親子がカサンドロスとリュシマコスの連合軍に敗れ、その支配地は他のディアドコイに分割された。
 
アンティゴノス朝マケドニア
前276年にアンティゴノスの孫のアンティゴノス2世がマケドニア王を称して後のアンティゴノス朝マケドニアが成立すると、すでに独自の政権を樹立していたセレウコス朝のシリア、プトレマイオス朝のエジプトなどとともにヘレニズム三国の一つとなった。
 前2世紀にはローマの進出が激しくなり、3度にわたるマケドニア戦争を戦ったが、前168年にピュドナの戦いで敗れて滅亡し、ローマの属州とされた。
 
紀元前323年、アレクサンドロスが後継者を決めないまま急逝すると、配下の将軍たち(ディアドコイ)によるディアドコイ戦争が勃発した結果、アルゲアス朝は断絶した。ヨーロッパ側領土にはアンティパトロス朝リュシマコス朝英語版)が立ち、アンティゴノス朝が小アジアに拠り、三者の争いの中でアンティゴノス朝が生き残った。アレクサンドロスの帝国はマケドニアのアンティゴノス朝、エジプトのプトレマイオス朝、シリアのセレウコス朝の3つに分裂した。
 
その後マケドニアは、地中海世界に勢力を拡大する共和政ローマの圧力に直面することとなった。第一次マケドニア戦争紀元前214年 - 紀元前205年)では勢力を保てたものの、第二次マケドニア戦争紀元前200年 - 紀元前196年)に敗れたのち、第三次マケドニア戦争紀元前171年 - 紀元前168年)の敗北によって、ペルセウスは捕虜となり廃位、アンティゴノス朝は滅亡して、マケドニアは4つの共和国に分割された。第四次マケドニア戦争紀元前149年 - 紀元前148年)での反乱がローマに鎮圧されると、紀元前148年ローマの属州の一つ(マケドニア属州)となった。
 
 
4 OF 4 に続く

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