カザフスタン 2of 5

世界に知られるバイコヌール宇宙基地(Baikonur Cosmodrome)はアラル海東方にあり、ロシア宇宙庁が租借する。
「バイコヌール」とはカザフ語でカザフ語で「草本植物豊かな砂地」を意味する。アラル海から東方に広がる砂漠の名称だ。
この地域に暮らす遊牧民の間には、何世紀にも亘り、“黒い牧夫”という伝説が存在していた。
黒い牧夫は子牛の皮から巨大な投石具を造り、地平線に敵が現れると、これを使って燃えさかる石を空中に放ったという。
石が落下した場所には何も生えず、動物も死に、焦げた土地が長い間残った…。
この伝説の真偽のほどはともかく、現在も同じような光景を見ることができる。
宇宙基地の巨大な”投石具”からは、”燃えさかる”ロケットが空中に放たれているからである。
ソ連の有名な宇宙探索はすべて、地球上のこの一地点から始まった。
世界初の人工衛星、月探査機、世界初の有人宇宙船が打ち上げられたこの場所は、新たな宇宙時代到来であった。ここは旧ソ連時代からロシアの全ての有人宇宙船の打ち上げに使われている。
 
1955年にソビエト連邦がチュラタムのシルダリア河畔に建設した。
宇宙基地には当初、この駅の名称がつけられた。ただし建設が極秘に行われていたことから、正式書類に記載されていたのは別の名称である。さらに秘密保持のため、空っぽの施設と宇宙都市のある、偽宇宙基地まで近くに建設されていた。
宇宙基地の建築資材はすべて、一般的な旅客車両でチュラタム駅まで運ばれた。作業員による積み下ろしは夜間に限られていたが、本人たちは何のための作業かを知らず、最後までスタジアム建設だと信じ切っていた。作業員達にはスポーツ競技用のスタジアムの建設だと伝えられており、秘密のまま建設が進められていた。
チュラタムにあるのにバイコヌール宇宙基地と名前が付けられているのは、正確な場所の秘匿のためであった。本来のバイコヌールはチュラタムの約500キロメートル南西にある。
チュラタム射場とも呼ばれる所以である
 
バイコヌール宇宙基地は、旧ソ連時代の1955年に建設された世界最大規模の打ち上げ基地だ。
1957年、人類初の人工衛星スプートニク1号がここから宇宙へ出発した。
「地球は青かった」という言葉をその感動を残したユーリイ・ガガーリン少佐は、1957年にオレンブルグ航空士官学校を卒業して旧ソ連空軍のパイロットとなり、選抜されて宇宙飛行士になった。飛行中に、ガガーリンは中尉から二階級特進で少佐へ昇進した。
1961年に彼の乗った人類初の有人宇宙船ボストーク 1号は、地球の大気圏外を1時間50分弱で1周した。
ガガーリンの身長は158cmであり、身長が低いことが決め手となった。なぜなら、最初期のボストーク宇宙船は非常に小さく、大柄な人間が乗ることは困難であったからである。
やがて旧ソ連の宇宙計画の広告塔として世界を旅したが、徐々に精神的に弱り、酒を飲むようになる。1968年3月27日、ガガーリンは搭乗したMiG-15UTIキルジャチ付近を飛行中、墜落事故を起こし、死亡した。34歳であった。

世界中でガガーリン少佐は英雄で、特に旧ソ連圏では、学校の名前や通りにガガーリン少佐の名前がつけら れているそうです。

現在、バイコヌール宇宙基地は、国際宇宙ステーションへのクルー・物資・器材の輸送機が打ち上げられている。

1992年に日本人としてはじめて宇宙へ行った秋山豊寛宇宙飛行士(俗に、TBSという‘宇宙特派員’)や2009年にロシアの宇宙船ソユーズで宇宙ステーションへ飛び立った野口聡一宇宙飛行士もこのバイコヌール宇宙基地から旅立った。

なお、日本人女性第一号の宇宙飛行士である向井千秋女史(1952年生)は、1994年にNASAのスペースシャトル・コロンビア号、1998年にスペースシャトル・ディスカバリー号に搭乗した。
2人目の女性宇宙飛行士の山崎直子女史(1970年生)は2010年にNASA のスペースシャトルディスカバリー号に搭乗している。

そして、ソ連崩壊後、バイコヌール宇宙基地カザフスタンの領域となったため、ロシアは毎年1億1500万ドルの使用料をカザフスタンに支払い、基地を使用してきた。
ソ連解体後、カザフスタン領となったバイコヌール宇宙基地の代替としてアムール州スヴォボードヌイの北方にあったロケット打ち上げ基地(スヴォボードヌイ宇宙基地)で1996年から使用された計画されたが資金難の為、中止された。
スヴォボードヌイ宇宙基地では5基のスタールト1ロケットが打ち上げられたのみである。2007年にスヴォボードヌイは閉鎖された(閉鎖都市)。
そこで、跡地に2011年1月、バイコヌール宇宙基地の機能を補完するボストチヌイ宇宙基地(Vostochny Cosmodrome)の建設が決定された。
ボストチヌイはロシアのロケットの打上げの45%を担当する予定で、2020年からは有人打上げは全てここに移行する。バイコヌールからの打ち上げ比率は、65%から11%にまで下がる予定である。
ロシア連邦極東ロシアで運用する宇宙ロケット発射場である。
2016年4月28日、現地入りしたプーチン大統領が見守る中、第1号となるソユーズ 2.1aロケットの打ち上げを実施、人工衛星打上げに成功している
 
 
次に、旧ソ連の負の遺産である、セミパラチンスク (Semipalatinsk) 核実験場は、旧ソビエト連邦のかつての主要な核実験場である。
カザフスタンの北東部、セメイの西方150kmの草原地帯にあり、面積は約18,000km2(日本の四国とほぼ同面積)。
1949年から1989年の40年間に合計456回の核実験に使用された(回数; 地上実験 25 空中実験 86 地下実験 345 合計 456)
地下実験は、3回に1回は失敗したというから、放射能漏れは甚大なものである。
 
施設は最初の核実験からちょうど42年目にあたる1991年8月29日に正式に閉鎖された。
これを記念して、8月29日は国際連合の「 核実験に反対する国際デー」となっている。
市民の被曝による影響はソ連政府によって隠蔽され、1991年の実験場の閉鎖間際まで明らかにされることはなかった。
ソ連崩壊後はカザフスタンの所有となったため、世界の核実験場では唯一、他国による調査が可能となったのである。
 
1947年にソ連の原爆開発の最高責任者であったラヴレンチー・ベリヤ(1899-1953)によってこの場所が選ばれた。ベリヤは、偽ってこの土地一帯が無人だと主張したとされる 。
また、ベリヤは多くの粛清を主導し、クリミア・タタール人の追放などを実行した人物として、その悪名を歴史に刻む。
 
核実験の準備に伴い、実験場郊外に秘密都市“セミパラチンスク-21”(現在のクルチャトフ市)が秘密警察の指揮下で囚人労働によって建設され、関係者が集められた。
旧ソ連のドイツ人捕虜は、原爆用のウランを採掘していたキルギスの秘密都市マイリ・スウや、ウラン精錬の拠点施設があったウクライナ中部カミャンスケの開発にも動員されたとされる。
 
旧ソ連最初の核実験RDS-1は1949年8月29日に行われた。付近の街に放射性降下物が降り注いだが、市民への避難警告はされなかった。
実験を指揮した理論核物理学者のイーゴリ・クルチャトフ(1903-1960)は、後に、もし核実験が失敗したらスターリンの命により銃殺刑に処されることを覚悟していた、と述懐しており、実際に秘密警察は逮捕の準備をしていたといわれる。
しかして、ソ連最初の核実験RDS-1の実験に成功したことで、“ソ連の原爆の父”として名声と政治的な立場を確固たるものにした。
 
その後、1953年8月12日の水爆装置実験RDS-6(核融合そのものは失敗)、1955年11月22日の初の水爆実験RDS-37核の平和利用実験(下記参照)などが行われた。
なお、RDS-6の実験に当たっては、付近の住民のうち一部の成人男子を放射能汚染地域に滞在させた。これは人体実験だと見られている。
 
放射性物質への被曝に対する影響の全貌は、ソビエト連邦の政府当局によって長期間隠蔽されていた。実験場の閉鎖後に実施された健康調査によると、実験場からの放射性降下物によっておよそ20万人の付近の住民が直接的な健康被害を受けたとみられる。
特に、様々なタイプのの発生率が高く、また放射線被曝甲状腺異常の間の相関性が観察されている。
またベトナムの枯れ葉剤の様にここでも奇形児が生まれ、ホルマリン漬けで保存されている。
その後放射能汚染による住民の健康被害が次第に広がり、地元の研究者たちによる調査が行われたものの、核実験を優先するソ連当局に黙殺され続けた。
 
ソ連末期のグラスノスチにより実験の実態が明らかになると国際的な非難が高まり、1991年8月29日に実験場は正式に閉鎖された。
 
セミパラチンスク核実験場の近辺には、チャガン湖(Lake Chagan)という名称の人造湖が存在する。この人造湖は、旧ソビエト連邦が1965年に行った地下核実験(チャガン核実験)によって誕生した。
核爆発によって大地を吹き飛ばして作った湖であるため、湖の周囲はカルデラ湖のような外輪山が存在している。
また、湖とその付近は放射能汚染が激しく、いまだに高線量の放射線が観測されているのだ。
その成因および放射能汚染度の高さから、「原子の湖」(Atomic Lake)という別名がある。
 
2006年9月8日に、カザフスタンキルギスタンタジキスタントルクメニスタンウズベキスタンの5カ国によって調印された中央アジア非核兵器地帯条約の条約署名式は、実験場の閉鎖15周年を記念してセミパラチンスクで行われた。
 

細菌兵器汚染についても触れておかねばならない。
アラル海の小島(再生の島ともいう)に旧ソ連の細菌兵器研究所があった。
ソビエト連邦時代に生物兵器を研究していた細菌兵器研究所は現在アラル海の縮小により陸地となっているヴォズロジデニヤ島に存在しており、生物兵器の残存に関する脅威が問題となっている。
ヴォズロジデニヤ(Возрождение)は、ロシア語で「再生・復活・復興」を意味し、英語のrebirthやフランス語のrenaissanceに相当する。
アラル海は、ソ連解体で北はカザフスタン、南はウズベキスタンと2つの国に接する湖となったが、支流河川の水位低下により急激に縮小、1つの湖が水位低下により3つに分割される事態が起きている。
アラル海が完全に干上がると、小島と陸続きになり、細菌を保菌している動物などが陸に上陸することよって感染し、人体に影響を及ぼす危険性がある。
ここで、ペスト、天然痘、炭疽菌などの細菌兵器の実験が繰り返し行われた。
これら兵器が毎日のように島の上空に放たれ、家畜への影響が記録された。1971年に天然痘が大陸まで広がり、10名が亡くなっている。
1988年、この兵器計画の証拠を破棄しようとして、ソ連はストックしていた炭疽菌を漂白し、ステンレススチールのドラム缶に封印して地中に埋めた。しかし、土壌にしみ出した炭疽菌が発見され、隠蔽は失敗に終わった。これが地下水や土壌を汚染し、CNNがさっそく中央アジアの時限爆弾だと報道している。

研究所はすでに解体・撤収されたが、その跡地に放置された兵器用に開発された毒性の強い細菌類の存在が明らかになっている。
環境に関する新たな工業規制法案が2003年に施行されたが、カザフスタン側のカスピ海沿岸地域で操業を行う石油事業によりアラル海は重度の汚染を受けている。
アラル海とカスピ海を保護するための国際プログラムはカザフスタンやその他の加盟国から有意義な協力を得られていない。

なお、1946年、第2次大戦終結の翌年にスヴェルドロフスク(別名エカテリンブルグ)に新しい陸軍生物兵器の開発施設が完成した。日本軍の731部隊から押収した設計図をもとにしたものだ。
1979年3月30日炭疽菌放出事故が起きた。ソビエト連邦のスヴェルドロフスクの生物兵器研究所において、フィルターが詰まったが、取り付けを依頼するメモを見過ごして、数kgの炭疽菌の芽胞の粉末が換気口を通って研究所から夜の街中へ拡散した。
その結果、少なくとも1000人に及ぶ市民や軍関係者が死亡したものと推定される。
軍事アナリストやロシア国民は「生物学のチェルノブイリ」という。実際は吸入炭疽であるが、KGB職員は胃腸炭疽という診断書を発行したのだ。

以上

その3of5に続く,


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