カザフスタン 1of 5



カザフスタンの国名は、カザフ人の自称民族名、カザク(Qazaq)と、ペルシア語で「~の国、~の多いところ」を意味する スタン(-stān/-estān)との合成語である。

ソ連邦崩壊後の1991年12月16日、「カザフスタン共和国」として独立し、1991年12月21日独立国家共同体(CIS)に加盟した。

ユーラシア大陸の中心に位置しており、世界第9位の広大な国土面積 (旧ソ連ではロシアに次ぎ、アジアでは、中国インドに次いで第3位)を有し、同時に世界最大の内陸国でもある。

面積は、2,725,000k㎡(日本の7倍)ある。

中央アジアの中では一番裕福な国に位置付けられている。

 

ところで、カザフの首都にある国立バイセトバイ・オペラバレエ劇場の日本の美女ダンサーとして活動する砂川世里奈さん以下の3美女の存在をご存知であったろうか?

 

カザフの名に疎い人は、日本人を含む多くの宇宙飛行士を宇宙に送り出している「バイコヌール宇宙基地」がある国と聞けば身近に感じるはずだ。

 

現在の在留邦人数は、132人、在日当該国人数は670人(2023年、外務省)という。

 

まず、ここでも戦後のシベリア抑留者について語らねばならない。

旧ソ連によって戦後に抑留された日本人は約57万5千人に上り、約5万8千人が死亡した。

先のウズベキスタン編では、2万4,000人弱がウズベクに送られ、うち約800人が現地で命を落としたとお伝えした。そのうち建築作業に適した工兵457人の日本兵が強制的に首都タシュケントに移送され、オペラハウス・ナヴォイ劇場を修復、建設作業に従事したことは述べた。

 

カザフスタン領内にも約5万9千人の日本人が抑留され、判明しているだけでも1,457人が死亡したと言われている。

中でも、首都アスタナ(現、ヌルスルタン)から車で3時間のカラガンダ州に抑留されていた日本人は半数以上の約3万4千人。冬は氷点下40℃になることもある過酷さから、約1500人もの日本人抑留者が亡くなっている。

けれども、ソ連全体の死亡率10%に比べると僅か2.5%である。

元抑留者の多くは「カザフで幸運だった」と口を揃えるそうで、その理由は、日本人は、勤勉で、真面目で、礼儀正しく、仕事もできる、等の働きぶりである。

そのため、カザフの人々がいつも親身になって接してくれたからという。

ウズベキスタンの抑留者も同様で現地の人々からのサポートがあった。

中央アジアの国々が非常に親日的であるのはこうした所以からである。

 

アスタナに住む日本人の集まり「日本人会」では、毎年夏になるとバスを貸し切ってお墓参りをしている。約100名が集まるそうである。

一つは市内から20キロ程離れたところにあるスパスク国際慰霊碑、もう一つはフョードロフスカヤ日本人墓地である。

カラガンダ第11収容所戦友会が建てた慰霊碑の横には「友よ、安らかに眠れ」の木柱がある。

続いて市街地にあるフョードロフスカヤ日本人墓地。そこには沢山の墓石が足の踏み場もない程に並ぶ。

カラガンダには日本人のほかドイツ、ウクライナ、ポーランド、韓国など様々な民族が抑留されていて、23の慰霊碑が設置されている。

埋葬されている捕虜の数は5千人を超えるという。

 

バム鉄道(バイカル・アムール鉄道、第二シベリア鉄道の略)の建設においては「枕木1本に人柱1本が立った」と言われるほど大量の死亡者が出たそうである。 

ノルマを達することが出来ないと食事の配給が減らされ、食事の配給が減らされると栄養が取れずにますますノルマの達成が遠くなり、やがて寒さに倒れていくという悪循環である。

ウズベキスタンと同様に、ここカザフスタンでも日本人が残したものの一つにオペラ劇場「リェットニー・テアトル(夏の劇場)」がカラガンダにある。2004年の取り壊しの際、市民が保存を求めて反対の声を上げたので、現在は劇場の一部を市内の公園に移転することで記念として保存されている。

 

両国の交流の中には、例えば兵士に誤って銃で撃たれた現地の少女を日本人軍医が見事な手術で救ったり、かつて日露戦争で日本の捕虜になったという老人が、日本に抑留中日本人に親切にして貰ったことを懐かしく語ったりなど、様々なエピソードがある。

例えば、カザフ側も日本人抑留者の慰安のために、お盆に合わせてラーゲリ内の広場で盆踊り大会を開き、現地の少女たちに着物を着させて舞を舞わせるという演出まで行った。

このとき抑留者たちは涙を流して感激し、力一杯の拍手を送ったと伝えられている。

 

大戦終戦後にソ連は大飢饉に見舞われたが、その後経済は回復し食糧事情も次第に改善した。

正月には簡単な御節料理が並べられるようになり抑留者たちを喜ばせたという。

生活の余裕は食事以外の楽しみにもつながっていき、絵画や将棋など興味を持ち、音楽や演劇も盛んになる。バイオリンを自分たちで作ったり、劇場にあった壊れたグランドピアノを修復したりして、音楽を通じ他の国の抑留者たちとの交流も活発化した。

例えば、ルーマニア人抑留者の楽団が日本人抑留者への慰問として「桜」や「荒城の月」を演奏し、日本側はドイツ人抑留者の送別会でドイツ軍楽を演奏するなどもしたというのだ。

 

カザフで抑留されていた横山操は、石炭採掘の工員として強制労働をし、そのときの情景や想いなどが、後の横山の作風に影響されたとされており、『カザフスタンの女』等に当時の印象を色濃く残している。その後、昭和を代表する日本画家の一人になる。

1966年、多摩美術大学日本画科の教授に就任し、多くの日本画家を育てる。

そのときに「被害者になるな、加害者になれ」という自らの生き様を彷彿とさせるような言葉で指導し、また、生徒達に人望があったという。

1971年、酒の飲みすぎにより(大変な酒豪でもあった)脳卒中で倒れ右半身不随となる。

回復後は左手で制作を続けたという。1973年4月1日、新作の制作中に没(享年53)

 

 

カザフスタンにはソ連軍の樺太侵攻は終戦直前から始まったが、樺太からカザフスタンに送られた日本人で、現在90歳の阿彦哲郎さんがカザフスタンにご健在である。

2017年に演劇「アクタス村の阿彦」の公演や「阿彦哲郎物語」としてドキュメンタリーの映画化されたので阿彦哲郎をご存知の人が多いと思う。

阿彦さんと同様に樺太からカザフスタンに抑留された人たちには北海道に住む三浦正雄さんと伊藤實さんがご健在である。

 

阿彦さんは、昭和5年(1930年)樺太本斗郡本斗町に生まれた。

両親と生活していたが、ソ連軍の樺太侵攻により、母親と弟は北海道に疎開したものの、15歳以上は残れという命令で、樺太に残り、造船所等での勤務に就く。

だが、終戦間際に駆り出された義勇兵の一員だったことが原因で、1948年、突如、テロリストとしてスパイ罪で逮捕され、10年の刑を受ける。まだ20歳になるかならない阿彦は、スパイ罪、人民の敵として、当時最も過酷な強制収容所として知られていたカザフスタンのジェスカズガン(バイコヌール基地に近い)政治犯収容所に送られ、秘密鉱山で働かされた。

そこは過酷を極め、1年間で体重は半分近くになったという。その生活で体を患い、死を待つ囚人たちを集めた、カラガンダのスパスク療養収容所に移される。そこで、少しずつ体力を回復し、建設作業等ができるまでに回復する。

スターリンが死んだ1953年の翌年1954年に恩赦で釈放される。

この時、24歳だった。

阿彦さんはアクタス村に放り出され、現地の人も嫌がる仕事をしたという。収容所を出た軍人は日本に帰国したが、民間人は帰れなかった人も多かったという。阿彦さんも帰れなかった。

戦後、ソ連領となったサハリンで逮捕された阿彦は、抑留者の軍属名簿には名前がなく、日本への帰国はさせてもらえず、他のソ連人の囚人と同じように、カラガンダで半永久的に流刑させられてしまったのである。

日本への帰国の希望を打ち砕かれ、旧KGBの監視下での生活で、食うにも困る状態だったがったが、当時のカザフスタンの人々の親切で仕事をもらい生きていくことができたという。

1956年、26歳の時、現地で知り合ったドイツ系女性と結婚し、1男1女を儲けるが、1986年には妻が仕事場の事故で亡くなる。

数年後、日本から手紙が届いたという。帰って来いと言われたが、結婚したから帰れないと返事したという。親と会えなかったのが今でも残念だと話す。

その後、カザフスタンが旧ソ連から独立し、阿彦さんの無実が政府により証明される。

そして、奥さんと日本への永住帰国を決意し、2012年に北海道に移住する。

しかし、2年後、カザフスタンに戻ってしまった。

日本に帰ったが、気候があわなかったという。家族のために帰ることにしたという。

長男はパワーリフティングの選手として活躍し、ソ連チャンピオン、アジアチャンピオンにもなるが、日本との交流を行うことができなかった。

1991年にソ連が崩壊し、1993年には日本大使館がカザフスタンのアルマティ市に設置されると、日本との交流が始まり、1994年になって漸く、日本への一時帰国をすることができた。

そして何度か日本への一時帰国しながら、戦後行方不明者となり戸籍上は死亡者扱いとなっていたが、日本国籍を復活させる。

しかし、2012年、現在の妻エレーナさんと永住帰国を果たしたが、妻や子供達が日本で生活ができないことから、家族に請われ阿彦さんはカザフスタンへ戻ることになる。

現在、阿彦さんはカザフスタンのカラガンダ市アクタス村で家族に囲まれて住んでいる(帰化)。

 

 

次のカザフ在の日本女性、橋本翠(みどり)さんのストーリーは、TV東京の「世界ナゼそこに?日本人」 (2018年4月)にお茶の間向けにも紹介されている。

ママココ大阪(大阪の子育てママの情報サイト)のメンバーである。

橋本翠さんは1982年長崎県五島列島生まれ。両親は食堂を経営、21歳で念願のトルコに留学して夫のアイベックさんと出会った。

6年の交際を経て27歳で結婚を決意したが、父親が大激怒、勘当同然でカザフスタンに渡る。

2009年に結婚し、カザフスタンでの新生活をスタートさせた。

カザフスタンで暮らすようやくカザフスタンに慣れてきた3年目、日本の父が危篤になった。

帰国し懸命な看病で父は回復、翠さんは日本で長男を出産した。孫をみて父は夫婦を認めた。

それから2年後、母親とインターネット電話で話していた時に父が突然倒れた。

翠さんは緊急帰国したが父は帰らぬ人となっていた。死因は大動脈解離であったという。

翠さんは父に心配をかけていたと自分を責め続けたが、そんな彼女を力づけてくれたのは

カザフの家族だった。翠さんはこの家族でよかったと語る。

 

翠さんは、夫と子供2人の計4人で暮らしている。

朝7時。朝食を準備。子どもを起こし幼稚園へ。自宅に戻って家事をこなす。

長男が通う公立幼稚園では5回も食事が出る。授業では3ヶ国語が学べる。

さらにプールやミニサウナもついており、そのうえマッサージも受けられるのだ。

夕方、翠さんは夕食の支度。4人家族だがプロフ(肉とにんじんと多量の油を使った炊き込みご飯)を8人前以上作る。

義理の両親も兄弟たちも、近くの別の家に住んでいるので、彼女は大人9人、子ども

5人の大家族で暮らしていることになる。

翠さんの家が中心にあって便利なのか、頻繁に訪ねてきては泊まっていくのだと愚痴る。

しかも、大家族主義のカザフスタンでは、長男の嫁がみんなの食事の世話をするという役目

を担っているため、翠さん1人がお手伝いさんのように忙しく動き回っている。

翠さんは落ち着いて食事ができないとか。

さらに、義姉との間の姑問題を抱えながら2人のやんちゃ坊主を育てている。特に、5歳の長男カナットくんは反抗期でわがまま放題。そんなカナット君を好きなだけ甘やかしてしまうのが、39歳独身の義理のお姉さんだという。独身の義姉にとって甥っ子は我が子同然、独身の義姉にとって甥っ子は我が子同然、進学問題でも塾に通わせることなどを強く提案されたりしている。

翠さんもお姉さんには何度も抗議したのだが、煙に巻かれて相手にされないのだそうだ。

カザフに限らず、どこの国、家庭でもある雑話である。

 

 

次は、カザフ在の日本人の神吉(かんき)直幸さん(57歳)を述べておこう。

カザフスタンと日本の草の根文化交流会であるNGO Japan-Kazakhstan Technology and Cultural Exchange代表である。1980年に広島市の私立崇徳高等学校を卒業している。

 

カザフスタンの所在地は、Jambul str.117 KB42 Almaty city, Kazakhstan

E-mailは、naoyuki.kanki@googlemail.com

日本の所在地は、東京都渋谷区代々木2-32-2-304 

NGO/NPO日本カザフスタン 技術・文化交流会

代表者名は、嘉藤 恵E-mail:jpnkaztecculexc@hotmail.co.jp

 

神吉さんは奥さんであるカザフ女性のカレンさんをガンで亡くした思い出地だったカザフスタンを再訪した。その時、たまたま亡き妻と全く同じ志を持った女性と出会ったのである。それが現在の妻ローラさんである。

ローラさんも最愛のパートナーを亡くした同じ傷を持つ再婚夫婦である。

神吉さんは現在「バイコヌール」(宇宙基地で有名)に妻のローラさんと彼女の連れ子2人の合わせて4人で暮らしている。

現在、夫婦で孤児らの世話を行っており、孤児らが希望で生きる光だという。

毎日の様に夫婦揃ってアルマトイ国立孤児院を訪れる。神吉さんは子供らに食事の差し入れや日本語を教えるボランティアを行っている。

孤児院の子ども達は神吉さんが孤児院に顔を出すと、思わず抱きつくほど神吉さんのことを慕っている。

 

 

エリート養成大学に日本人の学長がいる。勝茂夫ナザルバエフ大学学長である。

カザフで最も著名な日本人である。

経歴は、東洋棉花に勤務する父親の西ドイツ駐在に伴い、西ドイツに渡り、現地のギムナジウムに通う。帰国後、西ドイツに縁のある獨協高等学校へ、東京外国語大学卒業後、ウィーンへの留学を経て、東京大学大学院を修了。

大学院を修了すると国際連合工業開発機関に勤務。ここでは発展途上国の開発事業を手がけ、カリブ海の小国グレナダで同国の計画省にて開発アドバイザーを務める。

2年後の1979年世界銀行に入行する。世界銀行では、主として西アフリカプロジェクト局のエコノミストとして勤務し、ベナンコートジボワールなどに赴任する。

2003年、世界銀行にて、欧州・中央アジア地域を所管する副総裁に就任。

世界銀行副総裁を退任後は、カザフスタンに渡り、2010年に開学したナザルバエフ大学にて学長に就任した。

祖父勝正吉は、海軍軍医科士官となって海軍軍医少将。父の勝正一は、東洋棉花常務取締役を歴任。次兄の勝栄二郎大蔵省に入省し、財務事務次官になっている。

なお、勝海舟の家系とは縁戚関係にない。

 

2010年開学したナザルバエフ大学(本部はヌルスルタン)の初代学長に就任したが、カザフ政府の経済顧問も務める。

同大学はエリート養成大学として大統領の肝いりで誕生し、理工系が中心で授業はすべて英語。首都アスタナの新キャンパスは近代的で、新大学と新学長への国家の期待は大きい。

中国の習近平国家主席は2013年9月、カザフを訪れた際、同大学で講演し、「新シルクロード構想」を初めて発表したが、講演の司会を務めたのが勝学長であった。

ナザルバエフ大統領とも親しく、経済政策のアドバイスもするという。

「教授陣の8割は外国人で欧米の学者が多い。欧米で博士号を取った日本人教師もいるという。カザフの医学や理工系部門、市場経済運営などを担う人材育成を目的としており、東工大など日本の大学とも提携交渉している」と勝学長は語っている。

 

 

ここで、カザフスタンの超人気のバレーボール選手 サビーナ・アルシンベコバがいる。

その美しい容貌から「美人すぎるバレーボール選手」として有名になった。

身長182cm 12頭身、体重は59kg とスタイルは抜群!足の長さ120センチ。

その美しい容姿から日本ではメディアに取り上げられ話題となっている。

英語は得意らしく、通訳なしで英語が受け答えできる。

姓については、サビーナ・アルティンベコワと表記される場合がある。

 

サビーナは、日本や中国、韓国などアジアの国々で、異様なまでに人気を得ている。

アジア系とロシア系が共存している中央アジアの国々の中でも、美女の多い国カザフスタン。

欧米の影響も強く受けており、オープンなハートで付き合いやすい人柄も魅力的だ。

サビーナは、国際大会に出場後、台湾や中国で大ブレイク、数多くのメディアの取り上げられインスタグラムのフォロワーは300人から一挙に20万以上になった。

驚いて何が起こったのか分からず父と母に通話で相談したと語っている。

サビーナ選手は高校でバレー部に選ばれたのが競技を始めたのがきっかけである。

父はスキー選手、母は陸上競技走種目)の選手。高等学校に入学してからバレーボールを始めている。

 

以上

 

次は、2of5に続く

 

 


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