バルカン半島;マケドニア (4of4)



 

1885年作成(F. ビアンコーニ)マケドニア全域の地理図
 
近代、19世紀末のスラヴ人によるオスマン帝国に対する反乱をロシア帝国が支援する形で介入した露土戦争の結果、その講和条約であるサン・ステファノ条約により、一時は、ほぼマケドニア全域が一体としてブルガリアに含まれる形で、大ブルガリア公国(南西部の面積にして半分弱がマケドニア)として自治(実質的な独立)を認めることが盛り込まれた。
しかし、そのことでロシアのバルカン半島への影響力が強まることを恐れた、イギリスオーストリア=ハンガリーフランスなど列強の介入を調停する形で、ドイツ帝国ビスマルク宰相の主催で開催されたベルリン会議の結果、マケドニア全域がオスマン帝国に戻されるなど、大幅に修正が加えられることとなった。
 

 
1913年のマケドニア周辺
オスマン帝国(青)、モンテネグロ王国(紫)、セルビア王国(桃)、ブルガリア王国(緑)、ルーマニア王国(黄)、オーストリア=ハンガリー帝国(橙)。
マケドニア領有を巡る争いである。
この頃から、マケドニア一帯で散発的に、クレスナ・ラズロク蜂起内部マケドニア革命組織の結成・拡大、イリンデン蜂起などオスマン帝国に対する反乱も起こっていたが、それもマケドニアとしての独立にまで至らず、南スラヴ人ギリシャ人の混住地となっていたマケドニアの帰属は、いち早く独立を果たした周辺諸国の領土的な野心の対象になっていた。
中でもギリシャは、「オスマン帝国からのマケドニア解放」を旗印にマケドニア委員会を組織し、積極的に宣伝・扇動を試みた。
近代ブルガリア王国の間で分割され、この際に引かれた国境線が、そのまま現代の「エーゲ・マケドニア」(ギリシャ領内マケドニア)、「ヴァルダル・マケドニア」(北マケドニア)、「ピリン・マケドニア」(ブルガリア領内マケドニア)の境界線となる。
第一次バルカン戦争第二次バルカン戦争独立マケドニア構想・統一マケドニア構想そして、20世紀初頭のバルカン戦争の結果、マケドニアの地は、ギリシャ王国近代セルビア王国・国境線になっていなっている。
 
ユーゴスラビア王国
この内、セルビア王国の支配下に入ったマケドニア領域(現在の北マケドニア)は、第一次世界大戦の敗戦で解体されたオーストリア=ハンガリー帝国からスロベニアクロアチアボスニアヘルツェゴヴィナ、そして、一時的に独立していたモンテネグロ王国などと併せ、「南スラヴ人の統一国家」を掲げたコルフ宣言ギリシア語版ブルガリア語版セルビア・クロアチア語版英語版)(1917年)をセルビア王国が実現するとの大義名分で、セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国(後のユーゴスラビア王国)の一部に組み込まれた。
 
マケドニア民族解放戦争ユーゴスラビア社会主義連邦共和国
第二次世界大戦では、チトー率いるパルチザンによる枢軸国に対するユーゴスラビア人民解放戦争のマケドニア戦線として、「マケドニア民族解放戦争(National Liberation War of Macedonia)」の名の下に戦われた。
戦後、1945年に「マケドニア人民共和国」となり、1946年に「ユーゴスラビア連邦人民共和国」の構成国となった。
 
統一マケドニア主義者によって示された領域。マケドニア民族主義者が北マケドニア(VARDAR)外に主張する領域では、現在、スラヴ系マケドニア人は、少数しか居住していない。
ピリン・マケドニア」のブルガリア人民共和国からユーゴスラビアへの割譲の協約および破棄。
1946年、ソビエト連邦の指導者スターリンは、ブルガリアに対し、ピリン・マケドニアの自治を認めるように指示し、ブルガリア当局も現地の住民(ポマクも含む)に対し、「マケドニア人」としての住民登録を指導し、実際、住民の約6割が「マケドニア人」として識別された。
1947年、ブルガリアとユーゴスラビアとの間で、ピリン・マケドニアがユーゴスラビア連邦の一部となり、ヴァルダル・マケドニアとの統一や査証の廃止・税関の撤廃などを実現する内容の合意に署名した。
しかし、直後の1948年、チトーとスターリンとの関係悪化(チトー主義自主管理社会主義)を受け、その協約も破棄された。
 
ギリシャ内戦
第二次世界大戦後そのまま1949年まで続いたギリシャ内戦においては、ギリシャ・マケドニア人ギリシャ領内のマケドニアに住むギリシャ人)のみならず、マケドニア民族解放戦線を組織して戦った、ギリシャ領内のマケドニアに住むスラヴ系マケドニア人も参戦した。
 
マケドニア社会主義共和国
1963年、ユーゴスラビア連邦が「ユーゴスラビア社会主義連邦共和国」と改称したのに合わせ、マケドニアも改称した。
 
マケドニア共和国
1991年、名称から「社会主義」を外し、更に同年の内にユーゴスラビアから独立した
 
マケドニア名称論争北マケドニア
独立から17年に渡り、「マケドニア」という国名の使用への抵抗のみならず、それを理由として北大西洋条約機構欧州連合への加盟にも反対し続けて来たギリシャとの間で、2018年6月、「北マケドニア」への改称で歴史的な合意に達し、両国内での法的な手続きを終えた2019年2月、正式に改称した。
翌3月、北マケドニアは、北大西洋条約機構に加盟し、また、欧州連合との加盟交渉開始の枠組み入りも欧州理事会によって承認された
 
以上


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