タジキスタン 1of 5


 タジキスタンは中央アジア5ヵ国の中で最貧国である。

中央アジア諸国の中で唯一内戦を経験している国でもあり、失業率は高く、国民一人当たりのGDPが877$('19)と中央アジア5ヶ国の中では最も低い。

タジキスタンにおいて,大規模な国際移民が生じていることは広く知られる。

受入外国送金の規模は対GDP比で50%近くに達し,その比率は世界で最も高いものとなっている。

こうした中でのジェンダーの多様化を考察すると,イスラム圏の規範が強く見られると想定される。しかし家計内において男性が欠けるという状況が広範に発生しているタジキスタンの女性の位置の動態は、示唆を与え得るものであると考えられる。

現在のタジキスタンにおけるジェンダーの状況について分析するために、多数の成人女性がフルタイムで働く経験をもつタジキスタンにおけるワーク・ライフ・バランス実現の可能性、ジェンダーの状況と民族的ファクターとの関連に関心をおかねばならない。

「働いている女性は良いなと思います。もし女性が働いているならば、他のものを必要とし ないし、誰かに依存することが無くなります。女性が自立するには働くことが最良の道だと思います。女性が働いていれば、どんな問題も自分で解決出来ます。今の時代、お金が あれば何でも解決出来ますよ」と22 歳の販売員である女性が言う。

「タジクの女性にとってと一般化することは難しいですが,私個人で言えば家庭が仕事より大切です。なぜならば、仕事は仕事です。十分に満たされた家庭を誰もが作れるわけ ではありません。女性の幸せは家庭の中にあります」(30 歳,生産管理技師の30歳の女性)。

このように,タジキスタン社会では、女性も男性と同様に就業しており、さらに家事・育 児のほとんどを女性が担っている。しかし、家事を軽減する電化製品の普及率は低い。つまり、女 性の 2 重の負担(仕事と家事)を負っているという状況がある。

専業主婦の場合でも、家事に多くの 時間が費やされていることが示唆される。こうした指標からも、ワーク・ライフ・バランス社会の実現は当面考え難く、その道は遠いものと思わざるを得ない。

家庭内における男女の役割分担については、タジキスタンでは明らかに、家事・育児は女性の仕事、というのが自然なことであり、女性が家事・育児を担っている。

これは夫の家庭内での権力とも関係している。つまりワーク・ライフ・バランスの実現は簡単なことではない。しかし,タジキスタンをはじめとした旧ソ連諸国のイスラム社会は、他のイスラム社会と比較すると特徴的な要素も持っている。それは、女性の高い識字率、就業率、そしてある程度の男女平等の達成である(旧ソ連諸国のイスラム社会も一様ではないが)。

こうした国をネーミングすれば,『旧ソ連型イスラム社会』とでもいえるであろう。

今後、この旧ソ連型イスラム社会が経済状況の動向に伴ってどのように変化していくのか注視したい。

 

タジキスタンの面積は日本の約40%、人口は、930万人。

(侮るなかれ、100年後、日本は極東アジアの最貧国に陥っているかも知れないのだ

または、海の藻屑に消えているかも・・・)

なお、日本からの直行便はなく、乗り継ぎをするのが一般的である。主な経由地としてモスクワやデリー、ミュンヘン、イスタンブールなどがある。

所要時間は経由地にもよるが、モスクワ経由で最低16時間程度かかる。

 

こうした近いようで遠いタジキスタンに於ける日本は、日本製の家電製品や自動車が富裕層のステータスとして認知されている他、先端技術や武道の国として比較的好意的に認識されている。他方、未だ日本企業の進出は極めて限定的であり、在留邦人も少ない中、社会における日本語のニーズは低く、従って日本語学習者数も限定的である。

日本語教育に対する支援としては、JICA日本語教育に対する支援としては、JICAシニアボランティア(SV)が中心となり、日本語教師会の設立準備、日本語教育カリキュラムの作成、教科書の選定、現地人教師の指導、学生への日本語教育にあたっている。

また、国際交流基金による日本語教師研修プログラムを活用し、現地人教師のレベル向上に取り組んでいるほか、教材購入助成プログラムを活用して日本語教育教材の充実化を図っている。シニアボランティアが中心となり、日本語教師会の設立準備、日本語教育カリキュラムの作成、教科書の選定、現地人教師の指導、学生への日本語教育にあたっている。また、国際交流基金による日本語教師研修プログラムを活用し、現地人教師のレベル向上に取り組んでいるほか、教材購入助成プログラムを活用して日本語教育教材の充実化を図っている。

問題点としては、十分な学習環境が整備されておらず、かつ十分な質と数の教員が存在しないことから日本語教育レベルが低水準に留まっていること、更に日本語を使う就職先等、日本語の習得を活かせる場が非常に限られている点である。

 

民族は、タジク系(84.3%)、ウズベク系(12.2%)、キルギス系(0.8%)、ロシア系(0.5%)公用語はタジク語(イランのペルシア語に近い)、ロシア語も広く使われている。

1992年に旧ソ連が崩壊した後、内戦が勃発。紛争は‘97年まで続いた。

旧ソ連の構成国だった中央アジアの国々では、大統領に対する個人崇拝が常態化しており、政治的な対抗勢力や独立系のメディアはほとんど存在しない。

タジキスタンでも、権威主義的な指導者として知られるエモマリ・ラフモンEmomali Rakhmon)大統領(68歳)をめぐる個人崇拝が強い。

エモマリ・ラフモンが‘92年から大統領を務め、現在4期目である。1期の期間は7年と超長期である。

ラフモン氏の長男が後継者になる予定との噂もある。

バーゼル・インスティトゥート・オン・ガバナンス(バーゼル委)の汚職ランキングでは、タジキスタンはイラン、アフガニスタンに続き第3位である。

 

 

前編のキルギス国と同様にお隣りに位置するタジキスタン国もご存知ない方が多いと思う。

お隣同士、どこでも仲が悪いようだが。

ただ、2019年10月に日本がサッカーで対戦し、首都ドゥシャンベにある『リパブリカン・セントラル・スタジアム』で開催されたので、サッカー好きの人達には認知されているとおもわれる。

国土の東側は中国と国境を接しており、日本との時差は4時間。今回の試合は現地時間17時15分、日本時間21時15分にキックオフされた。なお、国土の半分が標高3000メートル以上という山岳国だが、試合が行われる西部に位置するドゥシャンベは標高が700メートルほどである。

日本の「箱根の仙石原」と同じくらいの高さで試合が行われたことになる。

 

2020年東京五輪では、青森市にて強化合宿を行うタジキスタン選手団の参加者や日程が決まっている。2016年リオ五輪陸上男子ハンマー投げ金メダルの国民的英雄、ディルショド・ナザロフ選手をはじめ、陸上、柔道、空手の3競技計15人の選手が、8月上旬から9月下旬までの間、競技別に分かれて2~3週間ずつ合宿する予定である。

 

著名な人物を数人挙げておこう。

ラスル・ボキエフ ; 北京五輪柔道73kg級銅メダリスト=タジキスタン初の五輪メダル獲得

ユスプ・アブドサロモフ ; 北京五輪レスリング・フリースタイル84kg級銀メダリスト

タハミネー・ノルマトワ; 女優、道端で物乞いをしているところをスカウトされ、モフセン・マフマルバフ監督作品「サイレンス」(1998年)に出演。演じた役のコルシッド[ホルシード]は盲目の少年という難しい役どころであったが、撮影が終了するまで、監督以下スタッフは誰も、本人が少女であることに気づかなかったという。

彼女が演じたコルシッドには、少女が女になる前に放つ一瞬の輝きがある。輝く金髪、伏せた長い睫毛が落とす陰影、桃色の唇。彼女自身も気づいていないという観る者を魅了してやまない美しさが存在していた。

 

私にはタジキスタンと言えば、国連タジキスタン監視団(UNMOT)に政務官としてPKO活動に従事した故秋野 豊博士をまず思い出す。

1998年7月20日のことで、搭乗する国連車が首都ドウシャンベ東方の山岳地帯を走行中、身元不詳の武装集団による待ち伏せを受け、同乗のシェフチク少佐(ポーランド)とシャルペジ少佐(ウルグアイ)の両軍事監視員、及びタジク人のマフラモフ通訳兼運転手とともに射殺された。享年48歳であった。

この悲劇が起きた場所には、記念碑が建立され、幾つかの団体や学校施設は秋野 豊博士の名前を冠するようになった。大統領は、2007年の日本訪問の大学での記念講演で、秋野博士へ哀悼の意を捧げ、その偉大なる貢献を顕彰し、国の代表として秋野博士に対する特別の感謝の意を表している。

 

ちょうどこの頃、1998年からUNDPタジキスタン事務所に勤務した、現モルディブ国連常駐調整官兼国連開発計画(UNDP)常駐代表の野田章子女史がいる。国連に勤めて23年になる大ベテランである。

学生時代、ダイビングに行ったフィリピンのセブ島でストリートチルドレンを見たのが後の国連入りのきっかけになったという

彼女は、慶応義塾大学大学院修了(政治学修士)。三菱総合研究所を経て、UNDPのコソヴォユーゴスラビア(現セルビア・モンテネグロ)の各事務所を経て、2002-05年はUNDP本部でマーク・マロック・ブラウン前総裁のもとでプログラムスペシャリストを務める。その後、国連コンゴ民主共和国ミッション(MONUC)、パキスタン国連常駐調整官事務所での勤務を経て、UNDPモンゴル事務所常駐副代表、UNDPネパール事務所長を歴任。2014年よりモルディブ国連常駐調整官兼UNDP常駐代表を務める。

なお、モルディブはインド洋に浮かぶ島国で、美しい海のリゾート地だが、首都マレは東京ディズニーリゾートより少し狭いくらいの島に10万人がひしめき人口密度が高い。

また2008年に憲法改正後初めて民主的に大統領選挙が行われるなど民主政治の歴史は浅い。国民はイスラム教徒である。

 

彼女が飛(雌)翔した知的恫喝を引用してみよう。

「JPOの体験に関する原稿を依頼された時、最初にはJPOになるまでの期間でした。高校と大学で計2年間の留学経験があるといえども、帰国子女でもなく、大学院も日本で修了している私にとって国連で働くということは夢のまた夢、まさかJPOに合格するとは思いませんでした。ましてや現在のように国連の代表として一国の国連の開発計画を指揮するような立場に就くなど考えられませんでした。ただチャレンジ精神だけは人一倍。だめもとでとにかく諦めず、そして悔いのないようにJPOの試験に備えたのを記憶しています。JPOに応募した1996 年は日本のシンクタンクに勤務して1年ほどが経っていましたが、日本社会の窮屈さ、女性への偏見には既に嫌気がさしており、何とかして世界に羽ばたいて憧れの開発の仕事に就きたいという一心でした」という。


更に、           

「JPOの合格通知を受け取ったのは同年12月。そこからまた1年を経て、1998年1月に国連開発計画(UNDP)のJPOとしてタジキスタンに赴任しました。タジキスタンルーマニアという選択肢がありましたが、内戦が終結し和平協定が1997年6月に結ばれたタジキスタンの方が国連の役割がより重要ではないかと考え、迷わずタジキスタンを選びました。

タジキスタンでの2年間、1冊の本になるくらいの経験をしました。和平協定が1997年6月に結ばれたとはいえ、国内の政治は不安定、治安も悪いままでした。実際、私の赴任のタイミングも外国人の拉致事件と重なり、出発予定の3日前に急遽延期となり、2か月遅れで1998年1月に赴任しました。その後も治安はよくならず、同年6月には、元筑波大学助教授で、国連タジキスタン監視団(UNMOT)に派遣されていた秋野豊政務官が銃撃される事件が起きました。治安の悪化と邦人職員の保護という理由から事件後、私もウズベキスタンに1か月避難しなければなりませんでした。また翌年8月にはタジキスタンに活動拠点を広げていたウズベキスタン反政府勢力による国際協力機構(JICA)専門家の拉致事件が起こりました。この様な治安のため、午後6時から朝の日の出時まで外出禁止令が下され、特別の許可無しには仕事後に出かけることもできませんでした」と語る。

日本人が国連で働くことについては、国連は競争も厳しく自己主張も必要なので、そういうことに慣れていない日本人がこれをどう克服してゆくかが課題とのことだが、多くの日本人に挑戦してもらえればさらに上に立つ日本人も増えるのではと呼びかけている。

 

世界は、米国の紛争地への関与を弱める政策でロシア・中国が台頭、ISなども勢力を拡大し、難民が押し寄せるヨーロッパは排外主義が力を増している。こうした中、紛争の火種となりやすい発展途上国の厳しい生活環境を少しでも改善しようとする野田章子らの熱情に心が飛翔する思いである。

 

 

また、前編のキルギスでも述べた杢尾雪江女史が2001年より2008年までユニセフのタジキスタン事務所代表として赴任している。

タジク人と45歳で結婚し、幸運にも47歳で子どもを授かっていることは既に述べた。

その彼女はこう言う、

「夫の出身はパミール高原というところで、中国との国境付近でなあーんにもないところなんですけど、彼はそこにうちがほしいと言ってます(笑)。ドゥシャンベからさらに車で二日くらいかかるところなんですよ。そこで仙人のような生活をすることが彼の夢なんだそうです。ちなみに彼はタジク語とロシア語とパミール語ができて、私は日本語と英語で仕事をしていて、夫婦の間ではロシア語と英語の半々で生活しています。子どもがどんな言語体系で育つのか楽しみなような、不安なような…でもどこにいても、子どもが生まれたら日本語はきちんとできるように教育したいですね」と。


さらに、

「結婚したのもタジキスタンに来てからで、それもだいぶ晩婚でしたからね。それまでは残業もあり、昼食なんて食べたり食べなかったりで、仕事に合わせて一日が回っていた感じだったし、赴任地などもまったく一人で自由に選ぶことができました。それが結婚したときから生活のパターンや考え方がずいぶんと変わりました。もうタジキスタンには7年越しで住んでいて、そういう意味ではなんでも知っているし、夫の家族や親戚を含めて助けてくれる人たちもたくさんいます。でも医療サービスのこととか、先ほど申し上げたように厳冬でのエネルギー危機を考えると不安に思うことがあるのも確かで、育児などのことも含めて考えて、周りは知らない人ばかりですがウクライナに決めました」とも言う。

 

 

次に、2015年3月にテレビ東京の「世界ナゼそこに?日本」から“タジキスタンで赤字続きの会社を経営する”という、日本人男性の小椋雅夫(現、68歳)も紹介しておこう。。

東京四谷で生まれ、母方の榊旅館で甘やかされて育ったお坊ちゃまであったという。

唯一厳しかったのは、海軍将校だった父の佐美男さん。

父の口癖は、「金持ちになれ」である。

その父はカラーテレビを秋葉原で販売し、大成功を収め、現在のラフォーレ原宿がある一等地に、カフェを開いた。次々に事業を成功させた父の命ずるまま、小椋さんは様々な会社で働いていた。

さらに地方地主のお嬢様と見合いをすすめられ結婚。その全てが父の利益のためであったことを知ってしまったのである。この出来事を境に縁を切り、離婚もした。

輸入車販売を東京で始め、バブル期だったこともあり大成功。長野五輪で盛り上がっていた頃、フランス生まれの車smartに一目惚れし、輸入販売を開始。

日本でもヒットし、欲しいものはなんでも買えるようになった。パイオニアだった父の偉大さに気付いたという。

小椋雅夫さんは、かつての仕事仲間から、日本のタジキスタン大使館で行われるパーティーに誘われ、出席する。そこでタジキスタンから来た留学生に声をかけられ、タジキスタンに会社を作ってもらえないかと言われ、それを小椋さんは快諾してタジキスタンに向かった。

声をかけてきたのは、今の従業員であるジャホさんであった。

それまで名前さえ聞いた事もなかったこの国へ、たった1人で来たのである。

 

小椋雅夫が設立した会社は12年目になる。従業員は14名。そのほとんどが語学大学の日本語科の卒業生だったが、路頭に迷っていたところを小椋さんに拾われた貧しい若者たちである。

主な仕事は観光客のツアーガイドや、企業の現地通訳などである。

しかし、貧しい現地の若者を食べさせる事で精一杯の日々なのだ。

自分の食費も節約し、会社存続のために生きている。

かつて小椋雅夫は日本でトラックに当て逃げされ、現場検証中にトラックが突っ込んできて、意識不明になっている。両足の靭帯断裂。一生車イスの可能性もあると言われたが、すぐにリハビリを開始した。しかし、重い物も持てず、400m以上連続して歩くことも出来ないという。それでも会社存続のため自らの給料は0円ながら、事務所にいる従業員のためにお昼ごはんまで作ってあげているので皆から慕われているそうだ。

 

以上

 

次は、2 of 5に続く


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