タジキスタン 5of 5

1995年制定された国旗の意味は、赤は国家統合、白はタジキスタンで産出される綿と国民統合、緑は国土の自然を表している。
1993年に制定された国章は、円形で、中央にある王冠はタジキスタンの国旗に使われているものと同じものも国民を表している。下に太陽、上には7つの星があり、これは天国にあるという7つの果樹園を表している。底部には開いた本があり、その上にははパミール高原の山々が描かれている。エンブレムの周囲は、左には綿の実、右には小麦が、赤、白、緑という国の色のリボンで巻かれている。
 
ここで、経済状況についても多少触れておこう。
タジキスタンは中央アジアの中で最も貧しいが、内戦終結後の経済発展は著しく、近年のGDP成長率は7%以上に達している。
主要歳入源はアルミニウム生産、綿花栽培、国外出稼ぎ労働者からの送金である。
近年、海外に出稼ぎに出ている家族がいる家庭の割合は40%にのぼり、そのうちの90%はロシアで働いていること等、タジキスタン経済は出稼ぎ労働者からの海外送金に大きく依存し、2016年以降、GDPの30~50%を海外送金が占め、貧困層を多く抱えるタジキスタンにとって重要な収入である。
タジキスタンは世界的規模のアルミ精錬を行っている。
西部の都市ツルスンゾダにあるタジク・アルミニウム社(国営Talco社)でアルミ精錬所を行っている。生産量は世界シェアの1.2%に当たる31万トンに達するが、原料となるボーキサイトウクライナなどの外国からの輸入に頼っている。
輸出金額に占めるアルミニウムの割合は53.7%にも達するが、その利権の全てがタジク国内にあるわけではない。
この他、水銀(20トン、世界シェア1.1%)、を産する。
有機鉱物資源は亜炭原油天然ガスとも産出するが量は多くない。ウラン鉱も存在する。
 
ところで、タジキスタンは、麻薬押収量が世界3位である。
主なヘロイン密輸ルートは、アフガニスタンからトルコ、バルカン半島経由で東欧に至る「バルカンルート」と、アフガニスタンから中央アジア、ロシア経由で東欧 に至る「中央アジアルート」がある。
ただし、アフガニスタンからロシアなどへの移送取締りを国連などの協力で実施したため、その効果は上がっているという。アフガニスタン国境の橋が米国により建設されるなどインフラストラクチュア整備が少しずつ進んでいる。
タジキスタンは薬物の密輸においてアフガニスタンロシアをつなぐ重要な拠点となっており、ロシアから国際列車等でつながっているヨーロッパ諸国にとっては、タジキスタンの国境を監視することが重要な関心事項となっている。
中央アジアで押収される量の約80%はタジキスタンで押収されており、これは世界で押収される鎮痛剤(ヘロインなど)の3分の1にあたる量であり、タジキスタンは、世界の麻薬流通を抑える上で重要な役割を担っている。
ただし、アフガニスタンからロシアなどへの移送取締りを国連などの協力で実施したため、その効果は上がっているという。アフガニスタン国境の橋が米国により建設されるなどインフラストラクチュア整備が少しずつ進んでいる。
 
2018年7月29日、首都ドゥシャンベからアフガニスタン国境に向かう道路を南に約150㎞下った付近の地域で、観光目的で現地を訪れていた外国人グループが武装勢力に襲撃され4名が死亡する事件が発生した。事件は当初、ひき逃げとされていたが、翌30日にイスラム過激派組織「イスラム国(IS)」が犯行声明を出した。当然、麻薬が絡むものだ。
 
ところで、日本政府によるタジク・アフガン国境管理協力があるのだ。
2018年10月、東部ゴルノ・バタフシャン自治州イシュコシム郡ランガールにて、日本がUNDPと連携して完成した国境ポストの引き渡し式を、ラフモンアリ国境警備隊総司令官との間で実施している。
式典にはJICAの井上タジキスタン事務所次長も出席し、北岡大使、総司令官とともにスピーチを行った。
ランガールは、アフガニスタンとの国境にあるが、さらにパキスタンとの国境とも僅か40キロという重要な位置にあるため、完成した国境ポストは3か国の交流の場として機能することが期待されている。
北岡大使はスピーチで「悪天候などで工事に遅れがあったが、今回ようやくこの重要な国境ポストをタジク側に引き渡すことが出来て感無量である。国境管理の重要性は、先般訪日されたラフモン大統領と安倍首相との間でも合意されたことだ。日本政府は今後もUNDP、さらにはUNODCとも連携しつつ、国境管理面での協力を継続して行く」と発言している。
中国やアフガニスタンに隣接しているタジキスタンの平和と安定が中央アジア地域、ひいてはユーラシア地域全体の平和と安定にとって重要との認識から、日本はタジキスタンの和平プロセス及び復興を支援してきた。また、内戦後の平和の定着の観点から今後も支援を継続していくことが重要である。
 
 
ここで、農業経済、特に“綿(白い金)”について言及しておきたい。
これは、日本の国際戦略上においてもこの地域の農業発展は重要であるという認識の下、今後持続可能な地域開発に資する技術・知識を提供し、現地NGO・政府関係者を対象に農村開発指導者としての能力向上を推進していくための人材育成を行う指針としたい。
 
タジキスタンでは、綿は厄介なテーマである。現地の人たちは綿について話したがらない。
こうして何十年にも渡り、ある人を金持ちに、またある人を貧しくさせた。
だが今日では国中に冷静さが広がっている。
街ではよくこんな声を聞く。
「綿生産の今後をもっと見通せさえすれば、私たちはもっと綿に誇りが持てるのかも知れない。しかし、今のところ確かなのは、支配階級と売買人だけが綿で潤っているということだけだ」
と。
中央アジアのタジキスタンでは、伝統的な農作物として綿が現在も大規模生産されている。
しかし、ソビエト連邦の崩壊以降、農家は窮地に立たされている。
そこでスイスのNGOなどが中心となって、有機栽培を促進するなど様々な支援プログラムを行っている。
柔らかく、ふわふわ、そして優しい白色。布の材料にはなくてはならない綿だが、栽培は難しく、手間がかかる。栽培期間は約200日である。。
常に雑草を取り除き、水をこまめにやらなければならない。だが一番大変な作業は9月の収穫だ。素早く、しかも細心の注意を払いながら綿を蒴果(さくか)から摘み取らなくてはならない。
蒴果の先はカミソリの歯のように鋭いのである。
「収穫した綿は、首の周りで結んだ前掛けに入れる。40キロのノルマを達成するには、前掛けを何度、生綿でいっぱいにしなければならないのか想像できるでしょう」。
そう話すのは、首都ドゥシャンベで教師を務めるフィルザさんである。
受け持ちの生徒たちと同じく、9月、10月は綿畑で収穫作業をする。
 
と同時に、綿の生産高の減少について述べねばならない。
ドゥシャンベ近郊を回ってみると、数年前までは白い綿畑が見渡す限り広がっていた耕作地帯には、今、黄色い小麦畑が広がってきている。
近年の農業改革により、農家は作付作物を基本的に自由に選べるようになった。
それと共に、綿畑は激減した。綿の作付け面積は、ソ連時代はほぼ100%だったが、今では60%強ほどしかない。タジキスタンでは主に小麦や米が栽培されている。
こうして状況は変わったので、今日の農家は自分で何を作付けするかを決め、種や苗を調達し、作物の成長を見守り、収穫し、販売まで自分で手がけなくてはならない。
さらに、農地と収穫物が基準を満たしていることを示す認証ラベルも必要になってくる。
「やっかいなのは、世界市場の価格に対抗できる保証がタジキスタンの農家にはないことだ」
これは日本の農家も同じであろう。
 
実例を挙げてみよう。
太陽でダメージだらけの道路を走り、ウズベキスタン国境近くのソグド州マッチャ地域に入った。この豊かなオアシスはフェルガナ谷に位置し、シルダリヤ川の支流から水を引いている。ここでは綿や米、果物、野菜、穀物が栽培されている。
ソ連崩壊後、マッチャの住民たちには厳しい時代が訪れた。「パン1個のために死にかけた人たちを見たことがある」と、ジュネーブに拠点を置くNGO「ベター・コットン・イニシアチブ他のサイトへ」のメンバーで、子どものころをこの地域で暮らした男性がそう語る。
「11歳のとき、友達と一緒に隠れてウズベキスタンにでかけた。穀物と備蓄品を買うためだ」
現在30歳の彼は、大学で農業を学んだ後、タジキスタンの農家たちに西欧の技術を紹介する講座の講師を務めている。ここでは農機具が普及していないため、今もスコップやクワなど従来の道具で農作業が行われている。
 
団結は力にと謳う、「ドイツ国際協力公社(GIZ)他のサイトへ」のコンサルタントは受講者たちにこう力説する。「グループで協同組合『ザロブ』と提携すれば、これまでのように2度、3度と仲介業者を挟む必要がなくなる。必要なのは輸出業者と国際的なバイヤーだけだ」と。
すると受講者の一人がこう尋ねた。「私たちはどうしたら輸出業者になれるのか?」。
答えはこうだ、「今はまだ難しい。だがみんなが力を合わせれば、市場を生き残ることができる。少量ではなく、十分な量の綿が供給できれば、バイヤーの興味を引ける」。
まるでお役人の応答のようだ。

パミール高原、頼もしいスイスの支援活動を紹介しよう。
ここではスイスの開発援助が高く評価されている。スイスインフォは実際に現地を訪れ、タジキスタンの現状を追った。 中央アジアの高地に位置し、長い歴史を持つタジキスタン。
徐々にではあるが、自立をし、世界にその扉を開き始めている。 ...
受講者たちは話し合いをするために休憩を取った。額のしわが帽子の下で見え隠れする。タジキスタンの他地域と同様に、マッチャ地域ではある程度の年齢を迎えた男性がすべてを決定する。彼らは講師の提案を受け入れることにした。今年は、同じ種類の綿を作付けできる人がたくさんいるからだ。
 
アフリカの国々とは違い、タジキスタンの農業従事者の教育レベルは高いのである。
「ほとんどの人が読み書きできる。ソ連時代にさらに高度な教育を受けた人たちもいる。だが紛争終了後、教師や技術者が農家に転向することが度々あった。自分たちの職種では仕事が見つからなかったためだ」
 
なお、タジキスタンの教育は、15歳以上の国民の識字率は99.7%(男性:99.8%、女性:99.6%)と非常に高い。教育支出はGDPの3.9%を占める。
 
中央アジアのこの国では、頭が良くても貧しいままというケースは稀ではない。
農家1家族の平均収入は1シーズンで1千ドル(約12万円)から2千ドル。
収穫高や地域によって差が出る。だが、生産する作物の種類を増やせば、収入が上がる可能性がある。
 
スイスの開発援助団体「ヘルヴェタス他のサイトへ」でプロジェクトリーダーを務めるジャミラ・ユスポヴァさんは、野菜農家を支援している。
頼もしいスイスの支援活動なのである。
なお、ヘルヴェタス(Helvetas、スイス国際協力協会)はスイス最大の援助機関である。
「例えば勤勉な農家がいるとする。所有する農地は一区画だけで、そこにキュウリ9トン、トマト9トン、チリメンキャベツ、タマネギ、アプリコットを育てる。すべて収穫できたら総収入は約6千ドル。私たちのプロジェクト内であれば、手取り収入は2,100ドル。今年は2,200~2,400ドルに上がるだろう」とユスポヴァさんは語る。
多様性は強みである(人間も同じだが)。
ヘルヴェタスが今年開催したセミナーには、1,500人の小規模農家が参加した。開始当初の2009年から今年までで、約8千人の農家が同団体のセミナー参加している。
一方、一筋縄ではいかないのが有機栽培である。
ヘルヴェタスはソグド州で有機綿を栽培するというアイデアを出し、13年からGIZ(ドイツ国際協力公社)が資金の一部を提供している。
有機綿は初収穫まで3年かかるため、辛抱が必要だ。最初の2年はミネラル肥料や有害な化学物質を農地から除去しなければならない。
「従来の綿栽培では、こうした物質を1ヘクタールあたり約500キロ使用していた」と、ヘルヴェタスのシェルゾド・アブドゥラフマノフさんは説明する。
「有機栽培への移行期では収穫高が落ちる。そのため、せっかくやる気を出していた農家ががっかりし、従来の生産方法に戻ってしまう可能性もある」
現在の収穫高はとても少なく、平均で綿畑1ヘクタールあたり2.5トン。
「ソ連時代は4トンだった。だが何十年も殺虫剤をたっぷり使ってきた結果、土地が汚染されてしまった。今、新しい方法を試さなければ、ダメージが回復することはない」とアブドゥラフマノフさんはいう。
有機綿にメリットがないわけではない。最初の困難を乗り越えれば、市場で従来の綿よりも2割高く売ることができる。タジキスタンの農家は今年、ヘルヴェタスの支援のもと、有機綿を1,100トン以上栽培することにした。
「失敗は許されない。大勢の人の暮らしが良くなるかどうかは、このプロジェクトにかかっているのだから」とアブドゥラフマノフさんは語る。
しかし、タジキスタンの農家たちは、世界の競争相手と戦っていく覚悟がまだできていないようだ。「ソ連時代の計画経済では、農家は特定の広さの農地に綿を作付けし、特定の量の綿を(当局に)引き渡せば、そこで農家の責任は終わっていたためだ」と、アブドゥラフマノフさんは説明する。
 
 
最後に、タジキスタンの料理に触れておこう。
タジキスタン料理 は、タジキスタンにおいて伝統的に食されてきた料理であるばかりでなく、ロシアイランアフガニスタンウズベキスタンといった周辺地域においてもタジキスタン料理は一般的なものとなっているからだ。
国民的料理として人気があるパラウ(オシュともいう)と呼ばれるピラフ(プロフ)は
黄色のカブ人参ひき肉といった材料を細かく刻んでとともに植物油や羊脂を用いてカザンと呼ばれる鉄製の大釜で炒めた後、蓋をせずに炊きあげた料理である。
羊肉はさいの目切り、人参は短冊状に切り、米は人参や油で黄もしくはオレンジ色に色づくまで炒める。パラウは通常テーブルの中央に大皿で提供されることが多い。
伝統料理としては他にクルトブ (Qurutob、クルトップとも呼ばれる) がある。
この料理名は料理の工程から名付けられており、 塩分の多いチーズの塊であるクルトを水で溶き、その液体を薄い層状の平パンの欠片に注ぐ。最後に飴色になるまで炒めた玉ねぎや他の野菜を載せて提供され、肉が料理の材料として用いられることはない。
クルトブもまた国民食と考えられている。
食事は通常中央アジアの平パンであるナン (タジク語: нон)とともに供される。タジク人の食卓において主菜はあるがナンがない場合、食事が不足していると言うとされる。ナンを地面に落とした場合は、人々は物乞いや鳥のため、落としたナンを棚の上においておく。
慣例では、ナンを上下逆さまに置くと悪い運を呼び込んでしまうとされており、別のナンで無い限り、他の料理をナンの上に載せる際にも同様のことが当てはまるという。
 
食事の最初にはドライフルーツやナッツなどの乾きものとハルヴァと呼ばれるお菓子が出される。また、タジキスタンでは緑茶やチャイが好まれて飲まれている。
は通常食事とともに出され、来訪者がある場合はホスピタリティの一環として食事以外の時間であっても提供される。タジキスタンの茶は陶器製のポットを用いて熱い状態で提供され、砂糖などは入れずに持ち手のない小さなカップに入れて出される。
昔からタジク人の男たちは体力を使う仕事の後にお茶を飲んでひと休みすること、お客さんが家に来てくれたら必ずお茶を出すのがタジク人の習慣である。
 
チャイハナはペルシア語で喫茶店のことで集会所である。お茶を飲めるために「チャイハナ」と呼ばれている。西洋のカフェの雰囲気で茶が提供されているのである。
暇になると友達同士で集まり、お茶を飲んでおしゃべりをする。こうした集会所はタジキスタンの各町村には必ずモスクがあって、隣にはチャイハナがあるのが普通である。
チャイハナの中にはいくつかソファがあり、部屋の角には木彫りで美しい花模様が彫られた柱がある。外観はガラス張りで通りに面している。
数羽のウグイスなどを鳥かごに入れて吊るし、鳴き声を楽しむのが一つ、タジク人たちがお茶を飲むときの楽しみになっているのだ。
現在、チャイハナでは伝統料理を食べることもでき、観光客にも人気の場所になっている。
特にドゥシャンベのチャイハナ・ロハトは、タジキスタンの首都を訪れた旅行者が必ず立ち寄る場所となっている。
チャイハナ・ロハトは、1958年に建てられ、料理に限らず、タジキスタンの様々な技術を見られ、触れられる場所となっている。
 
 
以上


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