ボスニア・ヘルツェゴビナ 4 of 8

《 バルカン半島;》
 
3人目の日本女性は、辻康子(Yasuko Tsuji)さんである。
1975年、静岡県生まれ。日体大卒業後、体育教師として4年半勤務する。
2002年にJICA青年海外協力隊としてシリアに赴任する。
その後、ヨルダン事務所に移転。。
2016年12月からボスニア・ヘルツェゴビナで活動。
2019年に帰国し、現在はJICA中東欧州部にて勤務。
民族紛争で分断された国を、スポーツによってつなぎ合わせる。
 
熱い思いを胸に2016年、ボスニア・ヘルツェゴビナ(BHと略す)に渡った辻康子さんは、
思いもよらない反応に言葉を失う。
珍しいアジア人女性である彼女は、地元民にこう訊かれた。
「あなた、この国で何してるの?」
 
JICAの専門家として辻さんがBHに渡ったのは『スポーツ教育を通じた信頼醸成プロジェクトを行うためであった。
だが、“スポーツで民族融和を……” と説明しても、なかなか意図が伝わらないのだ。
無理もない。プロジェクトの拠点となったのは、紛争の最激戦地となったモスタルであった
からだ。
『紛争終結から20年経っていましたが、市民の感覚では “まだ20年” なんです。
“ここでは民族融和なんて口にしちゃいけないよ”といわれ、ショックを受けました』という。
 
プロジェクトの使命は、BHの保健体育の共通コアカリキュラム(以下、CCC)の策定支援
であった。
ボスニャク(イスラム教徒)、セルビア系、クロアチア系が民族ごとに分かれて暮らすこの国
では、それぞれの民族が異なるカリキュラムの教育を受けていた。
これでは国民の共通意識が根付くのは難しい。教育統合が緊急の課題なのだ。
辻さんは現地の保健体育の授業を視察して、またしても驚いた。
『授業には得意な子だけが参加して、苦手な子は座って見ているだけなのです』
 
BHの授業は完全な能力主義。これを辻さんは変えようとした。
『運動能力だけでなく、協力や助け合い、リーダーシップなどを指導する日本の観点を、CCCに盛り込もうとしたのです』
尤も、“保健体育を通じて社会性や協調性を” と訴えたところで、BHの人々にはピンとこない。
 
そこで教育の専門家や先生を日本に招き、研修を行った。
百聞は一見に如かず。今度はBHの先生たちが驚くことになった。
『グループごとに分かれて、子どもたちが工夫して練習する。得意な子が苦手な子を教える。そうした光景に、彼らは目を見張っていました。
BHでは子どもたちだけで協力すること自体、珍しいですから』
 
彼女は、みんなでスポーツを楽しむ運動会を企画する。
こうした研修を重ねる中で、日本の保健体育のエッセンスが徐々に同国の授業に取り入れられるようになった。
日本には子どもが授業を振り返って記入する「学習カード」があるが、これもBHに取り入れられようとしている。
運動が得意な子だけが活躍する体育から、抜け出しつつあるのだ。
彼女が注力したのは、保健体育の授業だけではない。
20数年前、クロアチア系とボスニャクが血で血を洗う抗争を繰り広げたモスタルで、彼女は両民族が参加する運動会を実現させた。
なお、モスタル市は前々号で照会している。
 
両民族が川を隔てて暮らす古都モスタルでは、水道公社やバス会社などすべてが民族ごとに分かれていて、真の融和には程遠いのだ。
市唯一のスポーツ協会は、サッカー大会などを行うことはあるが、やはりここでも得意な子どもだけが参加し、“みんなでスポーツを楽しむ” という発想はなかった。
 
それならば、ということで辻さんは、誰でも簡単に参加できるレクリエーションとして“運動会”を提案したのである。
『障害物競走、綱引き、玉入れ、二人三脚。道具はすべて現地で調達しました。大玉転がしだけは準備できずに断念しましたが・・』と語る。
 
モスタル市の24校中14校が参加した運動会は信じられない盛り上がりを見せ、最後に参加者全員で記念撮影が行われた。
それが奇跡の一枚となったのである。
紛争を経験した親の世代には、自分の子を他民族の子と一緒に遊ばせる発想はなかった。
運動会が不可能を可能にしたのだ。
 
任期を終えて帰国する辻さんに関係者がこんな声をかけたという。
“きみとJICAがいなくなっても、運動会は続けるからな!”
スポーツの力によって、BHの人々は過去の痛みを乗り越えようとしているのである。
 
 
以上(次は、5of 8で、スポーツの力 “サッカー”で架け橋を築くガンバ大阪の宮本氏を
語ろう)
 

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