「存在に心を寄せる」 ( ripple room 創刊号・冒頭文 )

2018年6月に二冊のアートブックを出版した。124万円ほどを資金調達し93人の表現者による生き様インタビューをまとめた作品です。詳細はおいておくとして、その際、僕が書き連ねた冒頭文は今でも思いは変わらず、少なくとも現在の自分なりのコンパスとして存在するので、noteにて公開しようと思いました。共感してくださり、「ん、もう少し詳しく知りたいぞ」となった方は、ぜひ上記のURLページものぞいてみください。


存在に心を寄せる


人を動かす体験を作ろうとするとき、人は「動かされた自分」の体験を基準にしてしか、それをつくることはできない。未来を切り開くことと「自分が心を動かされたなにか」を継承し伝えることは同義だろう、とぼくは思っている。(若林恵『さよなら未来』より)

人々は、嘘ではなく、信じ抜ける温かい感動を求めている。どう社会が変わろうと、心が震え、共感し、感動し続けれる人でいたい。少なくともぼくは、そんな感動(ワクワク・ドキドキ)にちゃんとリスペクトを払って、生きていければいいなと思う。そんな24 歳での挑戦だった。

2017 年6 月に始まったこのripple room のプロジェクト。大学生になって始めたストリートダンスだったが、踊りを目にして鳥肌が立つ度に、「この人はどういう人なんだろう」と物語を膨らませていた。毎度、どんな本を読んで、どんな家族構成で、どんなものが好きで嫌いで、どんなものがコンプレックスで、とその人のライフ自体に関心を寄せていたし、今でもそれは変わってない。

ぼくの小さい脳内は勝手な想像で張り巡らされ、彼らの踊りに共感をする。「きっと真面目なんだな」「ボディが描く曲線、すごくエロい」「音楽と呼応している感じ、ほうれん草の胡麻和え好きそう!」「あの手の震えは、なにか宇宙っぽい、強いて言うなら太陽系のなかでもとりわけ目を引く土星の環」と、そんな想像(というよりは思い込み)から作り出される物語は自分の表現するクリエイティビティを拡張してくれ、美に対する意識も改めてくれた。その理由は、難しいことではなくて、
その踊り、その表現そのものがワクワク・ドキドキだからだった。

2016 年7 月、イタリアシチリア島であったハイパーウィーク(HYPER WEEK)という一週間ほどのイベントに参加した際、ハウスダンスのオリジネーター・イージョー(EJOE)が、月明かりだけで照らされた海辺で、肘から手を使って空中に円を描いていた。胸の前で宇宙を描いていた。そこには“何か” があった。ワクワク・ドキドキだった。ポップダンスにおけるタットのスタイルと言えばそれまでかもしれないけれど、それ以上に海の深遠さと濃度、波の音、イベント会場から聞こえてくるビート音が、彼の心臓とシンクロしていた。彼は、単に遊びでやってるだけだった。表現にとって技術というのは実装する上で大切でありながら、本質ではないんじゃないか、と思えた良い機会だった。踊りの本質的な価値とはなんだろう。価値って、なんだっだけ。

そもそも、価値なんて人それぞれだし、規定されるものじゃない。が、「価値観なんて、人それぞれ」と自明のように言いながらも、実際には固定的な価値観があるはずだと信じている人も少なくない。仕事の会話をすると給料の話が出てくる都度、なにか裏にある凝り固まった固定観念を疑ってしまう。ダンスの世界で市場価値として測れるものといえば、とくに振付や舞台出演や、アイドルなどがおもに挙げられるだろう。ただ、市場価値がないものに価値がない、と言い切ることはできない。そもそも、中央集権的な資本主義が生み出した功利的かつ世俗的な市場の価値観は、近代になってできあがるし、価値を測定するには物足りない。千人に喜ばれるものに市場は食いつくだろうが、一人に生きる意味を見出すものにも価値は必ずある。

こんな具合に価値概念は多様であり、そして相対的でもある。ガラケーを使っていたE メールの時代は、「手紙っていいよね」「家の固定電話だからこそのアナログ感がよかったな」と言っていたものの、今やLINE の時代になると「メールのセンター問い合わせ機能(もはやわからない方もいるかもしれないけど)が恋しい」などと言ったりするじゃないか。デジタルが盛んになるから、一方のアナログ空間に価値を見出したくなる。そこで音楽家・坂本龍一氏のテキストを思い出す。


「もの」が鳴っているというのは、そこに空間があるということですよね。ところが、わたしたちはいつの間にか、そうした空間性というものを、ちゃんと理解できなくなっていると思うんです。ステレオで音を聴くっていうのは、本来は単に便宜的なことにすぎなかったわけじゃないですか。ベースを真ん中において、そこから恣意的に楽器の配置を決めていくわけですが、そこには幻聴が入っているわけです。幻聴を利用しているといいますか。つまり、それって脳内にしか存在しないヴァーチャルな空間なんですよね。それを、もうやめたいんです。ヴァーチャルなものではなく、そこをちゃんと空間にしたいわけです。そして、そのためには「もの」がいる。

21 世紀中旬に突入する今、ヴァーチャル空間に活気があるからこそ、リアルや「もの」に価値を再発見するフェーズとも言えるだろう。ヴァーチャル空間が生まれるまで” ダンス” といえば、ライブでのショーやエンタメでしかなかったところに、ユーチューブのようなデジタルメディアが出現したことで” ダンス” も相対化される。そのことで、” ダンス”自体を考えざるを得なったことは、デジタルの恩恵だった。ダンスと同じ身体の表現フィギュアススケートについて、「テレビでズームされて一部を切り取ったものだけを見ていると、時間性と空間性が失われてしまうから、『羽生結弦君かっこいい』それで終わってしまうかもしれません。でも、本物を実際に見ることにはとても価値があるし、本物とそうでないものにはものすごい違いを感じます」とメディアアーティスト・落合陽一氏も言っているが、事実、ヴァーチャルよりリアルな空間で体験できるワクワク・ドキドキ度数が、今の段階では高いことは明らかな気がする(いや、ユーチューブでの恩恵は計り知れないのは事実だけれども)。ヴァーチャルが出現し、リアルへのアプローチも深まる。価値は、相対化されて再創出されていくという説は一理あると思える。

ところで、話が大きく脱線するが、15 歳のころ、ぼくの夢はサッカーの国際審判員だった。サッカーの主審というものは、選手が合計22名の中で1名のヒーローポジション。蛍光色または黒のユニフォームを着用し、ホイッスルという最強の道具で試合のリズムを整える。ぼくが好きな審判は紹介しきれないが、一人例にあげてみたい。もう引退してしまったが、イタリアのピエルルイジ・コッリーナさんだ。海辺で獲物を狙うトンビのような" 鋭い目つき"(一方、選手との対話の際は、笑顔で垂れ下がる目尻とその" シワ" がとてつもなく素敵)で、" 高身長" で審判着が非常に似合うスタイル。腰をツイストさせながら、広い緑のコートを駆け回り、ホイッスルを吹いて、手を上げ、ときにイエローカードを指し示すあの姿は、忘れられない。サッカー部時代、まわりはボールを追っていたものの、ぼくだけがホイッスルを追いかけていた。

少し遠回りしてしまったけれど、何が言いたいかというと、昔から、「その人っぽさ」がナチュラルに感じられる世界への関心が強かった。そこに心を動かされるし、ワクワク・ドキドキするし、価値だと思っていた。この本は、そんなぼくが大学へ入学し、ダンスを始めて二、三年目に「こんな本があればよいな~」と思っていたコンテンツで構成されている。リスペクトを示したいストリートダンサーの方々の「その人っぽさ」とも言える” ライフスタイルや思想”= " 生き様" に焦点を当て、表現の源流を探求したい。その人にしかできないステップ、ヒットやトゥエル、ウィンドミル、ランニングマン、シャチを掘り起こしたい。

とはいえ、この作品は、生き様と表現を厳密に研究し、その関係性について、正解を与えるものではない。インタビュー内容は事実だけれど、それがどう表現に繋がるかを科学的に証明しているわけではない(し、その複雑な関係性を論ずることが正しいとも思ってない)。この作品を通じて得られる情報なんて、ほんのわずかしかない。数枚の紙面では、ダンサーがどう生きてきたかを語り尽すことはできない。けれども、確実に言えることはある。

この本を通して、表現者の” 存在” に心を寄せることができる。表現者の物語をつむぎ、触れることができる。それは、『生きている』ことを肯定し、『生きる』からこその雑味、匂い、癖、味、もがき、汗を愛でることを意味する。つまり、『生きる』ことに誇りを持つことに他ならない。ここで、文化思想家のローマン・クルツナリックの言葉を紹介したい。「自分が常に生と死に囲まれていることに気づくべきだ。そして、自分が生きているあらゆる瞬間や期間は、それ自体が小さな死であり、万物が永久不滅ではないことを反映しているのだから、特別な関心に値すると考えるべきだ。はかなさ、無常という新しい感覚を持てば、これを理解することができる。花は花弁を開くが、しおれる運命にある。だから今その香りを嗅ぐのだ。」(『生活の発見 場所と時代をめぐる驚くべき歴史の旅』ローマン・クルツナリック著)踊りもまさに同じ価値がある。

もっとも基本的な道具である(が、朽ちゆく運命の)身体を用いて、どの感情を選択し、どう魂を提示するかは、私たちが(身体に機械が介在したとしても)(そしてそんな歓迎するデジタルネイチャー社会においても)人である限り、根源的な醍醐味だと思っている。そんな永遠性を帯びた踊りこそ、人の美意識を拡張させていくアートである。なぜ永遠かという問いに対しては、踊りの本質は、なにかの固有のステップにあるというよりも、無意識に喜びを表現する拍手そのもの、ガッツポーツそのもの、飛び跳ねることそのもの、つまり万人に開かれた身体を介した表現にある、と思(願)っているため、とでも言っておきたい。

ぼくの主張に読者の皆さんが「ふむふむ」と納得してくれるのではなく、ダンスとは何か?表現、アートとは?生きるとは?という問いを、皆で考えたい。それが、この本の目指すところだ。この本の読者の皆さんと、ワクワク・ドキドキする表現について対話したい。(ぼくを中心とした)経験値の低い若者に助言をしてほしい。願わくば、そんな読者の皆さん同士でワクワク・ドキドキする表現について語り尽くしてもらい、SNS などを通して、新たな発見を共有してもらえるととても嬉しい。繁栄するデジタル社会を歓迎するために、さらに人間界を更新するために、このripple room がなにかのきっかけになりますように。

team ripple 代表
古谷 仁

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