少し孤独を体感し、やっと、世界が広がった。やっと謙虚になれた。(3)

続きです...

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そんな孤独と向き合い初めてわかったことがある。

それは、「全ては朽ちていく」ということ。

僕の妹のAnnもあんなにお転婆で、昨日まであんなに笑っていたのに亡くなった。(僕の大好きな)オルムステッドのセントラルパークも、大ヒットした(僕の大好きな)是枝監督の「万引き家族」も、どデカイ世界のインターネットも、いつかは朽ち果てる存在になる(つい先日、Youtuberアバンティーズのエイジくんもサイパンの高波で急死された)。どんなに偉大なものも、人も朽ちる。全ては近いうち朽ちゆく運命なんだ。

10年前は、センター問い合わせという価値観も若者のポケットで生き生きしていたが、今は死語だろう。そんな今つかっているLINEや、このnoteもいずれ死ぬ。そんな小さなレベルでも色々なものが朽ち果てる。

そして、自分もすでに死への世界線を辿っている。自明だ。これを読んでいるあなたも死ぬ運命は明らかだ。AIやデジタル技術の台頭はあれど、死ぬことは間違いない。

神様が優しいのは、そんな「死」が決めてくれていることで、その死を迎えられるのは1回きりだということだ。つまり、誰もが、人生一度限りで、その1回でやりきらないといけない。それが決まっていることを受け入れて進むんだ。

12/23のクリスマスシーズン。
横浜駅のスターバックスで、そんなことを考えていた。
カップルや友達で賑わう空間は素敵だった。

ただ、彼らもまた、同じ存在だ。朽ちていく中で、必死に生きている。そんな孤独を堅実に受け入れて、突き進むもんだって、やっとわかった。

それまで、僕は傲慢だった。(少なくともそれまでは)傲慢のオーラを包んでいた。ただ、自分の夢で、誰かの夢が叶えば、誰かの孤独を救える。ここでは、別にその誰かは誰でもいい。

やっと謙虚になれた。そんな瞬間だった。

ヘンリー・デイヴィッド・ソローの「ウォールデン・森の生活」でこう言っているという。

私が森へ行ったのは、思慮深く生き、人生の本質的な事実のみに直面し、人生が教えてくれるものを自分が学び取れるかどうか確かめてみたかったからであり、死ぬときになって、自分が生きてはいなかったことを発見するようなはめにおちいりたくなかったからである。人生とはいえないような人生は生きたくなかった。

「人生とはいえないような人生」
こんな非常事態を迎えないように、生きる。


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