25歳の性癖リスト

あるいは、遺書代わりのメモ。

皆さん、自分の葬式で流す曲のセットリスト考えたことあります?
それとは別に関係ないんですが、自分の性癖について好きに語ります。
これ以上年齢を重ねると自分の性癖と向き合うのは怖くて出来ないと思うので。

・げんふうけい、あるいは「共-有」世界
・好きlove
・思い出、長く触れていたもの
・好きlike
の構成で書くつもりですが、乱文になること請け合いです。あと長くなって飽きたらやめます。
性癖(性的嗜好)については書きません。そちらは有料コンテンツです。


げんふうけい、あるいは「共-有」世界

「げんふうけい」が好きです。
作家であるげんふうけい、三秋縋氏については後で述べるとして、原風景について。

原風景 (Wikiより引用)
原風景(げんふうけい)は、人の心の奥にある原初の風景。懐かしさの感情を伴うことが多い。また実在する風景であるよりは、心象風景である場合もある。個人のものの考え方や感じ方に大きな影響を及ぼすことがある。

人がある程度の年齢に至ったときに、最も古く印象に残っている風景やイメージがある。戦時中に幼少期を過ごした者は、爆撃され荒涼とした焼け跡である場合もあれば、漁村に生を受けたものにとっては、それはカモメが飛び交い、干上がったイワシの死骸が点在する朽ち果てた寂れた漁港の風景かもしれない。多くは幼少期の生活環境が根本にある場合が多い。しかし、生活していた環境ではなく、たまたま旅行で行った先の景色である場合もある。多くの場合、それらは「郷愁を呼ぶ風景」であり、懐かしさの感情を伴い愛着を感じることが多いが、その人の生い立ちによっては不快な感情を伴う場合や強い感傷を催す場合がある。また、しばしば原風景は美化されたり、自らが都合のいいように変化していたりする。
心象風景 (Wikiより引用)
心象風景(しんしょうふうけい)とは、現実ではなく心の中に思い描いたり、浮かんだり、刻み込まれている風景。現実にはありえない風景であることもある。

原風景は多くは幼少期の原体験のイメージであると捉えられるが、子供の頃かどうかは問題ではなく、実際にその者が見たかどうかも問題ではない。
心象風景の方が正しい語かもしれないので「げんふうけい」と僕は呼んでいるが、その者が一番心揺さぶられるイメージ、魂に引っかかっている風景のことである。
精神的に透き通っているときに心に浮かんでくる風景のことだ。

「げんふうけい」という言葉を最もよく説明するには、僕の敬愛する宮沢賢治(※1)を挙げるのが良いだろう。
宮沢賢治の「げんふうけい」には、「イーハトーブ」という名前がついている。これと賢治の出身地の岩手県との関連性は指摘されているが、そんなことはどうでもよい。重要なのは、彼が生涯をかけて彼の「イーハトーブ」という世界を描いたということである。

「イーハトヴとは一つの地名である。強て、その地点を求むるならば、大小クラウスたちの耕していた、野原や、少女アリスが辿った鏡の国と同じ世界の中、テパーンタール砂漠の遥かな北東、イヴン王国の遠い東と考えられる。実にこれは、著者の心象中に、この様な状景をもって実在したドリームランドとしての日本岩手県である。」
(賢治の生前に出版された『イーハトヴ童話 注文の多い料理店』の宣伝用広告より)

『グスコーブドリの伝記』や『ポラーノの広場』のように、イーハトーブが舞台となっていることが作中で明記されている、または「イーハトーブ」という語が出てくる作品もあれば、そうでない作品もある。それでも、賢治の作品で描かれる世界が(統一的な)イーハトーブという世界であると信じないわけにはいかない。

重要なのは、「げんふうけい」とは、単に作者の描いたフィクショナルな想像世界のことを指すのではないということだ。それはその者の心象風景である必要がある。賢治が「心象スケッチ」として出した詩集「春と修羅」においても、彼のイーハトーブの世界が描かれていると読むことは全くおかしくない。というよりも、彼に見えている世界が、彼が精神的透明人間として住む世界がイーハトーブなのである。それは童話の中で地名として用いられるか否かに関わらず、だ。

「げんふうけい」は単なる架空世界ではないと述べたが、実際のところ、その区別は非常に困難である。
ルイス・キャロル(※2)も僕が愛する作家の一人だが、『不思議の国のアリス』『鏡の国のアリス』他で描かれる世界が、単なる着想を広げた架空世界か、作者の「げんふうけい」かの判別はしようがない。J・K・ローリングによる『ハリーポッターシリーズ』の世界も、そうだ。
というか、誤解を恐れずに言えば、それが「げんふうけい」かどうかは、どちらでも良いのだ。

例えば、少女であるアリスの住む世界がある。(それが「不思議の国」とか「鏡の国」とかいう地名を指しているのではないことは「イーハトーブ」同様である。それは世界の名前である。作者の「げんふうけい」であれば「ルイス・キャロル世界」と呼ぶべきだろうが、単なる架空世界であれば作者は異なる世界を複数持つことができるため、この呼び方は不適当である。宮崎駿の描く複数の作品を考えよ。)
読者はアリスとともに、アリスを追いかけて、その世界を(擬似)体験することができるが、これについてルイス・キャロルという人間と読者との関係をみるとどうだろうか。
もしもその世界がルイス・キャロルの「げんふうけい」であれば、そこで私たちは精神的透明人間である彼に出会うこととなるが、当然、透明人間である彼を見ることはできない。彼の「げんふうけい」であるアリスの住む世界を”共有”することを通して、私たち読者は彼と出会う。(アリスと出会うのではない)
もしもその世界がルイス・キャロルの「げんふうけい」でなければ、そこで私たちは彼と出会うことはできない。もっとも、彼が丁寧にあるいは熱心に作り上げた架空世界を楽しむことを通して、彼の何がしかを受け取ることがあるかもしれない。この場合、私たち読者は彼と出会えないが、アリスの住む世界を彼と共有することには変わりない。
「げんふうけい」であるかどうかの区別は、作者にとってその創造世界がどれほどその者の根源に近いかという点で変わるのであり、その違いは、私たちと作者が想像世界を共有することを超えて、その者のどれほど深くを共有するか、という違いである。

作者の「げんふうけい」としての想像世界を私たちは共有することもあれば、作者の描く世界に私たちが自身の「げんふうけい」を見出すこともある。それは原風景そのもののときもあれば、部分的に似通っているというときもある。

少し前置きが長くなったが、僕が「げんふうけい」を好きだと言ってるのは二つの意味で言っていて、一つは、僕自身の「げんふうけい」(に近いもの)を表したものが好きだという意味である。僕はそれに触れることで心揺さぶられるからである。(たいていは感傷的になる)
もう一つは、ある者の「げんふうけい」を表したものが好きだという意味である。もっともこちらの方は、厳密には「げんふうけい」でない可能性があり、何がしかを共有することのできる世界、「共-有世界」を表したものと呼びたい。僕はそれに触れることで他者と「共-有」することができるからである。(「共-有」については後述する。)

げんふうけい

僕自身の「げんふうけい」について語るとき、どうも僕の好きloveなものに引っ張られがちになってしまうので良くないのだが、それはおそらく「海」、あるいは「夜」だ。それらは表象だ、静かな青だ。とにかく。

最近出会ったものでは、gracile(グラシール)氏(※3)の絵だ。色づかい、光づかい、モチーフ、

古くは、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』のイメージ、稲垣足穂(※4)、
タナベサオリ氏(※5)の絵、(猫、煙草、珈琲の用いられ!)

https://twitter.com/i/moments/965364778850922496
夜から明け方にかけて移ろう空の色、夏の夜、冬の明け方の冷たさと静けさ、海の波の音、飼い猫の寝息、ブランコに揺れている、寂しい木陰に椅子を見つける、誰も乗っていない電車、暗い青、緑、月、

石川啄木「見よ、今日も、かの蒼空に飛行機の高く飛べるを。」
https://www.youtube.com/watch?v=FNdI8oXTqf8
haruka nakamura『graf+
Galileo Galilei『老人と海』『くじらの骨
Tim Minchin『White Wine In The Sun
world's end girlfriend、
https://www.youtube.com/watch?v=l11rMm3B_KQ
https://www.youtube.com/watch?v=V-H_L_I-T6M
Amazarashi『ナモナキヒト
たま『ムーン・リバー』、知久寿焼『あるぴの』、『ねむれないさめ』、『おおホーリーナイト』
サカナクション『目が明く藍色
Radwimpsのいくつかの曲、
https://www.youtube.com/watch?v=iHUnUHA5hek
https://www.youtube.com/watch?v=a2GujJZfXpg
向井秀徳『サーカスナイト』(七尾旅人のカバー)
Grace VanderWaal『Beautiful Thing
Rain OST『A Tale Only the Rain Knows
アニメ蟲師OST

「共-有」世界

「共-有」は、本当は私たちはみんな孤独なのだという問い(問いの形ではないが)に対する答えになりうるかもしれない。

They're sharing a drink they call loneliness
But it's better than drinkin' alone
 Billy Joel『Piano Man』より

一緒に何かをみたいのかもしれない
それは桜でも、雨でも、風で舞い上がるビニール袋でもいい
美しいものならなお良い
一緒に何かをみるときの一体感が好きなのかも
あなたにはどのような世界が見えていますか?というコミュニケーションなしでなにか共有した気分になるからか?
同じものをみて、ひとりひとりが感じる。というやつ

別れて一人になること、それが寂しくないこと


あなたと私は(出会わなくても、あるいは「共-有」するという形で出会うとして)何を「共-有」できるだろうか?

あなたと私が出会うと言うとき、通常は、時間と場所とを合わせて(物理的に)出会うこととなる。そこでは同じ(物理的)空間で、語りかけ、語りかけられることができるだろう。言葉を交わすことで、あるいは物理的接触によって、「あなた」という他者が何者かというのを知ることができる。
言葉を交わさないとすればどうか。ここにおいて、つまり時間的場所的共通性のもとでは、言語/非言語コミュニケーションがあなたと私との間になくとも、(物理的)空間を「共-有」することとなる。(ある程度)同じものを見て、同じ音を聴き、同じ匂いを嗅ぎ、...
厳密に言えば、ここでのあなたと私は何も共有はしない。物理的空間の共有は同じものを見ていることを意味しないし、同じものが視界に見えているとしてもそれにより何を見たか、どのように感じたかということを同じくしない。それでも、同じものを見てひとりひとり感じるものが異なるとしても、他者であるあなたについて何も知ることはできなくても、空間の「共-有」というものに可能性を感じずにはいられない。(それは単なる虚構上のfictional共感だという批判も考えうるが、どうも僕は「共感」には重要なポイントをおいていない気がするし、後に述べるように「フィクショナル」かどうかは問題ではない)

あなたと私は出会わないとして、言語/非言語コミュニケーションがあなたと私との間にないとして、時も場所も同じくしない私たちは、同じものを想像することで、あるいは参照することで、何かを「共-有」する。
それは例えば風景である。明石海峡大橋からの眺め、尾道水道を見下ろす眺め、瀬長島ウミカジテラスからの眺め、これらは異なった時に同じ場所に立っていることを言っているのではない。例えば生コン工場のフォルム、工場の夜景、川べりの桜、足跡ひとつない一面の雪面、これらは「同じもの」と言いつつも、私たちが参照する/想像する景色はそれぞれ少しずつ違うため、ある種のフィクショナルなものである。
その「同じもの」として、今問題としたいのは「共-有世界」である。
(精神的透明人間としての)あなたが見る、あなたが触れている世界を、あなたの”言葉”で(つまり、言語によって文学、または音楽、絵画、写真、造形、その他様々な”描写方法”によって)再現し、あなたの世界を構築する”語り”として提示する。その(フィクショナルな)世界を私が想像することによって、もっと言えば、あなたの世界のキャラクターとキャラクターをとりまく事象と、私と(精神的透明人間であるあなたと)が、同じ世界にいることを想像することによって、何がしかを「共-有」するということだ。

僕の言うところの「共-有世界」と、単なるshared world(ハリーポッターシリーズ、スターウォーズシリーズ、インターネット上にいくつもある世界観共有企画を見よ)とが同一のものを指しているかは今のところ不明だが、すくなくとも「げんふうけい」とshared worldは異なる。
まあとにかく、そういうものが好きだ。
単なる世界観がよく造られた作品が好きだとか、SF、ファンタジーが好きだと言っているのではない。誰かと何がしかを「共-有」できるものが好きだと言っている。

フィクションでなく、単純に思想書とか学術書でも、書き方からその人の世界観(という語でいいのか)が伝わるようなものは好きだな。


好きloveなもの

なんかもう結構書いた気がするな。芸術一般には関心があるけど、一般に好きloveなわけではないしな。上演芸術、も広すぎるし。

「げんふうけい」が好きという関連で、旅行が好きです。と書くと嘘になる。僕は極度の出不精で、人ごみは嫌いだし、居所が転々とすることを好まないので。

地方都市が好きです。尾道(広島県尾道市)を挙げておく。キャピキャピ観光っぽくしていないところ(滋賀とか奈良とか)で普通列車の電車旅とかも面白いと思います。

さきほどは否定したが、世界観がよく造られたファンタジーは好きだし、僕が読まない小説はない、と思う。(読んでいるとは言わない)
伊坂幸太郎(※6)、げんふうけい、三秋縋(※7)、
また、言葉ということで、小林大吾(※8)、穂村弘(※9)、
を挙げておく。

美味しいものは好きだが、僕はグルメではない(味覚がよくないらしい)ので、特に書く事はない。一般的に美味しいとされているものを美味しいと食べるだけだ。基本的に甘党だが、最近は味覚が変化しているのもあって不明。

言葉遊びが好き。
韻を踏むとか、地口とか。
そこから、ラップも好きだし、(HIPHOPはげんふうけいの描写かもしれないからかも)
 EVISBEATS feat. 田我流『ゆれる
ラーメンズ(※10)も好きだ。小林賢太郎&片桐仁!
study』、『不透明な会話』、『名は体を表す』(「TOWER」は一通り見たい)、『銀河鉄道の夜のような夜』、
以前botとかのクソしょーもないダジャレも好きだよ。

音楽は、ラップ以外では、chillい?あんびえんと?ふゅーちゃーべーす?が好き。kawaiiのも好き。Perfume(※11)とかも好き。

ボカロだとflowerが好き、女性の低い声が好きなのと多分関係がある。

最近本を全然読んでないので文学はパス。

マンガも(小説も)比較的短編が好き。
市川春子(※12)の『虫と歌』『25時のバカンス』そして『宝石の国』!
三島芳治の『レストー夫人』とか宮崎夏次系とかあたりも好き。
webマンガのサイトをいくつか貼ろう。
チラシのウラ漫画 http://tirasimanga.web.fc2.com/TUM/TUM.html
 (「共-有世界」のようだ)
さいはてのどうくつ https://l-v-l.com/index.html
杉谷庄吾【人間プラモ】『映画大好きポンポさん』
https://www.pixiv.net/member_illust.php?mode=manga&illust_id=62252019
 (ちなみに2も書籍化されてる)
小田桐圭介
http://mavo.takekuma.jp/title.php?title=25


そうそう、生き物が好き。動物園も水族館も好き。一日中いられる。
上野動物園のWEBがめっちゃいい→http://www.tokyo-zoo.net/zoo/ueno/planet/pc/ (制作はここ

恐竜とか、「鼻行類」とかね。
いる生き物だと、猫とクラゲが好き。

あと何を書けばいいんだ。

熱された空気がだんだんと冷えていくとき、あるいは酔いが覚めるような
その温度感の下がりとともに、訪れるsentimentalと、
まだまどろんでいたい


思い出、長く触れていたもの

これは飛ばそう。


好きlikeなもの


あ、写真。
写真を撮る、という文化が長らく僕の中に無く、たぶん今も根付いていませんが、たまにスマホで撮ったりします。
風景は美しいものが好きで、人物は、生活写真というか、ふとした写真が好きです。撮るよーって撮る写真は、ハレの日のものはそれでもいいけど、毎日「写真に映る私」として撮ってしまうと、後で写真に残るその人がその人でないような気がしてしまうから。
(これも写真を通してその人と何を「共-有」するかという話か?)
眠っている人を撮るのも好き。問題なのは、ふとした瞬間の写真は、すべての場合において盗撮になってしまうことだよね。そういうわけでも写真を撮る文化は僕の中で流行っていない。


バーチャルYoutuberについても「共-有世界」との関連で書こうかと思ったが、また別のときに。

なんか当初書こうと思ったものとは違うが、まあこんなくらいでいいや。
好きなものは好き、と発することは大事っぽいので。

注(※)をつけたのは最後に一覧で見られるようにというのと、リンクを紐付けるためだったが面倒になったのでいい。
以上。

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