2018/2/8 ジャグリング対談①

どうも、じんです。
某後輩と3時間ほどジャグリングの話をしたのでまとめておきたい。

話題は、僕が最近は難易度を解体したいと思っている、難易度って何だ、というところから。

難易度の定義
はじめに、難易度を、「平均的ジャグリングロボット"A君"が、その技が出来るようになるまでの期間(時間)の長さ」と仮に定義して、その定義に問題がないか、その妥当性を考えた。
A君は、平均的な体格/体型/体力/筋力/諸々の運動能力を有する。そしてジャグリング能力/経験としては、まっさらな状態である。(難易度を計る毎にリセットされる)
A君に、例えば「5ボール カスケード」や「4シガー ダイヤモンド」をやるように命令し、そこからその技ができるようになるまでの時間が(数値化された)難易度である。(難易度の単位としては、時間の単位years/months/days/hours/minutes/secondsになる)

〈検討を要した点〉
 ・「出来るようになる」とは、一度の成功で良いか。 「成功難易度」と「安定難易度」は違う
→成功率が一定を上回る安定難易度で考える。

 ・成功判定、技の同定identificationの問題。 トスはドロップによって成功判定がはっきりしているが、その他のジャグリングにおいて、「その技が成功したか」「別の技になっていないか」の見分けをどうするか。 例えば、コンタクトにおいて。

 ・「技」とは? 継続することの難易度についてはどうか。 例えば、5ボールカスケードを10回(クオリファイ)するのと、1分間続けるのは、難易度が違うだろうが、同じ「技」では。
→「技」については、trickもpatternも含まれ、また、「技」としてではなく、「ある運動」として考えれば、技間のつなぎや、シークエンスの難易度も測ることができる。そのように、A君への命令として「5ボールカスケードクオリファイ」や「5ボールカスケード1分間継続」を指定すれば、それぞれの難易度が測れる。
それではあまりに煩雑ということであれば、「技」として「5ボールカスケード」の基本難易度を出しておいて、その基本難易度に技の継続時間をかける形にしてもいい。

 ・技の同定の問題に関連して、道具の違いの問題。 シガーの大きさ、ボールの種類(大きさ、材質)によってある技の難易度が異なってしまうこと。
→つまり、命令の際に、「技」の指定だけでなく「道具」の指定も必要?
※mani-tech概念でも問題になる点

 ・「平均的」とは何の平均なのか。平均の母集団を分ける必要があるか? 男性/女性(骨格?肉体の造りの差異)、大人/子供
→とりあえずシンプルに考えたいから分けないことにしよう。

 ・「平均的」身体ゆえに、A君に身体的に不可能な技(軟体系? スミタズスクリーム)があると、「出来るようになるまでの時間」としての難易度の値が出てこない。
→未解決。 単純に柔軟性の問題だったらストレッチからやらせればいい(そこから時間を測定する)が、腕の長さなど身体のつくりの問題は解決できない。

 ・その技の効率的な練習方法(習得方法)が確立されているものは難易度が低くなってしまう?
→いや、そうはならない(はずだ)。難易度とは、”A君が”出来るようになるまでの時間である。A君は命令により、技の完成系のvisionを持っているし、技のやり方も知っている。が、効率的な練習方法を採用するかどうかは不明(A君はそのような教科書をみて習得する訳ではない)。A君にやらせてみれば良い。
習得の近道・技に関するコツtipsを見つけたある人が、A君よりも短い時間で同じ技をできるようになったとして、なにか問題が?

 ・技の発明、発想に関する難しさは?
→切り捨て。定義に従えば、ここでの「難易度」は、そのようなものを評価するものではない。
※後述する「評価軸としての難易度」の話に関連。

 ・A君はロボットだから、例えば「3ナイフカスケード」において、恐怖心による習得までの必要時間の省略がある。
→そうだけど、それ無視しちゃダメ?
発明/発想に関する難しさと同じく、それは違った難しさだとして、別の軸で考えることにしない?
最悪、A君は平均的恐怖心をも持ち合わせたロボットってことにするよ。

と、以上の点を検討したところ、最大の問題として、「そのようなロボット”A君”を現実に作り出すことが非常に困難である」という問題に目をつむれば、まあ悪くない定義だと思った。

話はそこから、「評価軸としての難易度」へと移った。


評価軸としての難易度
「難易度が評価軸として用いられるのはなぜか?」
  ?難易度は、努力量を評価するためのもの?

今まで話してきた難易度は、技の難易度である。よって、評価軸としての難易度は、技についての評価(技術/運動としての評価)になる。
ただ、技についての評価ではなく(そのほかに)人についての評価というのがある。(人=技+□□?)
ルーチン(僕の言葉で言えば「作品」)を評価するときは、人についての評価になる。

人についての評価として、「努力量」と、「人がどれだけ魅力的か☆」という評価軸がある、と考えよう。
努力量(その人がどれだけ頑張ったか)を測るための一つの評価項目として、難易度があるのではないか。
努力量を測るための項目として、難易度、新規性、きれいさ/洗練といった項目が考えられる。
先ほど見た「技が出来るようになるまでの時間の長さ」という難易度定義は、努力量と親和的であるし、また、例えば前述の「技の発明/発想」に関しては難易度定義では切り捨てたが、「新規性」項目でカバーすることができる。
難易度のみ(単体)では努力量評価としては不完全であり、他の項目を補充的に合わせて初めて「努力量」の評価軸として機能する。
ここでは厳密には、難易度は”評価軸として”用いられてはいない。

  努力量〈・難易度(安定を含む)・新規性・きれいさ・…

もう一つの評価軸である、「人がどれだけ魅力的か☆」について考えたい。
この評価軸は、定義や名付けが難しく、「人がどれだけ魅力的か」というのも暫定的に付けたものである。今は、「☆(ほし)評価軸」としておきたい。
この「☆評価軸」が今回の話の中で最もやっかいで、しかしながら最も重要であると言っていいだろう。
この「☆評価軸」は、まだ上手く言語化できていない(されていない)し、主観的になりうるから、もう一つの、基準として定立しやすく客観的評価がしやすい「努力量」評価軸が大会等では全面的に採用されている。
’(たとえ評価軸として「☆評価軸」の方が努力量評価軸よりも重要であるとしても、だ。)

「☆評価軸」について、ふわふわしたまま書き留める。
人がどれだけ魅力的か、いきいきしているか、自分を生かせているかどうか、心を込めて動いているか、曲選/曲想、その人の感情の起伏(無感情でも)、構成、「エンタメ」点、  人間味、その人の今までの経験、
台本の行程をこなすだけになっているのか、自然に出ている、その時その素でやっているのか、
(観客の違いなど)本番性・一回性の魔術 →感情の乗り(ノリ)→いきいき
  単純に演出の話や、「猫」の話ではないようだ、

ふわふわしたまま僕の中で浮かんだのは、「〈私〉の語り」ということだった。

ある言葉を発するときに、その言葉が軽い/安っぽい/上滑りする/まるで借り物・偽物のように感じる ということがある。
それは、その発された言葉が台本にセリフとして付けられたものか、アドリブかということに関わらず、ありうる。
それはその言葉が〈私〉のものになっていない、〈私〉の語りによるものではないからではないか。
ルーチン(作品)においては、必ず何かを語っていなければならない、と僕は考えているのだが、
ジャグリングに引きつけると、ある技・動き・シークエンスが台本をなぞるようで板についていない、設定されたキャラクターがふわふわしているなどの状態に対して、〈私〉のものになっていない、それは〈私〉の語りではない、ということが言えると思う。
〈私〉が、現実を生きる「私」であっても、ある種”演じられた”「私」であってもいいが、(少なくとも身体は逃れられぬ「私」のものなのだから)
強度として、設定されたテーマ(それが台本上のものでも、人生上のものでも)と徹底的に格闘して、出てきたもの(技・動き・シークエンス)である必要がある。
その「私」の〈私〉としての”本物さ”、真剣さが、☆「私」の人としての魅力、いきいき度を引き出すのではないか。

努力量というのは、☆の前段階として、それまでの準備が出来ているかを評価するものであって、むしろ☆が大事なのではないか。
☆は基準として定立しづらいから、それにより審査することもできないが、
大会等での客観的な審査を諦めるにしても、評価軸として採用しないわけではなく、(作品の)受け手それぞれに投げて、委ねてしまって、受け手それぞれが☆によって評価していけば良い。
努力量評価軸だけしか考えられていないものは、たとえそれが大会の審査基準で高得点を取り勝てるルーチンであったとしても、「良い」ものではない、と僕は主張したい。
 (努力量は地力で、☆が深み?)

食材と料理人の例え
高級食材だけが良い料理ではない、
ただ、良い食材や、幅広い(食材/調味料)の選択肢は料理を良くするし、最低限、形としてもひと皿完成するぶんはそろっていなければならない。
僕(たち)は、良い牛を育てる人ではなく、良い料理人でありたい。
(もちろん、そのどちらも兼職してもいいが、それは(ジャグリングキャリアに照らして)あまりに時間がかかりすぎるという問題がある。)


【今回の対談を通して、僕が獲得した知見など】
○難易度が、評価軸としてではなく、ある評価軸の評価算定項目として(他の項目とともに)用いられていると考えることもできる。
その場合は、①評価軸(今回で言えば「努力量」)の妥当性を問うか、または②難易度の、その評価軸の項目としての妥当性を問う ことをすればよい。
 今まで僕は、大会での配点は評価軸を複数採用した上での重み付けだと思っていたが、上記のように評価算定項目だとすれば、難易度点のみ、あるいは新規性点のみの大会が存在しないことの理由にもなる。

○評価軸を考えるとき、何に対しての評価軸か?に注意すること。
僕は作品至上主義者なのですぐに「作品の評価軸」にとってしまうが、「作品」以外のジャグリングの在り形(ありかた)に対しての評価軸である可能性もある。
fieldの話で言えば、運動として/技術としての【ジャグリング】fieldと、創作fieldは違う。その関連性、二つがどう重なっているかについては、今後も考える必要がある。

○「☆評価軸」の言語化をしていくこと。(それ自体の定義でなくても、個々の作品の「何かいい感じ」を言葉にしていく)
 それに関連して、難易度ってなんやねん、ってこと以上に、「構成」点って、良い「構成」ってなんやねん、ってことをやっていく必要があるかも。(ルーチン創作法概論の執筆で足りるか?)

○僕の立ち位置として、僕が「作品至上主義」者であることの再確認と、なぜ僕が大会/大会競技者というものを嫌っているのかの整理

以上、長くなったが、対談まとめ終わり。

僕とのジャグリング対談を受けてくれる人がいれば、じん(Twitter→@jin00_Seiron)まで、連絡ください。

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