ぬっきーくっきー天気予報

ぬきい氏の質問に答えます。
といっても、未だに問いの意図を掴みかねているのと、ぬきい氏曰く「的確な答え」を意図せず出してしまったようなので、思ったことをただ書く。

僕が気に食わないのは大きく分けて二つ、
一つは、もっと良い「語」、あるいは良い切り分け方があるはずだ、ということ。
もう一つは、「芸術に「見方」なんてものが必要なんですか」ということ。
後者は僕の思想が強く、僕自身が自己矛盾もしていて文章がとっ散らかるので、後回しにする(か、この稿では書かない)。

さて、僕が掴みかねているのは「心構え」という言葉の意味だった。
『注目してみるべき所が違うということ、それとも評価軸のこと?
上演される内容でなく、構造?』と尋ねてみると、
『構造、が一番近いかもしれません。
舞台のジャンルによって構造の典型が違うのはよくあることで、そして例えばジャグリングのルーチンばかりたくさん見ている状態でジャグリングと演劇が混在する舞台を見たときに、ジャグリングの技の魅力や技術によって受けた魅力をそのまま舞台全体の魅力のように感じ取ってしまう面が(少なくとも僕には)あるような気がします。
そしてその上で、ジャグリングのみの舞台を見るときとジャグリングと演劇が混在する舞台を見るときには異なる「見方」があるのではないかと思います。』
「【構造】の典型が違う」については、
『ジャグリングルーチンとジャグリング演劇混在の対比で言います。
前者ではジャグリングの難しさ・視覚的面白さ(まとめて「魅力」)とジャグリングしていない時間(間)の組み合わせで観客に満足を与えていきます。
しかし後者では、先に述べたような満足を、演劇も引っくるめた全体の要素の1つとして使います。
つまり後者ではジャグリングだけが観客の鑑賞の目的というわけではなくなるということかもしれません。』とのこと。
(原文はtweet辿ってくれ)


軌道の景観学のために,距離について
で丹氏が述べていること

『さらに根本的な問題としては,「ジャグリングを使用した舞台作品」と,「ジャグリング"の"作品」とが混同されている,曖昧だ(どちらも,一般的には「ジャグリング」という語が指し示せる範囲を超えて上演がなされるものであるから,仮定が偽ならすべて真,の理屈さながら逆に「ジャグリング」として両方が無理やり語られてしまうからだと思うが)というものがある.』

に注意すれば、
(ほぼ)ジャグリングのみが披露される舞台・演劇の舞台・ジャグリングと演劇の要素が混在するような舞台 の三者が、本当に舞台のジャンルとして異なるのか、【構造】が異なるのか、という疑問はある。

僕が『注目してみるべき所が違うということ、それとも評価軸のこと?
上演される内容でなく、構造?』と尋ねた意図は、
「心構え」という語が掴めなかったこと(そのまま「何がしかの精神状態の準備」を意味するのでないなら、「鑑賞者の注目点」、あるいは、「評価軸」を意味するのではないかと思った)の他に、
その三者の違いは、内容に含まれる要素が異なるということなのか、【構造】が異なるということなのかが、曖昧であったことも挙げられる。
単に、ジャグリングの要素のみを含んだ舞台・演劇の要素(?)のみを含んだ舞台・ジャグリングと演劇の要素を含んだ舞台 ということだけを意味するなら、【構造】の語を出す必要もない。
「ジャグリングと演劇の要素が混在するような舞台」と「演劇の舞台」が分かれていることも不明。「ジャグリングの要素が含まれた演劇"の"舞台」というものも存在するだろう。

具体例で挙がっているのは、「ジャグリングのルーチンばかりたくさん見ている状態でジャグリングと演劇が混在する舞台を見たとき」なので、
「ジャグリングルーチン」と、「ジャグリングと演劇の要素が混在するような舞台」の二者で考えたい。
Q1 この二者は、内容に含まれる要素が違うというだけではなく、【構造】が違うだろうか?
Q2 また、この二者を見るときの鑑賞時の「心構え」「見方」は違うだろうか?
ぬきい氏、どうですか? クエスチョン番号を振っておきますね。

僕の答えは、
Q1 【構造】が違う場合もある。
Q2 「心構え」「見方」は変わらない。(僕は少なくとも意識的には変えていない。あと「心構え」の意味未定義)
です。

【構造】についての説明をしなければなりません。
構造ってなんでしょうか、
先程から述べているように、内容に含まれている要素も、構造を構成・決定する一つだと思います。
ミュージカルは歌の要素を含んだ演劇と言えそうですが、それによって歌の要素を含まない演劇と構造が違うと言えるでしょうか?、

『観客が見る要素がジャグリングだけでなくなるのはそう、
それが【構造】が違うということでいいの?』と、僕がぬきい氏に確認しましたが、「ジャグリングルーチン」と、「ジャグリングと演劇の要素が混在するような舞台」の二者で考えるとき、後者を単に、ジャグリング+αで要素が増えた(あるいは演劇+αで要素が増えた)と見ることは、「心構え」「見方」を考える上で何の役にも立たないと僕は思います。
ジャグリングルーチンは、その多くがそれ自体に音楽とジャグリング(運動)の要素を含んでいます。例えば音楽を抜いたら、要素が減った訳ですが、「心構え」「見方」は変わりますか?
また違う例では、GEARは、パントマイム、ブレイクダンス、マジック、ジャグリングを要素に含んでいますが、それらの要素を含まない演劇と「心構え」は変わりますか?
(「要素」の定義から違っていたら指摘してください。(「演劇の要素」って何だ))
その「心構え」というのは、「注目点」(要素が増えた/減ったら、それに従って鑑賞者の着目点の選択肢も増える/減る)や、「評価軸」(要素によって評価基準が違えば、要素の増減または切り替えによって評価軸が増減または切り替わる)以外のものでしょうか?

以上の検討から、要素だけではなく、【構造】に言及して考察する必要があると考えます。
僕が【構造】と、いま言っているものは、僕が普段、「ジャグリング文脈(運動文脈)」「意味・表象文脈(物語文脈)」と呼ぶものです。

ところで、僕は物語が好きで、演劇を見るときは、「お話」を楽しみます。
story、脚本、起承転結、それです。
もちろん、お話自体、芝居(台詞回し等)を含んでいますが、お話の他にも、衣装、美術、演出、役者(推しがいれば)などの要素/注目点があります。

僕はジャグリングルーチンも好きです。
ジャグリングルーチンを見るときには、「お話」は楽しめないでしょうか?
どうでしょうか、ルーチンにも起承転結はありますよね。また、何かしらの意味を感じさせるものもあります。
それを「物語」と呼べるかは別にして、そこには「意味・表象文脈」の存在が考えられます。
(演劇に「意味・表象文脈(物語文脈)」が存在することは言わずもがな)

ただ、ジャグリングルーチンは、ジャグリングjugglingの本質が運動であるゆえに、強い「ジャグリング文脈(運動文脈)」を持ちます。
(3ボールの軌道を目で追って、あるいは7ボールカスケードを眼前にして、その意味を問うナンセンスさを何度も僕は感じたことがあります。ジャグリング“文脈”というのも変ですが)

この二つの文脈を考えると、「見方」というものが身近になってきます。

つまり、それ(あるルーチン/舞台)が【構造】的に「意味・表象文脈(物語文脈)」か「ジャグリング文脈(運動文脈)」か、ということ(要素が物語に奉仕しているか、要素が運動に奉仕しているか、と言い換えてもいいかもしれない)が、
それ(あるルーチン/舞台)の「見方」を左右することがあるかもしれない。

ただ、ここでも、その「見方」が、「注目点」や「評価軸」以外の何かであるかは分からない。
(ぬきい氏が『ジャグリングの難しさ・視覚的面白さ(まとめて「魅力」)』と述べてしまっていることも気になる。)

以上が僕が言いたいことの一つ目、
もっと良い「語」、あるいは良い切り分け方があるはずだ、ということ。


続いて二つ目、
その上で、「芸術に「見方」なんてものが必要なんですか」を述べたいが、また別で。

 めも
生の感覚、見たことのないものを見たときにしか得られない
「見方」によってすべてが既存の楽しみに回収されてしまう、
楽しむ(分かる)だけが見方ではない

〈補論〉
鑑賞のテクニックについて
二つ目に関連している、
「楽しむためにある種の技術的「見方」が必要」なんて馬鹿げていると思う反面、確かにそのようなものがあるだろうことを経験則的に知っている。

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