2018/3/19 ジャグリング対談④

どうも、じんです。
思い立って始めたジャグリング対談も4回目となった。(②のnoteが抜けてるけど許して)
先日、某な氏と対談してきたので、その内容を書き残しておきたい。
色々話した気もするが、ここでは二つ、良さの話と、大会というものについての話を書く。

良さの話。
話の導入は忘れたが(多分ルーチン創作法概論のフィードバックコメントをもらった際?)、良さの話になった。
「良さ」を、作品としての良さと、素材の良さという二つに分けてみる。
作品としての良さは、ルーチンの、ルーチンとしての良さ(後述する)。
いわゆる大会での「構成点」に関するもので、僕の書いた『ルーチン創作法概論』も、この部分に主眼をおいたものだ。

素材の良さは、ルーチンに使われている素材(大抵はジャグリング運動)それ自体の、良さ。
JJF2010の村上翼が例として挙げられたが、素材としてのジャグリング運動(trick,pattern、シークエンス等)で用いられる"技術に対する"良さ、いわゆる「難易度」、「希少性」「新規性」といったものに留まらず、(「面白かった!」となるような)sense of wonder、つまり、そのジャグリング運動を見た際の感覚・感動(それは例えば、「美」と呼ばれる観点からの感覚かもしれない) をも含む。

特に、作品としての良さについて話したのでそれについて言うと、氏の感覚によればそれは、
☆「曲の雰囲気」と、「その人の身体つきや動きの癖・特徴」と、「ジャグリングの技の雰囲気(/選択?)」の三点の一致、これらがマッチしていること、らしい。
 ※「その人自身」と「行為(behavior,juggling)」からなる「その人の行為」と、「曲の雰囲気」とがマッチしているか、という方が正確かもしれない、という話になったが、分析がまだ不十分。

これは僕にとってはとても興味深く、かつ、思い当たる話だった。

曲とジャグリングがマッチしていること(音楽と運動の調和)というのは、良いルーチンの条件として一般に言われている項目である。「ルーチン創作法概論」第二部第4章にも、音楽についての記述がある。
JJFチャンピオンシップ2016の審査基準にも「パフォーマンス」点の「構成」の内訳として「音楽との調和」と書かれている。)

また、前の対談①対談③のnoteにて、ジャグリングが/ルーチンが、『〈私〉の語り』になる、ということについて言及しているが、今回の対談では、それが「この人じゃなきゃダメ」というような言葉で出てきた。
「その人の身体つきや動きの癖・特徴」と、「ジャグリングの技の雰囲気(/選択?)」がマッチしていることは、身体的〈私〉(これは常にoriginalなはず)とジャグリング運動が一致しているということで『〈私〉の語り』と関連しているのではないか。

対談ではディアボロでのヤンレンツーの技や北村ジェノサイドを例に挙げ、「その人が創り出した技の良さ」というのは、単に習熟度合いや洗練さで優っているということの他に、その人の身体との相性が良い、ということからも言えるよね、ということを確認した。
(ルーチン創作法概論の第一部第二章、「個人の運動様式」を参照)

「その人が創り出した技の良さ」は、僕の言葉で言えば「〈私〉の語り」における「語彙words」(語りにおける文の組み方や文体、語り方ではない、それより手前のところのもの)の話であり、対談で出てきた言葉で言えば「この人じゃなきゃダメ」感、 「人間味がある」、「趣深さ」、だが、
この話を「(その人が創り出した)技」に限定すると、はじめに切り分けた、素材の良さの話にとどまってしまう。話の射程を作品としての良さへと広げたい。

作品としての良さ、というのは、いわゆるルーチン「構成」の技術・技法というもの(それは例えば、音楽との調和(音ハメ)とか、ルーチンで5b5upピルエットをやる以前に、3b3upピルエット、あるいは5b3upピルエットを入れろ、といったような)以外にも、それとは別に、先ほどの「この人じゃなきゃダメ」感というものが、考えられないか。
というところまで行き着いて終わった。
それは僕が思うに、(同じ語彙wordsを用いるとしても)語りにおける文の組み方や文体、語り方によって表現される「〈私〉の語り」の話だと思うが、
素材の良さ、作品としての良さ、と切り分けたやり方がよくなかったか?

とにかく、以上が良さについての話。


もう一つ、大会というものについての話がある。こちらの方が僕にとっては衝撃を受けた話だった。

この話も長くなるので、詳説や僕個人の意見は別の稿でnoteを書きたいと思う。
簡単に内容を述べると、「良さ」を言語化しようとしている/大会の審査基準を切り崩そうとして大会アンチに片足を突っ込んでいた僕が放ったクエスチョンに対して、氏のアンサーがあり、僕がショックを受けた、というわけだ。

Q 大会の基準と〈私〉のジャグリングが乖離したときの問題についてどう考えるか? (僕は「大会が創作をねじ曲げる」問題と呼んでいる。)

A 「大会リテラシー」がないだけ。
 大会とは、ある特定のルールを採用して行われるgame(試合・ゲーム)であるだけだ、
 大会とは、勝ち負けのエンターテイメントだ、
ということを分かっていない。

要は、氏は「正しい」審査基準はない、というところを根としているらしい。

サッカーを例に挙げて話をした。サッカーのゴールの大きさ(ゴールポストの幅、クロスバーの高さ)や位置を変えれば、当然それによって求められる運動技術が変わる。
例えば、ラグビーのようにゴールを宙に浮かせれば、当然どのようなキック技術が求められるかは変わるだろう。
そのような様々な「ゴール」(様々な「サッカー」といってもいい)の中で、どれが一体「正しい」のか?、そんなものはない、その問いは意味をなさない。
ある特定のゴールをルールとして用いられる、ある一つのサッカーのゲームにおいて、求められる技術をもつチームが勝つ。ただそれだけだ、と。

僕が、「じゃあ、でも、ゴールの規格は統一したほうが良くない?」と言ってみたが、「そう?」との返答だった。
(ショックが大きく、このあたりはあまり覚えてないし、うまく議論が組めなかった気がする)

僕が問題と考えているもの、(=大会の基準と〈私〉のジャグリングが乖離したときの問題、「大会が創作をねじ曲げる」問題)は、僕を含め皆が大会リテラシーを高めることによって(「教育」によって)、あるいは、無限に近い多くの(これは「多様な」という意味で)大会の(基準の)存在によって解決する、という結論になった。
(後者の解決法をとるには、新しい基準を、言葉で、打ち立てる人が必要である。)

いまだに僕はうまく消化できていないが、僕は大会アンチから立ち位置を変え、大会というものに対しての向き合い方を改めなければならない、と思った。
別の稿で、それについての僕自身の意見、再反論を試み、また、僕の立ち位置を明らかにしたい。

とりあえず、以上を対談の記録として、この稿は閉じる。

最後に宣伝。

このイベントにゲスト話者として参加します。4/22日曜日、神戸六甲にて。
このnoteのように対談となるか、参加者含め皆の語りの集積の場となるかは分かりませんが、興味がある人は、ぜひチェックしてください。

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