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ジモカン日記vol.3 肩越しに世界を捉える

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ちゅっくらい事件

地元カンパニーで仕事を始めて1年が過ぎた。私の会社員歴もめでたく1年である。(人間歴は37年。1/37…なんかごめんなさい。)

新年から新組織体制が発表され、実質やっている仕事や業務量はあまりかわらないまま別の仕事が降ってきた。降ってきたというか、降り積もっている。現在進行形で、積雪量はどんどん高さを増していく。
(まあ、いつものことではある。)

まあまあ早急に決めたり調整したりしなくてはいけないことが大小含めて10個くらい。書きたい記事が20個くらい。1週間で決められたことは3個くらい、かけた記事は、うーん、まあ、2個くらい。

プライベートで決めなきゃいけないことは、重めなことが3つくらい、あと軽めなやつは山ほど。今日の夕飯、明日の朝ごはん、栄養バランス、休日の過ごし方、子どもの叱り方・褒め方、寝る時間、読む本や読む時間、風呂に入る順番…日常生活の中で決断する場面は無限にある。

金曜日の夜。
だからもう、何も決めたくなかった。子どもたちが風呂に入っても入らなくてもいいし、夕飯を食べても食べなくてもいいし、寝ても寝なくてもよかった。好きにしてくれ。母はとにかくゆっくり風呂に浸かりたい。

疲れた!って大声で叫ぶ日があってもいいじゃない。それなりに会社員生活とワンオペ3人育児をこなす自分を労いたい。そう思いながらつないでいたLINE通話(訳あって別拠点生活なのでいつもLINE電話)で、夫の言葉が私の地雷を踏んだ。

「アナタのビジネスメールも大概ちゅっくらいだよね」

おそらく軽口のつもりで放ったであろう夫の一言に、自分でも意図していなかったどす黒い感情がふつふつとこみ上げてきた。怒りとも悔しさともやるせなさとも言えるような、どす黒いあいつ。

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は?ちゅっくらい?私が?

得体の知れない黒い感情に支配された私は、明らかに不機嫌になってみるみる押し黙ってしまった。もはや私は画面から消え、夫から見える映像は天井のみ。しかも沈黙。夫は画面越しにオロオロと戸惑うばかり。

今このテキストを書いている時点ではまだちゃんと仲直りをしていないのだけれど、自分の感情を分析することをもって、夫にごめんって言いたい。
というわけで、公開詫び状にお付き合いください。

私は一体、なぜこんなにも動揺したのだろう。
なぜこんなに悔しかったのだろう。

ビジネスとは

私の職歴はほぼゼロである。
大学生のときに頂いていた内定は、組織に馴染めないと感じてお断りしたし、とりあえず食っていくために就職した会社も、商品の販売に魅力を感じきれずにすぐに辞めた。

いわゆる組織の中に所属するのが苦手だったし、利益を作り出そうとする集団にどうしても馴染めなかった。中高時代はガリ勉だったからコミュニケーションにコンプレックスがあったし、今もある。(ただガリ勉はアスリートと同義だと思っているのでガリ勉だったことはむしろ自慢したい。)

ビジネスマナーもビジネス用語も確かに知らない。間違っていることはたくさんあるだろう。地元カンパニーで作ってもらった会社の名刺を、どんな場面でどのタイミングで出せばいいのか正直わかっていないし(今の所勘)、未だに名刺を差し出すときはもじもじしてしまう。「ビジネス」の現場に身を置いていることに、どうしても居心地の悪さを感じてしまうことが、いまだにある。

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だからこそ、ビジネス〇〇、とかいう言葉を出されたときに、過剰に反応してしまう。ビジネスのなんたるかを知らない自分がこの場にいることへの引け目。コンプレックス。

要は、夫の言葉は図星だったのだ。だから悔しさが湧き出てきたのだろう。私はビジネスを知らないし、ビジネスメールがなんたるかも知らない。
私の1年の職歴に支えられた経験や自信など、こんな何気ない一言でハラハラと崩れ落ちるくらいに脆いのだ。

だけど一方で、ビジネスが何たるかを知る必要をどこかで否定している自分がいることも、この一件を厄介にしている。

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ビジネスは、つまるところ人間と人間のやりとりだと解釈している。ビジネス◯◯、というけど、それってビジネスかそうじゃないかで何が違うの?
ビジネススキルはすなわち生きていくためのスキルではないのか。
ビジネスマナーはすなわち人としてのマナーではないのか。
むしろ人間関係の延長線上にないビジネスなんて、そんなの嫌だ

ビジネスの経験はないし、ビジネスが何たるかも、会社とは、経営とはどうあるべきかも、まだまだ学び途中である。しかし、人間との関わりという意味では、自我の確立というところから、恋愛や結婚、子育ても含め、それなりの経験を重ねてきたし、思考も重ねてきた。

人を相手に、ちゅっくらいに何かをしているつもりはない。いつも真剣に生きてるし、いつも全力である。だから、「ちゅっくらい」という言葉に猛烈な反発を覚えたのだ。

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こう考えてくると、夫の発言は、ある意味で正しくて、ある意味で正しくない

ビジネスのなんたるかは確かに知らないけれど、ビジネスがそもそも人間の営みの延長線上にあると考えている私にとっては、ちゅっくらいに取り組むことなど一つもない、というのが、絡まってしまった私の感情の正体である。

とっさにこれが説明できなかったがために、夫はきっと今頃なぜ妻がこんなにも怒ってしまったのかと頭を抱えているだろう。

すまん、夫。
そういうことだ。


ビジネスの肩越しに

インドに住んでいた2020年の2月、突如コロナで学校がオンラインになり、あれよあれよという間にロックダウンが始まった。インドのロックダウンが厳しいことは日本のメディアでも報道されていたのでご存知の方も多いかもしれない。

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ロックダウン中、学校含めどこにもいけなくなり、夫は在宅ワークでピリピリし、家族とむき出しの人間同士として対峙する最中、他者との関係について考え、社会や世界とのつながりを考え、ひたすら言葉にして記録していた。これはチャンスかも知れない、というどこか鬼気迫ったような感覚も手伝って、半ば狂ったように毎日毎日何かを書いていた。

特に利益になるわけでもなく、特に誰かを救うためでもない。ただひたすら思考を巡らせてキーボードを叩く。10万字の執筆がおわったころ、「一体君はなんのために書いているの?」と夫から疑問をぶつけられた。

はて。
私は一体なんのために文章を綴っていたのだろう。誰のためにもならない、なんの利益にもならない文章を。
考えてみたけれども明確な答えはみつからなかった。

私はただ、書きたいから書いていただけだ。

その根底には、自分と地続きの世界を捉え、肯定したいという本能的な欲求があったような気がしている。わからないことをできるだけわかり、違和感を感じることをできるだけ整理して社会を肯定することで、社会と地続きの自分自身を肯定し、そしてすっきり死んでいきたい、という気持ちがあった。

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文化人類学という学問は「相手の肩越しに世界を見る学問である」と言われるらしい。何か一つの問題について、それを一旦問題と思うこと自体に疑問を持ち、まったく別の視点から世界を捉え直すうちに、自分にとっての答えがふいに現れるような、そんなイメージをこの学問に持っている。(違っていたらごめんなさい、文化人類学者の皆様…)

苦手だった金勘定や取引を読み解くビジネスという世界に、それでも足をつっこんでみようと決断したのは、もちろん環境的な要因が様々あるけれど、(あと、何より児玉さんが社長だったというのもあるのだけれど)、敢えて全く知らなかった世界に足を突っ込むことで見える世界があるかもしれない、と思ったからだ。

私はたぶん、ビジネスの肩越しに世界を見ようとしている。
やっていることは主婦だった時代と変わらない。

車椅子で目が見えなくて食事も排泄も全介助が必要な次女と、他のやんちゃな長男長女次男を連れてインドに住んでみよう、と思ったときも、科学的な根拠はまったくわからないけどインドの風習に従って生きてみようと思い、よくわからない植物のオイルを体に塗ってみたときも、全部同じ。

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(↑インドでファッションショーに出た車椅子の次女)

とにかく、知らない世界にダイブしてみよう。そこから見える景色は、これまで見たことがなかった景色に違いない。そう思っている。

こうやっていろんなものの肩越しに世界を捉えていくことで、いつか自分自身を足元から肯定できるはず。自分は、社会や宇宙と地続きなのだから。

誰かの肩越しに

SDGs(持続可能な開発目標) が2015年に国連で採択され、じわじわと言葉として広がっており、地元カンパニーでもSDGsのギフトを開発している。しかし、SDGsという言葉だけが独り歩きしているような場面も時々あるような気がして、勝手にやきもきしている。SDGsという言葉がファッションの流行のように資本主義の餌食になるのは絶対に違う。

SDGsに貢献できるかどうかという価値が、トレンドだから、社会の流れだから、とかそういうことではなくて、視点を変えてみようぜ、という話だと私は理解したい。SDGsは結局「自分以外の誰かの肩越しに世界を見る」ための目標と考えられるのかもしれない。

本来、日本には物事に人格をもたせて考えるような文化がもともと根づいているようにも思う。「もったいない」=「勿体(物事がすべて相互関係の上に成り立つ)無い」という言葉はその最たるものではないか。

今現在進行形で生きている78億人のそれぞれの人の肩越しに世界を見てみる。人だけでなく、共に生きる植物や動物の肩越しにも、世界を見てみる。

結局、そういう視点をあまりにも欠いたまま、人間は長く生きてきすぎてしまったのだと思う。「経済成長」を盾にして。

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インドのロックダウン生活の中で、人の動きがピタリと止まり、普段ひどい大気汚染で見えたことがなかった青空を見たときの衝撃と感動が、今でも忘れられずにいる。

私達は盲目的に人間の地位を過信しすぎていたのではないか

空は、こんなにも青かったのに。
地球の本来の姿は、本来あるべき姿は、一体どんな姿なのだろう。

誰かの肩越しに世界をみることを、誰もが始めなければ、いつのまにか自分が誰かの「誰か」になることすら、なくなっていってしまう。

そんな世界に未来があるとは思えない。
何度も言うが、自分は社会と、そして地球や宇宙と地続きなのだから。

見えなかったことを見ることや、知らなかったことを知ってしまうことは、もちろん怖い。知らなければ蓋をしてずっと生きていけたことを知ることは辛い。

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(↑デリーのゴミ山 日々高く積み上がり、作業者が命を落とす事件も)

それでも、自分と地続きの世界を知らずにいるまま、見て見ぬ振りをしたまま生きていくのは、もっと辛いと、私は思う。それは結局、自分自身に蓋をすることになるのだから。

だから、ダイブしよう。
垣根を超えて。職種や文化や人種を超えて。生命の種も超えて。
見えなかった世界に。知らなかった分野に。

自分以外の誰かの肩越しに、世界を見る

それが、今の人類がこれからを生き抜くためにもしかしたら唯一残された方法なのかもしれない。

(でも、私が見えているビジネスの世界なんて、ほんの一部なんだろうなぁ。)


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