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中庸であることの難しさ

孔子の「中庸の徳」、アリストテレスの「中庸」、お釈迦様の「中道」はそれぞれ相当違うものだが、拘りのない心、偏りのないものの見方という意味では、ある程度共通点があるのではないかと思う。

いずれの場合でも、結論は必ずしも足して2で割ったようなものでは無く、拘らず、偏らず思考した時に、あるべくしてある結論が導かれるといったものなのではないか。

それを、政治信条について言うと、天皇独裁制を求めて街宣車で叫ぶ極右や武力革命を本気で目指している極左の人達は置くとして、自由と民主主義に立脚する前提で、保守対リベラルを考えた時、どのあたりに中庸があるのだろうというのがテーマである。

ところで、保守だリベラルだと言っても実際には各人の立場は相当違う。
例えば、あなたは次のような項目についてはどちらを選ぶだろうか?

 リベラル            保守
大きな政府      ー    小さな政府
結果の平準化     ー    競争条件の平等
経済への国家の介入  ー    自由な市場経済
市民         ー    国民
国は権力機構     ー    自分達の国
自衛隊は違憲     ー    国防を重視
天皇制は不要     ー    天皇制は国家の礎
同性婚容認      ー    不容認
LGBTは個性      ー    LGBTは病気
日米安保に反対    ー    日米関係は外交の基軸

人によって、リベラルを自任する人でも、一部右側の項目を選ぶ人がいるだろうし、その逆もあるだろう。しかし中庸であるということは、これらの数がバランスすることではなくて、むしろ重要なのは、各項目にいずれかの立場を取るにしても、原理主義に走らないことだろうと思う。

具体的に言えば、自分は原則的には保守的な立場であるので、結果の平準化よりは競争条件の平等を重視する。むしろ同じ条件で競争しておいて、その結果を平準化してしまうのでは、努力が報われないではないか。とはいえ、負け組が悲惨な結果に陥ることは望まない。最低限のセーフティーネットを用意することと、再挑戦する機会を保証することが極めて重要だと思う。

また、自分はホモサピエンス30万年の歴史を通じて、雌雄による種の保存が行われてきた事実を踏まえて、LGBTは一種の病気だと考える。しかし、LGBTに対する人権侵害は決して許されない。病気の人が差別されないのと同じことだ。世の中には治せない病気は山ほどある。治せない病気の人に治す努力をせよと要求するのは間違っていると思う。

ところで、一般論として、リベラルの人は個別項目に関して原理主義に走りやすい傾向があるように思う。例えば憲法9条の神聖視。最近は9条があれば外国は攻めてこないというトンデモ論はごく少数派になったが、自衛隊を縮小せよという人達が、同時に日米安保を破棄して対米自立だと言い出すのは、どういう事なのだろう?特定の項目への拘りから、全体のバランスがおかしくなっているとしか思えない。

なお、何故リベラルが原理主義に走りやすいのかという点については、稿を改めて論じてみたい。


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