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まっすぐな国境線2

 中東には遊牧民が多数存在していました。彼らはラクダやヒツジを連れて季節に応じて長距離を移動します。この遊牧を生業とする部族(あるいはその下の単位も含め)がもつ移動範囲(境界領域)をアラビア語で「ディーラ」といいます。このディーラは、やっかいなことに、重層的にできていて、それぞれの部族のもつディーラが別の部族のディーラと縦横斜めいろんなかたちで重なっていることが珍しくありません。

 この重層的な領域を二次元の地図上で重ならないよう線を引くことは困難です。ましてやこれにA部族はサウジアラビア、B部族はアブダビというぐあいに税金を支払ったり、忠誠を誓ったりする相手が異なる場合、それを加味しながら、なおかつみんなが納得する国境線を引くことは不可能でしょう。そこでたとえば、サウジアラビアとイラク、サウジアラビアとクウェートのあいだには「中立地帯」という概念が導入され、この中立地帯のなかであれば、それぞれの国に属する部族は自由に移動できる、そしてその中立地帯から上がる収入は両国で折半するといったことで合意がなされました。

 現在は、長距離を移動する遊牧民が減少しているので、中立地帯もなくなり、ちゃんと国境線が引かれています。また、未解決の国境問題の多くも湾岸戦争後、交渉が進み、多くが解決されました。しかし、アラビア半島にはまだ未解決の問題が残っています。たとえば、前回お話したサウジアラビアとアブダビもそうですし、中立地帯が解消されたサウジアラビアとクウェート間でも、たしかに陸上には国境線が引かれましたが、海上国境はまだ画定していません。クウェートの海上沖にはドゥッラ・ガス田というのがあるのですが、ここはクウェートとイランとの係争地になっています。ただ、サウジアラビアとクウェートの海上国境が画定しないので、こちらも画定できないということです。

 デヴィッド・リーン監督、ピーター・オトゥール主演の傑作映画『アラビアのロレンス』を知っているかたは多いでしょう。この映画そのものはもちろんフィクションですが、アラブに詳しいロレンスの実話にもとづいていることから、なるほどねと思わせるところも少なくありません。

 たとえば、アラビア半島における遊牧民の領域概念を興味深く描いた場面があります。ロレンスがハーシム家のフェイサル(現在のヨルダン国王の先祖)に会いにラクダに乗って、ガイドのベドウィン「タファス」といっしょに沙漠を移動しているときのこと、タファスが沙漠のなかにある井戸から水を汲んでロレンスに飲ませます。そのときタファスはその井戸について「これはハーリス族の井戸だ。ハーリス族はきたないやつらだ」と述べます。その後、2人が井戸で休んでいると、遠く沙漠の向こう蜃気楼のなかから、ラクダに乗った男の姿が近づいてきます。タファスはそれに気づき、「ベドゥ(ベドウィン)だ」と口にするや、自分のラクダに駆け寄り、銃を取って、遠くのベドウィンに向かって撃とうとします。しかし、逆にそのベドウィンに撃たれて死んでしまいます。

 近づいてきた男(有名なエジプトの俳優オマー・シャリフ(オマル・シャリーフ)演じるシャリーフ・アリー)にロレンスが「なぜ(殺したのか)」と尋ねます。すると、アリーは「これはおれの井戸だ」と答えます。それに対しロレンスが「わたしも(水を)飲んだぞ」というと、アリーは「おまえはいい」と答えました。

 さらにアリーは自分が殺したタファスについて「バニー・サーレムのハージミー族だ。…(中略)…ハージミー族はおれたちの井戸で飲むことはできない。やつは知っていたはずだ」といいます。映画を代表する名シーンですので、この場面を覚えている人もいるんではないでしょうか。

 まえに述べたとおり、遊牧民が移動する空間(=ディーラ)は重層的であり、複数の部族が行き来することができます。一方、井戸については、部族ごとに所有権が発生してるのがわかります。この井戸は、ハーリス族の井戸なので、ハージミー族がそれから水を飲むことは許されないとなるわけです。では、なぜロレンスは飲めたのでしょうか?原文の英語ではシャリーフ・アリーは「You are welcome」と答えています(ちなみにこれまでの日本語訳は筆者自身によるもので、実際の字幕や吹替のセリフとは異なると思います)。

 タファスが殺されるまえにハーリス族について「きたないやつらだ」といっていました。したがって、ハーリス族とハージミー族は対立していた可能性があります。それぞれの部族のディーラにはかならず井戸があり、その井戸は各部族の所有物になります。したがって、他の部族がその井戸を使うことは、通常は許されません。しかし、沙漠という過酷な環境下では、井戸は必需品です。複数の部族が一つの井戸を共有するケースもありますし、友好的な部族には他の部族の所有する井戸を利用することが許されることがあります。しかし、敵対的な部族の場合は許されないということもしばしばあります。この映画の場合でいえば、敵対するハージミー族のものが井戸を使うことは許されないが、無関係の英国人のロレンスは許されるということでしょう。

 ちなみに、映画では言及されていませんが、井戸にはだいたいどの部族の所有になるのかわかるように、印がつけられています。この印をアラビア語で「ワスム」と呼びます。今はおそらくそんなことはないと思いますが、かつては遊牧民たちは、どの部族がどんな印だったのか、きちんと覚えていたといいます。ちなみにラクダにもこのワスムがつけられるのがふつうです(この場合は烙印ですね)が、ふしぎなことにウマにはワスムをつけないそうです。下の画像はジェッダ近郊のラクダ牧場で撮影したものです。ラクダの首に烙印が押されています。

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 なお、ハーリス族もハージミー族も実在するアラビア半島の部族です。彼らが実際、対立していたかどうかまでは調べていません。

(保坂修司)

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