Ewig Wiederkehren

この一年について振り返る機会がきた。
というか自分で設けている。
設けずにはいられない。言葉にすることで感情から切り離したい。私の中で咀嚼し文に変わった瞬間それはもう過去で終わった感情だから。

何においても苦しい、辛い、耐えねばいけない、自分で決めたことだから、自分が選んだのだから、自分が耐えれば何とかなる。

呪文のように何度も何度も言い聞かせた言葉たちだ。
それは簡潔に言えば諦め。

悪いことではなかった。
諦めれば他人にどんなに悪くされようが、怒る気にも対抗する気にもならず、ただの事象として過ぎていく。やり過ごすが適切なのかもしれない。

別の角度から見れば自己を捨てることで成り立っていたように思える。それを無理やり支えるので自分は歪な形をしている。たまにそれが顔を出しては自分を悲劇的に捉えることにもなっていた。

ともかく多面的な様々な感情がずっとシミのように広がり薄めても薄めても消えることはなかった。

常にお先真っ暗でこのままいたらあの暗闇に吸い込まれてしまうかもしれないって恐怖心だけで動いている。
だからたまに自分のしてきたことが肯定されたりいいことがあると本当に嬉しいの。素直に心の底から喜んでしまう。なのに、それは一瞬でその先はまた真っ暗で孤独で最悪。

これは大小あれ人はみな何かしら孤独なのでしょうがないのだとは思う。

もちろんその一瞬の嬉しいが積み重なってるから生きてきてる。

自分を後回し出来ないことは都合よく隠したり自己解決する癖がついた。そのくせ自分に余裕がなくなる。本当に最悪。

いつの間にか優しいと言われることは強さや誇らしさや褒められることでもなくて我慢して自分を押し殺すことにすり替わる。

他人に構わないで自分の意見や欲求を素直にすぐ言えたらいいんだろうか。それも違う気がする。

ここまで基本的に悲観的な人間ゆえ、
どうしても文章が暗くなってしまう。
しかし、全て悲観的に見ているわけではもちろんない(それならもうとっくにこの1年で死んでるつぅの)

世の中は同じことが永遠繰り返してるそうだ。人類の歴史で私のことなんて塵に等しいので確かにそう。
そう思うととても軽くなってくる。
更にそれを確信付けるものとして「一度は数のうちに入らない」というドイツの諺がある。
一度だけ起こることは、一度も起こらなかったようなもの。
人が一度きりの人生を生きるのだとしたら生きてもないように等しいのかもしれない。
なんせ人類の営みは永遠繰り返されてる。

孤独を埋めたい。分かち合いたい。理解されたい。誰かにちょっと寄り掛かりたい。頼りたい。楽になりたい。信用したい、されたい。

自分の人生の底にあるこれら仕事、恋愛なんでもいい「ほんとうのこと」とでも言おうかな。
で、なんとか見つかりそうになるんだけど、結局わかったのは、「え、自分の存在ってこんなに軽かったの?」という絶望。

と考えるのはやはり重いのか。自分よ、軽くていいのだよ。

この一年の日々を肯定している。
私は頑張ったのだ。
間違ってもいたとは思う。
でもこれが今の私には精一杯でベストだった。
どうしようもなくてどうすれば人が楽になるか幸せになれるかをずっと来る日も来る日も考えた。自分に自信がなかったんだ。

でも良かったんだ。

咀嚼しきれてなかったらしい。
これを書きたかったのではないという気持ちが強い。それも今のリアルさがあるので良いだろう。全て綺麗に書くのが嫌らしい。もっと自分のクソだなと思う所を書いてくれ自分。
こういうところ嫌いでウザイな自分。


(あと少しは訂正を加えよい文にしていく)

Ewig Wiederkehren

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?