相対主義という理屈と個人の感情
我々は正しいことは上、間違っていることは下と考えてしまいがちだ。言い方を変えるならば、自分が納得できるようなことは上、到底納得できないことは下と考えてしまいがちだ。
この世の中に絶対的な正義と悪は存在しなくても、個人にはある程度の正義と悪がある。その人が正しいと思うことは好意を抱いたり、尊敬したりなどの良い感情が湧出る。正しくないと思うことは反対の感情が湧出る。
現代の世の中は相対主義が主流である。人それぞれ色んな考えがあって、それらは否定したりせずに出来るだけ認めてあげるべきだ、多様性を尊重しようという考え方が好ましいとされている。それなのに、人々の言動を見ていると、上で述べたような正誤に伴う感情の問題は依然としてなくなる気配を見せない。
個人の主義を感情に従って追求することと相対主義は矛盾しないのであろうか。私には匿名掲示板・SNSで蔓延する感情のぶつけ合いの中に相対主義を見つけることはできない。自分の主張とそれと同じ意見こそが正しく、違う意見を言う人・主張に反した行動を取る人を蔑み、晒し上げ、憎しみの対象にしたり笑いの的にするような投稿が連日のようにバズる現象が見受けられる。そもそも、インターネットの普及によって相対主義は廃れてしまったのだろうかとさえ思う。
しかし、多様な文化を尊重すべきかと問われれば多くの人はYesと答えるし、特定の主義による独裁は世界的規模で好ましい印象を持たれない。
つまり、問題は相対主義のもとにおいても、我々は正誤に伴って上下のような感情を抱いてしまうということである。理屈では上下の問題ではないとわかっていても、そう思ってしまう。我々はこの事実を認識し、解決することを目指さなければ真に互いが互いを尊重し合う社会は実現しないのではないか、ということを考えた。
(追記)SNSでよくあるGoodとかBadとかいいねとかは感情的なものであって、相対主義と反するものだなと思った。相対主義はそもそも資本主義的ではない。
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