モノの魅力と意志、わからないこと

意味がわからないことがたまに魅力的に見えたりする。特に美術館はそういうことが多い場所だと思うし、音楽でも文学でも、日常生活のどこにだってそういうことはある。

なら、作り手はどうなのだろうか。作り手は自分も意味が分からないものを意図して作っているのか、あくまで自らの意志に基づいて作っているのか。ここで問いたいのは要するに、モノが魅力的なのは意志によるのか、よらないのかということである。

この命題を確かめるには世の中の創作物に対して一つ一つ丁寧に創作者に聴いて回らなければならないわけで、それは現実的には不可能だろう。

ではやはり作品を享受する側に戻って、なぜ意味がわからないものに魅かれるのか考えてみる。

まず一つはわからないものを理解しようとしているという仮説。理解しようとするから流さないし、留まって考える。わからない状態から何かわかるようになると感動が生まれる。映画や小説などのストーリー仕立てのものだとそういうのが多い気がする。起承転結の承・転あたりで謎を用意して物語に引き込ませるという手法。

ただこれは最終的にわかるようになる場合で、結局わからないものを好きになる状態が続くと困る。例えば他人と話をするとき、「ここ」がいい!と伝えられない。傍から見れば何一つ身になってないし、自分としてもなんとも言い難い気持ちになる。出来れば理解できていた方がいい。

それでもそもそも「好き」というのは理屈ではなくて、直感的なものであって、好きなものを全て理屈で説明できるようになるというのもいかがなものかと思う。それは作る側としても、設計された好きだけを享受してもらいたいというのは傲慢である。

そう考えると、意味がわからない好きというものの中にはもしかしたら作り手側も意図しない、自然発生した要素も含まれているかもしれない。それはもはや自然であって、「言語化できない何か」であるから、もちろん意味もわからない。

ならば、やはりモノの魅力に意志は絶対必要な要素ではない。作品が持つ自然の神秘性に魅かれることはままあることで、仮に意志だけの作品があるとするならば、それは傲慢の産物である。

(そういう意味で、作者の意図したものしか認めない法律やらルールというのは堅苦しくてやはり直感的に好きにはなれない。あくまで理屈の世界のものである。)

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