人間は誰だって二重人格者という話
日頃生きていて、今日も今日とて自分の好きなものを明言できない。
好きなものは何ですかと聞かれて、単純に一つを言い切れない。
好きな食べ物のどこが好きですかと聞かれて、うまく表現できない。
なぜかと考えてみると、感情の自分と理性の自分が全く交わらない他者だからだと思う。
あるものに触れたとき、感情の自分は膨大な情報を発している。
例えば、その物の手触り、匂い、色の配置、周りの環境、今までの記憶から感じられる直感、、、、などなど。
その一瞬を言語として満遍なく表現しようとすると、書き切れたとしても莫大な量になる。
そんな一瞬を刻一刻と積み上げていくのが人生だ。
そんなものを言語や論理を使って「考える」しかできない理性の自分に理解し切ることは到底できない。
だから(この文章を書いている理性の)私は私の好き嫌いを明言することはできない。
身体が朝起きるのに辛い感覚を生み出す感情の私もいれば、たまに朝スッキリと起きさせる感覚を生み出す感情の私もいる。
だから(感情の)私が朝起きるのは苦手、と言い切れるかは曖昧なところだなあと思う。
(そんなもんは朝スッキリ起きれる日の割合が少ないなら「朝は苦手」ってことでいいんだよ。面倒臭い人間め、お前みたいなやつをコミュ障と言うんだよ。
・・・と言われたら、ハイその通りです。としか返しようがない。)
ということで少し例が悪かったが、ともかく人生の概ねの行動を律してしまう理性の私は、なるべく感情の私の声を聞きつつ、彼の好きなようにやらせてあげたいと思うのだ。
好き嫌いのない、空っぽの(理性の)私が理性的に考えた行動は、(感情の)私の幸・不幸を大いに左右する。その一つ一つの声を敏感に汲み取ることはできないが、一つでも多く汲み取ることが、この私という個人に宿る「感情の私」との上手い付き合い方なのではないかなあと、「理性の私」は考えている。
生きている意味なんてものを考える中身が空っぽの理性の私は、その答えを見つけようがなく、少しでも感情の私に献身的にいることしかそもそも存在意義がない。
ベッドでゴロゴロしながら携帯いじるのが好きそうならそうさせるし、ボーッとずっとゲームをするのが好きそうならそうさせるし、少しはお金がないとダメだよねと言う理性の私に抑え切れないほど働くのが嫌になるようならスッパリ辞める。
プラトンは感情(本能)を馬で、理性は御者だというが、動物愛護の考えが進んだ今となっては御者の私は御者というよりもただただ献身的な世話係だ。
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