八つ墓村事件(津山30人殺し事件)

-経緯-
昭和13年5月21日午前2時頃、岡山県苫田郡西加茂村大字行重字貝尾部落(現在津山市加茂町行重)で肺患を苦に極度な神経衰弱に陥った同部落の都井睦雄(当時22歳)が、猟銃や日本刀で祖母を皮切りに部落民を次々に襲撃。結果、30人を殺害、3人に重軽傷を負わせて近くの山に逃走した。

同日午前11時30分頃、警察や消防、地元の青年団約1500人余りが大規模な山狩りを行っていたところ、同村青山の荒坂峠付近で猟銃で自殺している都井を発見。自宅から2通、自殺現場から1通の合計3通の遺書が発見された。

同村の全戸数は約380戸、人口約2000人で貝尾部落は全戸数22戸、人口111人。山奥の平和な農山の部落に突如惨劇が降ってきた。30人殺害は戦前、戦後を通じて他に類を見ない大量殺人事件として語り継がれている。

-生い立ちと背景-
都井は大正6年3月5日に同村大字倉見部落で出生。農業を営む温和な父親と母親、3つ歳上の姉の4人家族。裕福とは言えないまでも中農で不自由ない生活振りであった。

だが、大正7年都井が2歳の時に父親が肺結核で死亡。翌年の大正8年には母親が同じく肺結核で死亡。幼くして両親を失った都井は父親方の祖母いね(事件当時76歳)に姉と一緒に引き取られた。

都井が6歳の時、同村貝尾部落に移転。いねは自分の里であるこの地に永住をしようと大きな古い農家の家を購入した。都井はここから西加茂尋常小学校に入学した。都井の成績は抜群で学級長や総長になったが、体が生まれつき丈夫ではなく年の1/3は欠席する状態だった。

それも都井が成長するにしたがって、以前よりは丈夫になったが、祖母のいねは「睦雄は跡取だから」と溺愛。ちょっとした微熱でも学校を休ませる為、週に3日~4日も欠席させることは珍しくなかった。このような状態であったから学友はあまりいなく、もっぱら家で姉とお手玉などして遊ぶ毎日だった。

都井は高等科に進級したが、成績はさらに向上。担任から中学、大学へ進学することを勧められ、都井は岡山の名門である県立岡山第一中学校を志望した。だが、祖母のいねは、都井が中学校に入学すれば寮生活となることを寂しがり反対した。結局、都井はいねの気持ちを汲んで中学進学を断念した。

尋常小学校高等科を卒業した都井は16歳になった。この頃から、肋膜を患い医者からは安静にしているようにと診断され家でゴロゴロしていた。一方、祖母のいねは毎日のように家に居る都井を嬉しく思っていた。

都井にとっての唯一の友人は姉であった。その姉が都井が18歳の時に嫁いでいった。唯一の相談相手であり友人であった姉が居なくなった寂しさを、読者や小説などを書いて気を紛らわす毎日であった。

昭和11年、都井20歳の時に徴兵検査を受けた。この時、結核で丙種合格となった。甲種、乙種は実質合格であるが丙種は事実上の不合格である。当時の時代背景は、立派な体躯を作ってお国のために兵役に就くことが男の本懐という時代であったから、都井のショックは大きかった。「やっぱり俺は肺結核だったのだ」と悲観と自暴自棄に陥っていった。

この頃、異性に対して異常に興味を持った。娼妓通いはもとより、同じ部落の同年代の娘や娘の母親に対して関係を迫った。この当時、どこの地方も娯楽といえば異性との関係以外になく都井も例外ではなかった。事件後の証言や遺書からも同部落の複数の女性と関係があった事実が判明した。

だが、以前から関係のあったA子が急に冷たくなり、「お国のためになれない肺病患者がゴロゴロしおって・・・」というような罵詈雑言を浴びた。都井は、A子のみならず、以前から関係していたB子、C子などが急に冷たくなったり、一言も告げずに嫁いでいったりしたことを恨んだ。「学校の級長、総長にまでなり、村の神童とまで言われた俺がなんでこのような侮辱を受けねばならないのだ」と激昂した。

-犯行準備-
都井は、祖母いねに内緒で田畑を担保にして「肺結核病院に入院する費用」と偽り地元の金融機関から金の融資を受けた。この金で、神戸の銃砲店に出向いて猛獣用の猟銃や知人を介して日本刀、匕首などを買い揃えた。これらの凶器は都井の部屋の屋根裏にある茶箱の中に隠した。

-犯行当日-
都井は、以前部落の人から駐在所に「都井が不穏な動きをしている。猟銃をもってウロウロしている」と密告され、警察から厳重注意を受けて猟銃を取り上げられたことがあった。都井自身も、「肺結核でいつ死ぬか分からない」という焦りから、俺を馬鹿にした連中を早く殺さねばならないと犯行準備を急いだ。

昭和13年5月20日の夜、都井は部落に送電されている電線を切断した。部落民は単なる停電と思い、いつもより早めに床に着いた。今まで事件などなかった部落民に戸締りをする習慣はない。部落は、まったくの無防備状態となった。

貝尾部落は暗闇の世界と化した。まさに日本凶悪犯罪で未曾有の惨劇の幕開けだった。

翌21日午前1時頃、都井はいよいよ犯行の準備に取り掛かった。自宅の屋根裏に入り茶箱から用意していた凶器や他の品物を取り出した。まず、黒色の詰襟制服に着替えて、足にはゲートルを巻いて地下足袋を履いた。

頭は手拭で作った鉢巻を巻いた。この鉢巻の両側(両耳の上部)には懐中電灯が入るように工作されており、暗闇から見ると「二つ目の化け物」に見えた。更に胸には自転車用ナショナルの角型ライトを紐で首にぶら下げ、横ぶれ防止に他の紐で胴体を結んだ。

凶器は日本刀と匕首を左腰に差込み革ベルトで締め付けた。手には猛獣用のブローニング自動9連発を持った。弾薬は背嚢を肩からぶら下げて携行した。午前2時頃、いよいよ犯行が決行された。

①祖母いねを、殺すには忍びないが凶行の後に残しておくのは哀れだと、自宅にあった斧でいねの首を一刀両断して殺害した(1人殺害)。

②都井宅の隣の岸田勝宅に侵入。妻のつきよの首を日本刀で刺し、さらに口の中に刃先を突き立てて殺害。長男(14歳)、次男(11歳)もメッタ刺しして殺害(3人殺害)。

③2軒目、西川秀司宅に侵入。妻のとめを猟銃で射殺。猛獣用のダムダム弾だから胸に卵大の穴があいて内臓が飛び散った。さらに秀司、娘2人を射殺(4人殺害)。

④3軒目、岸田高司宅に侵入。主で新婚の高司と妻の知恵を射殺。さらに農業の手伝いにきていた親戚の寺上猛雄も射殺。高司の母親のたまは、「頼むけん、こらえてつかあさい」と都井の足元にひれ伏したが、都井は「ばばやん、顔をあげなされ」とたまの顔をすくい上げた瞬間、猟銃をぶっ放した。幸い、たまは全治5ヶ月の重傷を負ったものの一命は取り留めた(3人殺害)。

【このあたりで、山間に轟く銃声や泣き叫ぶ声が木霊して部落内では、何が起きているのか分からず恐怖のどん底に陥った】

⑤4軒目、寺井政一宅に侵入。主の政一、長男と内妻、五女、六女を射殺。四女は隣に逃げ込んで助かった(5人殺害)。

【寺井政一宅における殺害目的は情交のもつれで恨んでいた四女であった。隣に逃げ込んだ四女を都井は追いかけた】

⑥5軒目は、寺井政一の四女が逃げ込んだ寺井茂吉宅。都井は、この家には恨みが無く計画には入っていなかった。たまたま政一の四女が逃げ込んだための悲劇だった。茂吉は床下に娘や政一の四女を匿ったが、茂吉の父親が射殺された(1人殺害)。

⑦6軒目は、寺井好二宅に侵入。母親を射殺した(1人殺害)。

⑧7軒目、寺井千吉宅に侵入。主の内妻と養蚕手伝いで泊り込んでいた2人の娘を射殺。この時、主の千吉(当時85歳)は死を覚悟したが、都井は銃口を向けながら「お前は俺の悪口を言わんかったから堪えてやるけんの。せやけんど、わしが死んだらまた悪口をいうことじゃろうな」と薄笑いして家をあとにした(3人殺害)。

⑨8軒目、丹波卯一宅に侵入。卯一の妹と母親を射殺。(2人殺害)。

【逃げ切った主の卯一は駐在所の巡査が出征して不在であることから隣町の加茂町駐在所に事件の第一報を報告した】

⑩9軒目、池沢末男宅に侵入。末男の両親と妻、四男を射殺(4人殺害)。

⑪10軒目、寺井倉一宅に侵入。都井は「倉一はいるか!」と急坂を登ってきた。倉一の妻は、何事が起きたのかと雨戸を開けて外を覗いている時だった。妻が「暗闇から二つ目が来るぞい」と恐怖で叫んだ途端、射殺された(1人殺害)。

⑫11軒目、岡本和夫宅に侵入(岡本宅は貝尾部落の隣に接する坂元部落にある)。主の和夫と妻2人を射殺(2人殺害)。

これを最後に、都井は犯行現場から西北に約4キロ先の同村大字樽井字仙の荒坂峠付近に逃げ込み猟銃で自殺した。30人を殺害するのに【僅か2時間たらず】だった。この部落は山間部特有の起伏がきつい地形で、都井は猟銃や日本刀など20キロ以上の重装備で急坂を駆け登りながらの凶行であった。


犯行ルートと犯人都井

-遺書-
遺書は3通あった。2通は自宅で発見された「遺書」と「姉上様」と書かれたもの。他1通は都井が自殺した現場から発見された。犯行の動機を知る手掛かりとして重要である。自殺現場から発見された遺書を掲載する。

愈愈死するにあたり一筆書置申します、決行するにはしたが、うつべきをうたずうたいでもよいものをうった、時のはずみで、ああ祖母にはすみませぬ、まことにすまぬ、二歳のときからの育ての祖母、祖母は殺してはいけないのだけれど、後に残る不びんを考えてついああした事をおこなった、楽に死ねる様と思ったらあまりみじめなことをした、まことにすみません、涙、涙、ただすまぬ涙がでるばかり、姉さんにもすまぬ、はなはだすみません、ゆるしてください、つまらぬ弟でした、この様なことをしたから決してはかをして下されなくてもよろしい、野にくされれば本望である、病気四年間の社会の冷胆、圧迫にはまことに泣いた、親族が少く愛と言うものの僕の身にとって少いにも泣いた、社会もすこしみよりのないもの結核患者に同情すべきだ、実際弱いのにはこりた、今度は強い強い人に生まれてこよう、実際僕も不幸な人生だった、今度は幸福に生まれてこよう。

思う様にはゆかなかった、今日決行を思いついたのは、僕と以前関係があった寺井ゆり子が貝尾に来たから、又西川良子も来たからである、しかし寺井ゆり子は逃がした、又寺井倉一と言う奴、実際あれを生かしたのは情けない、ああ言うものは此の世からほうむるべきだ、あいつは金があるからと言って未亡人でたつものばかりねらって貝尾でも彼とかんけいせぬと言うものはほとんどいない、岸田順一もえい密猟ばかり、土地でも人気が悪い、彼等の如きも此の世からほうむるべきだ。

もはや夜明けも近づいた、死にましょう。

(犯行直後の興奮状態での遺書。誤字などあるが原文のママとする)

-「八つ墓村」のモデルに-
推理小説の重鎮、横溝正史は戦中岡山県に疎開していた。そこで、津山30人殺しの実話を聞き大きなショックを受けた。横溝は、いつかこの事件をモデルに小説を書き上げてみようと思ったと語っている。後年、戦国時代の祟りと津山30人殺しをリンクさせ「八つ墓村」を完成させた。発表と同時にベストセラーになり横溝の代表作となった。

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