運とルビンの壺
もしかしたら、運は努力に勝るものかもしれないと思う今日この頃。
ただ、運というのは不確かなものではなく、合理的に高められるものであり、
そこには、多少の違和感を伴う情報処理を行う必要があり、人によってはその違和感を乗り越えて新たな情報処理回路を自分の中に組み込むことに多大なコストを感じるかもしれない。
しかし、そのコストを払い続けることで、予想もしない報酬が待っているのだと思う。
ところで私は、随分前に職場の上司から、「あなたは本当に運がいい」としみじみと言われたことがあった。
その時には、まるで私は実力の無さを運でカバーしているのかと思ってしまい、あまり喜べなかったが、
今では私の最大の才能は「運の良さ」だと確信でき、あの時上司が言ってくれたその言葉が、その才能を担保するお守りのようになり、さらにその才能に磨きをかけようという気にさせてくれている。
私が思うに、運の良さとは、ある種の思い込みだと思う。
より突っ込んだ言い方をすれば、
「何を前景化して認識するか」という情報処理のパターンではなかろうか。
ところで、認識の前景化・背景化を語るうえで、「ルビンの壺」というものが役に立つ。
ルビンの壺とは、代表的な だまし絵の一つで、壺にも、向かい合った横顔にも見えるものだ。
つまり、壺部分を前景化する人にとっては、横顔部分が背景化され、横顔部分を前景化する人にとっては、壺部分が背景化されるわけである。
極端な話、一目で壺だと思い込んでしまった人には、横顔には見えなくなるし、逆もまた然りとなる。
これは何を前景化(逆に言えば背景化)するかによって、見えるものが全く変わり、一度背景化されてしまった情報は認識されにくくなってしまうという、人間の認識の面白さ・厄介さを示唆してくれるものだろう。
私は、努力や実力の割に、物質的にも、人や環境的にも恵まれているので、もともとの運はかなりいいほうだと思うが、
私の古い友人には、見事な前景化によって、豊かな人生を築き上げているのではないかと思わせる人物もいる。
同じ環境で同じ事を体験しても、私は不平不満の方を多く感じても、その友人は満足できる要素に着目できるのだ。
私はそれが長年不思議であったが、今にして思うと、
まさに前景化のパターンの違いであったのだと合点がいったわけである。
よく、「運を高めるには、運気のいい人と付き合え」という話を聞くが、それはなにも根拠のないフワフワした話しではなく、
先述した私の友人の例を基に、自分を上機嫌にできるか否かは前景化のやり方次第だという仮説を踏まえれば、
上機嫌な前景化ができる人との付き合いを増やすことで、自分もまた上機嫌な前景化の仕方を身に着けやすくなるという、学習と習慣化の話に帰結できるのではなかろうか。
だとすれば、やはり運の良さというのは、合理的に工夫できる事柄の一つであり、最も意識的に伸ばしやすい誰しも持ちうる才能ではないかと思えてならない。
なにより、前景化の工夫によって自分自身を上機嫌にし、上機嫌な自分と関わった人にも何らかの上機嫌な前景化要素を示すことは、意外と見過ごせない連鎖反応が起こせるのかもしれない