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あきつしま 2

4 崇神天皇

ヤマト王権が築かれた弥生時代、西暦208年1月13日に御間城尊(みまきのみこと)として知られる崇神天皇が第10代天皇として即位しました。崇神天皇は開化天皇の第二皇子であり、母は伊香色謎命(いかがしこすずのみこと)です。
2月16日、従妹の御間城姫(みまきひめ)を皇后とし、二人の間に活目命(いくめのみこと)や倭彦命(やまとひこのみこと)が生まれました。崇神天皇は万世一系の王朝を築くと詔を発しました。

その年の9月、崇神天皇は三輪山西麓の磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)に遷都しました。しかし、新たな都には疫病が蔓延し、人口の半分が失われました。天皇はこれを鎮めるために天神地祇(てんじんちぎ)を祭祀し、宮中に祀られていた天照大神を皇居の外に移しました。
天照大神は豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に託され、笠縫邑(かさぬいのむら)に祀られました。

そのころ、大物主神が倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)に自分を祀るよう託宣しました。天皇は大田田根子(おおたたねこ)を大物主神の神主とし、これが三輪山を御神体とする大神神社の始まりとなりました。

天皇は高橋邑の活日(いくひ)を大神の掌酒(さかびと)にし、大物主の祭祀を事視(ことみ)して神酒を捧げました。
また、大和国の東口に座す墨坂神(すみさかのかみ)と西口に座す大坂神(おおさかのかみ)を盾と矛をもって祀りました。

その後、天皇は四道将軍を派遣し、武埴安彦(たけはにやすひこ)の叛乱を鎮め、畿内を平定しました。四道将軍が帰参し、戎夷(じゅうい)を従わせたことで、崇神天皇は御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称えられました。

1月1日、崇神天皇の第3皇子、活目尊(いくめのみこと)が誕生しました。母は皇后の御間城姫命でした。崇神天皇は夢占いを行い、弟の活目尊を皇太子とし、兄の豊城命(とよきのみこと)には東国を治めさせました。

崇神天皇の治世中、銅矛文化圏(九州)と銅鐸文化圏(畿内)が存在していましたが、3世紀頃には銅鐸が使われなくなり、前方後円墳が出現しました。
初期の前方後円墳は崇神天皇、垂仁天皇、景行天皇の墳墓であり、三輪山の麓に位置しています。ヤマト王権は鉄を独占し、強大な連合王権を築きました。

7月、飯入根(いいいりね)が出雲の神宝を献上しましたが、兄の出雲振根(いずものふるね)に謀殺され、皇軍に誅殺されました。10月には依網池(よさみのいけ)、11月には苅坂池(かりさかのいけ)と反折池(さかをりのいけ)を造成し、農業の発展を図りました。

同じく7月、任那国の蘇那曷叱知(そなかしち)が朝貢し、これが『日本書紀』に記録された初めての朝鮮半島関連の記録となりました。崇神天皇は60歳で崩御し、ヤマト王権の基盤を整えました。

●3世紀、三輪山の麓に90m級の前方後円墳が5基造られました。纏向遺跡のある奈良盆地の東南地域は大和と呼ばれていました。纏向を本拠とするヤマト王権は大和朝廷の前身の王権であります。

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古代日本の歴史は倭国の激動の時代を物語ります。この時代、日本の軍勢は大陸へと渡り、朝鮮半島における軍事行動を繰り広げました。

**倭軍の新羅攻め**
倭軍は新羅に侵攻し、その都である金城を包囲しました。新羅王は自ら出陣して倭軍と対峙し、最終的には倭軍を撃退しました。また、新羅は伊伐飡(いばつさん)の官位を持つ昔利音を派遣して防衛にあたらせました。ー『三国史記』新羅本紀

**魏・呉・蜀の三国時代**
この頃、大陸では後漢が滅亡し、魏・呉・蜀の三国時代に突入しました。
同時期にササン朝ペルシャが建国され、世界各地で大きな変革が起きていました。

**『魏志』倭人伝**
3世紀前半の日本について、『魏志』倭人伝には「今、仕訳の通ずる所三十国なり」と記されています。これは日本に多くの国々が存在し、それらが相互に関係を持っていたことを示しています。

**邪馬台国の女王卑弥呼**
この年、卑弥呼は難升米(なしめ)らを魏に派遣し、魏の明帝から「親魏倭王」の称号と金印紫綬を賜りました。また、魏の使者が帯方郡から倭国を訪れ、詔書と印綬を倭王に授けました。ー『三国史記』新羅本紀

**倭国と新羅の交流**
夏の5月、卑弥呼は新羅に使者を派遣しました。この交流は新羅との関係を強化するためのものであり、日本と朝鮮半島の国々との結びつきが深かったことを示しています。

これらの出来事は、日本とその周辺国との交流や戦闘を通じて、日本が大陸文化と接触し、影響を受けながら独自の歴史を刻んでいった時代を象徴しています。

**倭迹迹日百襲姫命**
倭迹迹日百襲姫命は孝霊天皇の皇女で、崇神天皇の御世に箸が原因で薨去され、箸墓古墳に葬られました。
箸墓古墳は西暦280年から300年頃に造られたことが炭素14年代測定法によって確定されています。これによって、崇神天皇の御世がこの頃だったことがわかります。また、邪馬台国の卑弥呼が亡くなったのが248年と確定されています。つまり、ヤマト朝廷と邪馬台国は直接のつながりのない(箸墓古墳は卑弥呼の墓ではない)ことが理解されるのです。

5 垂仁天皇

西暦242年1月2日に垂仁天皇こと活目入彦五十狭茅(いくめいりびこいさち)は第11代天皇として即位しました。垂仁天皇は崇神天皇の第三皇子であり、母は御間城姫命です。10月には、崇神天皇が山邊道勾岡上陵(やまべのみちのまがりのおかのえのみささぎ)に葬られました。

2月、垂仁天皇は狭穂姫命(さほひめのみこと)を皇后としました。
任那から蘇那曷叱知(そなかしち)が帰国しました。
しかし、新羅との抗争が始まり、蘇那曷叱知は新羅に下賜品を奪われました。同年10月、纒向への遷都が決定されました。

3月、新羅王子の天日槍(あめのひぼこ)が神宝を奉じて来朝しました。
同年10月、垂仁天皇の皇后の兄・狭穂彦王(さほひこのみこ)が反乱を起こし、皇后は兄に従って焼死しました。
翌年の7月には、出雲の野見宿禰(のみのすくね)が当麻蹴速(たいまのけはや)と相撲をとり、これが相撲節会の起源となりました。

●狭穂姫命と狭穂彦王
狭穂姫命は、垂仁天皇の后として迎えられ天皇に非常に愛されていました。
狭穂姫命には狭穂彦王という兄がいました。狭穂彦王は、自分の妹が天皇の后になったことを利用して、自らも権力を握りたいと考えるようになります。
狭穂彦王は、妹の狭穂姫命を通じて宮中に影響力を持ち、やがて天皇を打倒しようと計画します。狭穂彦王は妹を説得し、自らの計画に加担させます。
狭穂姫命は、兄の計画に従うものの、内心では非常に悩み苦しみます。狭穂姫命は天皇を愛しており、兄の反乱計画に加担することに強い罪悪感を抱きます。
狭穂彦王の反乱計画は、垂仁天皇に知られるところとなり、天皇はこの事実に非常に驚き、深く悲しみました。
反乱計画が発覚したことで、狭穂彦王は追い詰められます。狭穂彦王は最終的に戦いに敗れ、自ら命を絶ちます。狭穂姫命もまた、自分の行いに絶望し、自害してしまいます。
このはなしは、垂仁天皇の御世における重要なエピソードであり、皇族内の権力闘争や家族の悲劇を描いています。


翌年2月、垂仁天皇は丹波道主王(たんばのみちぬしのみこ)の娘、日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)を新たな皇后とし、大足彦尊(おおたらしひこのみこと)や倭姫命(やまとひめのみこと)らを得ました。この時期に、鳥取部(ととりべ)、鳥養部(とりかいべ)、譽津部(ほむつべ)が設けられました。

3月、天照大神の祭祀が皇女の倭姫命に託され、元伊勢(籠神社)伝承が始まりました。8月には玉諸神社(山梨県)に武器を献納し、神地・神戸を定めました。
10月5日には、倭彦命が薨去し、倭彦命の近習が殉死しましたが、その後「殉死の禁令」が出されました。

7月6日、日葉酢媛命が薨去し、野見宿禰の進言により殉死の風習に代えて埴輪が埋納されるようになりました。
また、五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)に河内国の高石池や茅渟池を開かせて農業が盛んになりました。

10月、五十瓊敷入彦命が剣千振を作り、石上神宮に納めることが決定され、神宝を掌るよう命じられました。

7月、天日槍の曾孫である但馬清彦(たじまのきよひこ)が但馬の神宝を献上しました。
翌年2月、天日槍の玄孫である田道間守(たじまもり)が常世国の非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)を求めるために派遣されました。

垂仁天皇は70歳で崩御し、12月に菅原伏見陵(すがわらのふしみのにささぎ)に葬られました。

●垂仁天皇は伊勢の神宮を創建され、初めて屯倉(天皇の直轄地)をつくりました。また、夢で大国主命に会い、出雲の神社の改築を頼まれ、これが出雲大社の起源とされています。

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卑弥呼と魏への報告
西暦247年、邪馬台国の女王卑弥呼は、狗奴国王・卑弥弓呼(ひみここ)との戦いを魏に報告しました。その頃、韓半島の穢(わい)も魏に朝貢していました。弁辰の国々は豊富な鉄を産出し、この鉄は、韓、穢、倭の人々にとって非常に貴重な資源となりました。

卑弥呼の死と日食
西暦248年9月5日、北陸と東北地方で日の出時に皆既日食が観測されました。
同じ頃、九州では卑弥呼が亡くなり、男王が即位しました。しかし、卑弥呼の死によって邪馬台国は混乱に陥りました。

西暦250年に、「魏志倭人伝」が記されました。

晋の興りと壹與の朝貢
西暦265年、司馬炎が魏から禅譲を受けて晋を興しました。
西暦266年に、邪馬台国の女王壹與(いよ)は西晋に朝貢しました。
西暦280年、晋は呉を滅ぼし、三国時代に終止符を打ちました。

箸墓古墳の造営
西暦281年頃、日本では箸墓古墳が造営されました。
この古墳は、炭素14年代測定法によって「倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)」の墓であることが確定されました。

倭国と新羅の戦争
倭軍は新羅に攻め入り、一礼部という地を襲撃し火攻めにしました。
新羅兵千人が捕虜となり、倭軍はその軍事力を示しました。この戦いは『三国史記』新羅本紀に記されています。

6 景行天皇

西暦291年、田道間守が3月に帰国し、その年の7月11日に大足彦忍代別尊(おおたらしひこおしろわけのみこと)が第12代・景行天皇として即位しました。忍代別尊は垂仁天皇の第三皇子であり、母は日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)です。3月3日には播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)を皇后に立て、二人の間には大碓命(おおうすのみこと)と小碓尊(おうすのみこと)が生まれました。

2月には屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおごころのみこと)を紀伊国の神祇を祀る役目に任じ、美濃国にも行幸して泳宮(くくりのみや:岐阜県可児市)に滞在し、八坂入媛命を妃として稚足彦尊を得ました。
11月には纒向日代宮に遷都しました。

7月、熊襲が朝貢せず背いたため、8月には筑紫に親征を開始し、9月には周防国と豊前国を征伐しました。
10月には豊後国の來田見邑で土蜘蛛(土着民)を征伐し、11月には日向国に仮宮として高屋宮を造営し、12月には熊襲梟師(くまそたける)を征伐しました。

翌年の5月、襲国(そのくに:日向と大隅にまたがる山岳地帯)を平定し、その地の美人の御刀媛を妃として豊国別皇子を得ました。
豊国別皇子の子孫は日向国造になりました。
3月には日向高屋宮に留まり、子湯県の丹裳小野で朝日を見て襲国を日向国と名付け、思邦歌(くにしびのうた)を歌いました。

3月には夷守(ひなもり:宮崎県小林市)へ、4月には熊縣(くまそ:人吉市)で弟熊を征伐し、葦北(熊本県水俣市)へ進みました。
5月には八代県(熊本県八代市)の豊村へ行き、その地を火国と名付けました。
6月には高来県(長崎県島原市)と玉杵名邑(たまきむら:熊本県玉名市)を経て阿蘇国へ向かいました。

7月には筑紫後国の御木(福岡県大牟田市)と八女県(福岡県八女市)へ、8月には的邑(いくはのむら:福岡県うきは市)へ行き、9月には筑紫から還御(帰国)しました。

2月には五百野皇女(いおののひめみこ)に天照大神を祀らせ、7月には武内宿禰を北陸・東方諸国の視察に派遣しました。
翌年2月に武内宿禰が帰還し、蝦夷の存在と土地の豊かさを報告しました。
8月には熊襲が再叛し、10月には小碓尊(16歳)が熊襲征伐へ発ち、12月に川上梟師(かわかみのたける)を討ち取りました。
以後、小碓尊は日本武尊(やまとたけるのみこと)と名乗りました。

2月には日本武尊が帰国し、7月には大碓皇子に東国遠征を命じましたが拒絶され、美濃に封じました。
10月には東国の蝦夷平定を日本武尊に命じました。
日本武尊は帰途に伊勢国の能褒野(のぼの)で没しました(30歳)。

日本武尊は伊勢国に埋葬され、大和国と河内国にも白鳥陵(しらとりのみささぎ)を造り、武部(たけるべ)を定め、日本武尊が連れ帰った蝦夷を諸国に送りました。

8月4日には稚足彦尊(わかたらしひこのみこと)を立太子し、武内宿禰を棟梁の臣とし、佐伯部を定めました。
5月4日には播磨稲日大郎姫皇后が崩御し、7月7日には八坂入媛命(やさかのいりひめのみこと)を立后しました。

8月には景行天皇は日本武尊を追慕して東国巡幸に出発し、伊勢国を経て東国へ、10月には上総国の淡水門(あわのみなと)へ、12月には伊勢の綺宮(きく)へ戻りました。
翌年9月に帰国しました。

2月には景行天皇が近江国に行幸し、志賀高穴穂宮(しがのたかあなほのみや)に滞在しました。
景行天皇(53歳)は志賀高穴穂宮で崩御しました。

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西暦296年ころの弁辰は、後に伽耶諸国となる地域であり、『魏志』韓伝弁辰条に記載されています。
この地域では鉄を産出し、韓・穢・倭がこれを取っていました。3世紀末、陳寿によって『魏志』(「三国志」の魏の部分)が書かれ、陳寿は西暦297年に没しました。

垂仁天皇や景行天皇の時代に、ヤマト政権が邪馬台国を併合したと考えられます。

西暦313年、高句麗が楽浪郡を占領し、西暦314年には帯方郡を滅ぼしました。
西暦316年晋が滅び、「五胡十六国と南北朝」の時代が始まりました。

4世紀頃、西域の鳩摩羅什(くまらじゅう)らによって多くの仏典が漢訳されました。
「五胡」は少数民族であり、儒教とは無縁の民族でした。五胡十六国と北朝の皇帝の多くは仏教に帰依し、仏教の振興に力を入れ、それが漢民族の南朝にも影響を与えていきました。

日本武尊

ヤマトタケルの兄、大碓命は父天皇の召し上げた乙女を盗み、そのため朝夕の食事に参会しませんでした。父天皇は、小碓命(ヤマトタケル)に兄を教え諭すよう命じました。小碓命は兄が朝の厠に入るところを捕らえ、手足を引き裂いて菰(こも:むしろ)に包んで投げ捨ててしまいました。この勇猛さに恐れを抱いた天皇は、小碓命を西方の賊平定に派遣しました。
これが小碓命の征旅と漂泊の生涯の始まりです。

まだ少年だった小碓命は、女装して熊曾建(くまそたける)兄弟の宴席に入り、宴たけなわのときに兄弟を剣で刺し通しました。虫の息の熊曾建は、小碓命を讃えてタケルの名を奉りました。ヤマトタケルはそれを聞き終えるや否や、相手を熟苽(ほぞち:熟した瓜)のように振りさいて殺しました。
ヤマトタケルはその後、出雲の出雲建を詐術で討ち、西方平定を成し遂げて天皇に報告しました。
しかし、天皇は再びヤマトタケルに、東方を征討せよと命じました。

ヤマトタケルは出発に際して伊勢の大神に参り、斎宮である叔母の倭比売命から草薙剣(くさなぎのつるぎ)と袋を授かりました。
そのとき、ヤマトタケルは「天皇はこの私に死ねというのだろうか。西方の戦から帰ったばかりで、軍勢も賜らずに東国に遣わそうとする」と述べ、憂い泣きました。

東国でもヤマトタケルは次々と平定しました。相模国では国造に欺かれて野火に囲まれましたが、草薙剣と袋の中の火打石によって難を逃れました。
走水の海(はしりみず:浦賀水道)では渡りの神の妨害に遭い、后の弟橘比売(おとたちばなひめ)がヤマトタケルに代わって入水し、神の心をなだめて船を進めることができました。
足柄の坂で、ヤマトタケルは三たび嘆いて「あずまはや(わが妻よ)」と言い、それでその国を阿豆麻(あずま:東国)という地名の起こりとなりました。

そこから甲斐、信濃を経て尾張に至り、往路に婚約した美夜受比売(宮簀媛)と結婚しました。しかし、ヤマトタケルは草薙剣を置いて伊吹山の神を討ち取りに出かけましたが、神の降らす氷雨に惑わされました。
その後、当芸野(たぎの)、杖衝坂(つえつきざか)と進むにつれて疲労が増し、二つにしか折れない脚が三重にも曲がりそうなほどの状態になりました。

やがて能煩野(のぼの)から大和国を思い、

倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山ごもれる 倭し美し

など三首の思国歌(くにしのびうた)を詠みましたが、ここで病状が悪化し、間もなくして世を去りました。
死後、ヤマトタケルは大きな白鳥と化して天を駆け、葬(とむらい)を営む后や御子たちがその後を泣いて追いました。白鳥は河内国の志幾(しき)にまで飛び、そこでヤマトタケルの墓、白鳥陵(しらとりのみささぎ)が築かれました。その後、白鳥は天のかなたへ飛び去ったと伝えられています。

7 成務天皇

稚足彦尊は景行天皇の第四皇子であり、母は美濃出身の八坂入媛命(やさかいりひめのみこと)です。
1月5日に志賀高穴穂宮で第13代・成務天皇として即位しました。

11月には景行天皇が山邊道上陵(やまのべのみちのえのみささぎ)に葬られた。

1月には、成務天皇は武内宿禰を大臣に任命した。
2月には、国郡に首長を任ずる詔を発し、9月には前年の詔を実施するために、国郡(くに、こおり)・県邑(あがた、むら)それぞれに国造(くにのみやつこ)・稲置(いなぎ)を置き、山河をもって国境とすることを決定しました。

成務天皇は54歳で崩御し、その遺体は狹城盾列池後陵(さきのたたなみのいけじりのみささぎ)に斂葬(れんそう:本葬)されました。

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