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あきつしま 1

1 神武天皇

縄文時代の終わりころ、庚午(かのえうま)年の1月1日、磐余彦命は筑紫(九州)の日向の地に生まれました。
天照大神の孫・邇邇芸命(ににぎのみこと)の曾孫である磐余彦命は、父・鸕鶿草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)と母・玉依姫(たまよりひめ)の間に生まれた第4子です。兄には五瀬命、稲飯命、三毛入野命がいました。

磐余彦命は15歳になると、太子としての責務を担うこととなりました。そして、日向国の吾平津媛(あひらつひめ)を妃に迎え、二人の間に手研耳命(たぎしみみのみこと)という子が生まれました。
時が経ち、磐余彦命が45歳になった頃、塩土老翁(しおつちのおじ)から東方にある豊かな中洲の話を聞きます。磐余彦命は、その地を治めることを決意し、兄弟や子供たちを集めてみずから船団をひきいて東征を開始しました。

進んで行くと潮の流れの速い速吸之門(はやすいのと)で、どの船も前に進めなくなりました。
難儀していると国神(くにつかみ)の珍彦(うずひこ)という者と出会い水先案内をしてもらって、無事に宇沙ヘ上陸することができました

乙卯年の3月、一行は吉備国に着き、そこで3年間軍備を整えました。

戊午年の春2月11日に難波の碕を経て、3月10日に河内の国の草香邑の青雲の白肩の津に至り、長髄彦(ながすねひこ)との戦いに挑みましたが、敗北してしまいます。五瀬命は、「我々は日の神の御子なのに、日に向かって戦ったのが良くなかったのだ。これからは。回り込んで背に日を負って敵を討とう」と仰せられました。

5月、磐余彦命は海路を南へと向かいましたが、兄の五瀬命は矢傷がもとで紀国の男之水門(おのみなと)で亡くなるという悲しい出来事もありました。しかし磐余彦命は挫けず、熊野に上陸し、土蜘蛛(土着の民)を討ち破りました。

磐余彦命は、山をいくつも越えたところで道がわからなくなってしまいました。その時、天照大神が磐余彦の夢にあらわれて申されました。「今、天から八咫烏を道案内として差し向けます。その八咫烏の飛んで行く方向に進みなさい」と教え諭されました。
そして土着のたくさんの勢力を征し、ようやく吉野河の上流に行き着くことができました。

宇陀の地を平定し、丹生川上で天神地祇を祀る儀式を行いました。その後も戦いは続き、磯城を平定してついに長髄彦に勝利しましたが、長髄彦は最後まで恭順せず、高天原から下った饒速日命(にぎはやひのみこと)によって誅殺されました。

そして、中洲の地を「磐余」と改め、新たな始まりを象徴する土地としました。畝傍山では、天下を治める決意を込めた奠都の詔(八紘為宇)を宣言し、橿原の地に宮を築きました。
その後、事代主神の娘である媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)を正妃として迎えました。

ついに紀元前660年、辛酉(かのととり)年の1月1日、西暦に換算すると2月11日に磐余の地で即位しました。この日こそが、建国の日とされる大切な日です。即位した磐余彦命は、後に神武(じんむ)と諡号され、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称されるようになりました。

こうして、神武天皇として名を残した神日本磐余彦命は、日本の初代天皇となりました。
即位後、神武天皇はさらに国を統治し、八百万(やおろず)の神への感謝と祈りを捧げ続けました。紀元前657年2月23日、神武天皇は鳥見山中にて皇祖天神を祀りました。

春が訪れた紀元前630年4月1日、神武天皇は腋上(わきがみ)の嗛間丘(ほほまのおか)に登りました。そこから見渡す国土の形が、まるで蜻蛉(あきつ)の臀呫(となめ)に似ていることに気づきました。この美しい風景を見て、この国を「秋津洲」と命名しました。この名前には、自然の豊かさと美しさを称える思いが込められていました。

しかし、神武天皇の時代もやがて終わりを迎えます。紀元前585年3月11日、127歳という長寿を全うし、崩御されました。その死は国中に大きな悲しみをもたらしましたが、偉大な業績と御心は永遠に語り継がれることとなりました。

翌年の9月12日、神武天皇は畝傍山東北陵に葬られました。
その後、手研耳命の反逆により3年間ものあいだ空位となりましたが紀元前582年11月、神渟名川耳尊は異母兄の手研耳命を誅殺しました。


ところで、3世紀末に西晋の陳寿が編纂した『魏志倭人伝』によると、「倭人は年を数える方法を知らず、ただ春の耕作と秋の収穫を年の目安としている」と記されています。つまり、倭人は現代の1年を2年とする「春秋年」を採用していました。そのため、神武天皇の崩御年齢として伝えられている127歳は「春秋年」で数えたもので、実際の崩御年齢は64歳だったと考えられます。『日本書紀』の編纂者は欽明天皇の時代まで「春秋年」を用いていたと考えられるため、それ以降の古代日本の年代は「皇紀」を実年(西暦)に換算して表記させていただきます。

2 神武天皇が即位したころの世界の様子

紀元前6世紀、アケメネス朝ペルシアがオリエントを統一した時代に、古代インドに釈迦が誕生しました。中国では孔子が没し、弟子たちが彼の教えを『論語』としてまとめました。
同じ頃、古代ギリシャではアテネにソクラテスが生まれました。ソクラテスはその後、問答法で多くの弟子を導きましたが、最終的に刑死します。
この時期、中国の遼寧地方から朝鮮半島に鉄器文明が広がり、文化の進化が進みます。

戦国時代の中国には、孔子の後を継ぐように儒学の始祖である孟子が生まれ、性善説を説きました。それに対して、性悪説を唱える荀子も登場し、儒学は深まっていきました。

一方、マケドニアにはアレクサンドロス大王が生まれ、彼は21歳で東征を開始し、広大な領土を征服しましたが、32歳で亡くなりました。その後、大王の帝国は分裂し、多くの国々に影響を与えました。

日本が縄文から弥生時代に変わる頃、中国では嬴政(後の始皇帝)が趙の首都、邯鄲で生まれます。彼は13歳で秦の王位を継ぎ、相国呂不韋の助けを借りて統治を始めました。嬴政は楚、趙、魏、韓、燕、そして斉を次々と滅ぼし、ついに中国全土を統一しました。始皇帝はそれまでの封建制から郡県制に統治体制を変えて中央集権制度を確立しました。阿房宮の建設に着手しましたが、49歳で急死します。

始皇帝の死後、農民反乱が勃発し、劉邦という英雄が登場します。劉邦は秦軍と戦い、項羽との激しい戦いを経て、最終的に中国を統一しました。劉邦は長安を首都に定め、漢朝の初代皇帝として即位しました。しかし、劉邦の治世は戦乱の連続であり、韓信や英布などの反乱を鎮圧し続けましたが匈奴の冒頓単于には敵わず貢物送りました。
彼の死後、衛満が古朝鮮の準王を追放し、衛氏朝鮮を建国しました。

前漢7代皇帝、武帝の時代になると、漢は朝鮮と戦い、衛氏朝鮮を滅ぼして漢四郡を設置しました。これにより、楽浪郡は平壌あたりに位置し、西晋の313年まで続きました。

この時期、司馬遷は『史記』の編纂に着手しました。紀元前1世紀ころの日本の様子も『漢書』「地理志」に記されており、倭国は百余国に分かれていると伝えています。

紀元前90年に司馬遷が『史記』を完成したころに狭野命(神武天皇)が生まれ、紀元前70年、辛亥年1月1日磐余の地で即位しました。(春秋年を採用)

紀元前57年4月、姓が朴である13歳の赫居世(かくきょせ)が辰韓の地域で新羅を建国しまた。

ユリウス暦は共和政ローマのガイウス・ユリウス・カエサルによって紀元前45年1月1日から1年を365.25日とする太陽暦が導入されました。

紀元前37年、朱蒙(しゅもう)が満州の南部に高句麗を建国し、その後、楽浪郡と帯方郡を征服していきました。

3
ここからは「皇紀」を実年(西暦)に換算した年で表記します
※月日は「日本書紀」記されている月日を使用しています

綏靖天皇
神武天皇が64歳で崩御されると、紀元前32年、1月8日に神渟名川耳尊(かむぬなかわみみのみこと)が第2代・綏靖天皇として即位しました。
都を葛城高丘宮(かつらぎのたかおかのみや)に移しました。7月には叔母にあたる五十鈴依媛命(いすずよりひめのみこと)を皇后とし、磯城津彦玉手看尊(しきつひこたまてみのみこと)をもうけました。
綏靖天皇は42歳で崩御しました。

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綏靖天皇の御世のとき、ローマでは共和制から帝政に移行しました。
朝鮮半島では温祚(おんそ)が馬韓の地域で百済を建国しました。
弁韓は小国分立状態が続き、伽耶と呼ばれるようになりました。

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安寧天皇
紀元前15年7月15日に磯城津彦玉手看尊(しきつひこたまてみのみこと)が第3代・安寧天皇として即位しました。
安寧天皇は綏靖天皇の皇子で、母は事代主神の娘である五十鈴依媛命(いすずよりひめのみこと)です。10月に綏靖天皇は桃花鳥田丘上陵(つきだのおかのえのみささぎ)に葬られました。その後、都を片塩浮孔宮(かたしおのうきあなのみや)に移しました。安寧天皇は鴨王(事代主神の孫)の娘である渟名底仲媛命(ぬなそこのなかつひめのみこと)を皇后とし、息石耳命(おきそみみのみこと)、大日本彦耜友尊(おおやまとひこすきとものみこと)、磯城津彦命(しきつひこのみこと)をもうけました。
安寧天皇は29歳で崩御しました。
 
 
懿徳天皇
西暦元年、2月4日、大日本彦耜友命(おおやまとひこすきとものみこと)が第4代・懿徳天皇として即位しました。
懿徳天皇は安寧天皇の第二皇子で、母は鴨王(事代主神の孫)の娘である渟名底仲媛命(ぬなそこのなかつひめのみこと)です。8月、安寧天皇は畝傍山西南御陰井上陵(うねびやまのひつじさるのみほどのいのえのみささぎ)に葬られました。その後、都を軽曲峡宮(かるのさかいおかのみや)に遷都し、天豊津媛命(あまとよつひめのみこと)を皇后に立て、観松彦香殖稲尊(みまつひこかえしねのみこと)をもうけました。
懿徳天皇は39歳で崩御しました。
畝傍山南纖沙溪上陵(うねびやまのみなみのまなごのたにのえのみささぎ)に葬られました。
 
 
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懿徳天皇の御世の西暦元年、イエスがユダヤのベツレヘムで、処女マリアから生まれました。
西暦4年、新羅の赫居世の長男である南解が第2代王として即位しました。
西暦6年、前漢の15代皇太子である孺子嬰は、王莽の傀儡として皇太子の地位に留められ、帝位には即位できずに西暦8年に前漢が滅び、王莽の新が興りました。
新羅王の南解は、倭人の脱解が賢者であると聞き、彼の長女を脱解と結婚させました。
馬韓は北方民族の百済により滅ぼされました。
西暦10年7月には、新羅王は脱解を大輔に任命し、軍事や国政を委任しました。

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孝昭天皇
西暦18年1月に観松彦香殖稲尊(みまつひこかえしねのみこと)が第5代・孝昭天皇として即位しました。
孝昭天皇の母は息石耳命(おきそみみのみこと)の娘である天豊津媛命(あまとよつひめのみこと)です。7月に掖上池心宮(わきがみのいけごころのみや)に遷都しました。尾張連祖の瀛津世襲(おきつよそ)の妹である世襲足媛(よそたらしひめ)を皇后とし、天足彦国押人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと)と日本足彦国押人尊(やまとたらしひこくにおしひとのみこと)をもうけました。このように皇尊(すめら)一族は綏靖、安寧、懿徳、孝昭の時代に畿内、尾張、摂津の豪族と血縁を結び、その地に“すめら”の血を受け継ぐ子を産んでいきました。
孝昭天皇は57歳で崩御しました。

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孝昭天皇の御世に秦が滅び後漢が興りました。
朝鮮半島では新羅王の南解が亡くなり、太子の儒理が王位を倭人の昔脱解に譲ろうとしましたが、脱解は固辞し、儒理が王位に就きました。
西暦25年に後漢の初代皇帝である光武帝が即位しました。
そのころ百済の南部で初めて陸稲が栽培されました。
光武帝の時代、倭国から使者が朝廷に派遣されました。―『隋書』「倭国伝」
西暦57年に倭の国王が後漢に遣使し、光武帝より金印を賜りました。―『後漢書』東夷伝
この金印は1784年に志賀島(福岡)で発見され、「漢委奴国王」と記載されていました。
同年、明帝が即位し、新羅国では脱解(62歳)が第4代新羅王となりました。―『三国史記』新羅本義

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考案天皇
西暦60年1月7日、日本足彦国押人尊(やまとたらしひこくにおしひとのみこと)が第6代・考案天皇として即位しました。
考案天皇は孝昭天皇の第二皇子であり、母は皇后で尾張連祖の瀛津世襲(おきつよそ)の妹である世襲足媛尊(よそたらしひめのみこと)です。10月には室秋津島宮(むろのあきつしまのみや)に遷都しました。天足彦国押人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと)の娘である押媛(おのしひめ)を皇后とし、大日本根子彦太瓊尊(おおやまとねこひこふとにのみこと)らをもうけました。
考安天皇は69歳で崩御しました。
9月に玉手丘上陵(たまてのおかのえのみささぎ)に葬られました。12月には大日本根子彦太瓊尊が黒田廬戸宮(くろだのいおどのみや)に都を移しました。

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考案天皇の御世の西暦107年、倭の帥升が後漢6代皇帝の安帝に生口(奴隷)160人を献じました。―『後漢書』東夷伝

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孝霊天皇
西暦111年1月12日、大日本根子彦太瓊尊(おおやまとねこひこふとにのみこと)が第7代・孝霊天皇として即位しました。
孝霊天皇は孝安天皇の皇子で、母は皇后である天足彦国押人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと)の娘の押媛(おしひめ)です。2月に磯城県主(または十市県主)大目の娘である細媛命(くわしひめのみこと)を皇后とし、彦国牽尊(ひこくにくるのみこと)をもうけました。
孝霊天皇は64歳で崩御しました。

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孝霊天皇の御世、西暦146年に後漢11代皇帝、桓帝が即位しました。桓帝と霊帝の頃(146年 - 189年)に、「倭国大乱」が起きました。―『後漢書』東夷伝

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孝元天皇
西暦149年1月14日、大日本根子彦国牽尊(おおやまとねこひこくにくるのみこと)が第8代・孝元天皇として即位しました。
孝元天皇は孝霊天皇の皇子で、母は磯城県主(または十市県主)大目の娘である細媛命です。3月に軽境原宮(かるのさかいはらのみや)に遷都しました。9月6日に孝霊天皇は片丘馬坂陵(かたおかのうまさかのみささぎ)に葬られました。翌年3月に穂積臣の祖である欝色雄命(うつしこおのみこと)の妹、欝色謎命(うつしこめのみこと)を皇后とし、大彦命(おおひこのみこと)や稚日本根子彦大日日尊(わかやまとねこひこおおひひのみこと)をもうけました。
孝元天皇は58歳で崩御しました。

開化天皇
西暦177年11月12日に稚日本根子彦大日日尊(わかやまとねこひこおおびびのみこと)が第9代・開化天皇として即位しました。
翌年10月に春日率川宮(かすがのいざかわのみや)に遷都しました。開化天皇は孝元天皇の第二皇子で、母は欝色雄命(うつしこおのみこと、穂積臣の遠祖)の妹である欝色謎命(うつしこめのみこと)です。翌年2月6日に孝元天皇は剣池嶋上陵(つるぎのいけのしまえのみささぎ)に葬られました。翌年1月には、孝元天皇の妃(側室)だった伊香色謎命(いかがしこめのみこと)を皇后とし、御間城入彦五十瓊殖尊(みまきいりひこいにえのみこと)らをもうけました。
開化天皇は56歳で崩御しました。春日率川坂本陵(かすがのいざかわのさかのえのみささぎ)に葬られました。

昭和4年に開化天皇の実在が確認されました。諡号のヤマトネコは持統天皇から元正天皇までのものと同一です。

考安天皇、孝霊天皇、孝元天皇の御代に皇尊一族は、日本各地の豪族との血縁関係を拡大していきました。

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開化天皇の御世の西暦184年に中国で「黄巾の乱」が起きました。
197年、高句麗は(中国吉林省集安市に)丸都城(がんとじょう)を築城しました。

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