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あきつしま 18

98 後亀山天皇

1383年の冬、熙成親王が第99代・後亀山天皇として即位しました。後亀山天皇は後村上天皇の第二皇子ですが、母は藤原勝子(?)です。この年、足利義満は武家として初めて源氏長者の座に就き、その権威を高めました。

1392年、明徳の和約により、閏10月2日、南朝の君臣が大覚寺に到着し、5日には三種の神器が後小松天皇の土御門内裏に移されました。この過程で、足利義満は両朝の講和のために斡旋し、後亀山天皇はこれを受諾しました。こうして「南北朝合一」が実現し、南北朝時代に終止符が打たれました。

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後亀山天皇御世の元中9年7月17日、李成桂は易姓革命派の推戴により即位し、国号を「朝鮮」と定めました。
この国号は明の洪武帝によって決められ、「朝鮮の称こそ美しく、その由来するところが遠い」と称賛されました。こうして、李氏朝鮮が興り、新たな王朝が歴史の舞台に登場しました。

●北朝、初代・光厳天皇(量仁親王)
後醍醐天皇に代わって北条高時により擁立され践祚しました。
六波羅探題陥落により退位。足利尊氏の要請で豊仁親王が即位すると院政 を開始しました。

北朝、2代・光明天皇(豊仁親王)
足利尊氏による擁立、光厳上皇の院宣により即位し、北朝が成立しました。後醍醐天皇が南朝を立て「北朝に渡した三種の神器は偽物だ」と表明しました。尊氏を暦応元年(1338)征夷大将軍に任じ、室町幕府が成立しました。ー花の御所(室町殿)。
貞和4年(1348)益仁親王に譲位し仏門に入りました。

北朝、3代・崇光天皇(益仁親王)
足利尊氏が南朝に帰順した為、廃位されました。ー(正平一統)
光厳、光明、崇光の3上皇は賀名生に連行され幽閉されました。
崇光天皇の伏見野宮栄仁親王が「世襲親王家」となりました。24代550年間存続し、昭和22年10月14日にマッカーサー元帥により皇籍を離脱させられました。「11宮家皇籍離脱」

北朝、4代・後光厳天皇(弥仁王)
観応3年(1352)親王宣下も神器もなく、後伏見上皇中宮西園寺寧子を北朝を存続させるために、治天の君として弥仁王を践祚させました。

北朝、5代・御円融天皇(緒仁親王)
在位期間は足利義満の将軍在職の前半で室町幕府隆盛期と重なります。義満と対立し天皇権が衰退していきました。永徳2年、6歳の幹仁親王に譲位しました。

北朝、6代・後小松天皇(幹仁親王)
後小松天皇は後円融天皇の第一皇子、母は三条厳子(たかこ)です。
後小松天皇が幼帝のため義満が天皇を補佐しました。
足利義満から和平の勧説があり両朝の合一が図られ、後亀山天皇から「三種の神器」を後小松天皇が受けて南北朝合一が実現しました。
南北両朝が合一されると後小松天皇は応永19年(1412)躬仁親王に譲位すると両統迭立の条件に反するとして旧南朝勢力の反発を招きました。
北朝は和議の条件をほとんど反故にし、南北朝のしこりが残りました。

明治44年に明治天皇の勅裁により南朝が正統とされました。
後小松天皇の崩御によって「院政」と「治天の君」という制度は終焉しました。
僧一休は後小松天皇の実子と言われています。

99 後小松天皇

1392年(壬申・明徳3年)閏10月5日、三種の神器が後小松天皇の土御門内裏に移されました。南北朝合一となり、後小松天皇は第100代の天皇となりました。

1393年4月26日、後円融院が36歳で崩御しました。これにより、足利義満の権力はさらに強大となり、政務の全体を取り仕切るようになりました。義満は公家を引き連れて伊勢神宮に参拝し、その権威を一層高めました。

1394年2月6日には後亀山院が足利義満と面会し、同月23日に「不登極帝」(即位しなかった天皇)として太上天皇の尊号を贈られました。
足利義満は征夷大将軍の職を義持に譲り、自身は太政大臣に任じられました。
8月1日、長慶院が52歳で崩御しました。

1397年、義満は京の北山に鹿苑寺金閣を造営し、これが「北山文化」の象徴となりました。

1398年1月13日、崇光院が崩御しました。

1401年3月29日には實仁(みひと)親王が誕生しました。
この年、足利義満は明に使節を派遣し、明の皇帝に臣下となる旨を申し出て、王の称号を求めました。

1402年、明の建文帝からの返書が届き、足利義満を「日本国王」に任命することが伝えられました。これにより、明との交易が許され、義満は永楽帝の外交文書に「日本国王臣源」と署名しました。

1404年、足利義満は日明貿易(勘合貿易)を開始し、さらに使節を朝鮮に派遣して「日本国王源道義」名義の国書を太宗に伝えました。

1405年、義満は太上天皇尊号宣下を求めましたが、これは却下されました。

1406年、義満は後小松天皇に、自分の妻である日野康子(ひのやすこ)に対して「朕の准母なり」との詔を出させ、義満は准父となりました。

1408年、義満の息子である足利義嗣(よしつぐ)が宮中で元服し猶子となりましたが、3日後に義満は急死しました(享年51歳)。

1411年、4代将軍となった足利義持は日明貿易を廃止しました。
11月には、躬仁(みひと)が親王宣下を受けました。

1412年8月29日、後小松天皇は躬仁親王に譲位しました。しかし、これは明徳3年の南北朝合一の条件である両統迭立に反しており、その後南朝勢力はたびたび反発し、武装蜂起することとなりました。

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後小松天皇の御世、李氏朝鮮の太宗李成桂は、開京から漢城(現在のソウル)の景福宮に遷りました。建文帝が即位し、李成桂は迎恩門を建てました。このころ、朝鮮王朝の建国理念である「崇儒廃仏」が定立しました。
李成桂は高麗王族の王氏姓の者を殺し、半島から王氏姓(高麗の王族)が殆どいなくなりました。

そのころ、「靖難の役」で燕王の朱棣が建文帝から帝位を奪い、南京で即位して永楽帝となりました。その後、永楽帝は北京に紫禁城の造営を始め、北京に遷都しました。この紫禁城の完成には14年かかりました。

99 称光天皇

1412年8月29日、躬仁親王が即位し、第101代・称光天皇となりました。称光天皇は後小松天皇の第1皇子であり、母は権大納言日野資教の養女、光範門院・藤原資子(すけこ)です。

1419年6月18日には、彦仁王(ひこひとおう)が誕生しました。

1422年、3月下旬に天皇は体調を崩し、12月にようやく病が回復しました。

1423年、足利義量(よしかず)が5代将軍に就任しました。

翌年の4月12日には後亀山院が75歳で崩御しました。

1425年4月には伏見宮貞成(さだふさ)が54歳で親王宣下を受けましたが、3か月後の閏6月3日に出家しました。
1428年7月20日に称光天皇が28歳で崩御されました。

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称光天皇の御世、世宗が朝鮮の4代国王となりました。
また、李氏朝鮮は倭寇対策として対馬を襲撃しました(応永の外寇)。

●室町幕府の意向で代始改元が認められませんでしたが、改元は18年目に実現し、その3か月後に称光天皇が崩御しました。
旧南朝勢力は後亀山法皇の末裔を擁立しようとしましたが、室町幕府は崇光天皇の曾孫である彦人王を皇位継承者に定めました。
正長元年(1428年)には初の土一揆が起き、幕府は徳政令を発布しました。
永享10年(1438年)には関東で足利持氏の謀反が起こり、義教は後花園天皇に綸旨を発給するよう要請しました。
しかし、嘉吉元年(1441年)に赤松氏の謀反により義教が暗殺されました。これを「嘉吉の変」と言います。

100 後花園天皇

1428年7月28日、6代将軍足利義教(よしのり)の仲介もあり、称光天皇の崩御後に伏見宮貞成(さだふさ)の子である彦仁王を後小松天皇の猶子として践祚させました。母は庭田幸子(にわたゆきこ)です。
同年には、最初の土一揆である正長の土一揆が発生しました。

1429年12月27日、親王宣下のないまま、彦仁王が第102代・後花園天皇として即位しました。
この年、琉球では尚巴志(しょうはし)が琉球国を建国し、首里城を王宮としました。『中山世鑑』が沖縄の正史として記されました。

1433年10月20日、後小松院が57歳で崩御し、これにより「治天の君」という制度は終焉を迎えました。

1438年、「永享の乱(えいきょうのらん)」が起こりました。これは関東で鎌倉公方の足利持氏と関東管領の上杉憲実の対立に端を発した事件です。6代将軍足利義教は持氏討伐を命じました。

1441年、「嘉吉の乱(かきつのらん)」が発生し、6代将軍足利義教が播磨、備前、美作の守護である赤松満祐(みつすけ)の謀反によって殺害されました。赤松満祐は播磨で幕府方に敗れ、討たれました。

1442年5月25日には成仁(ふさひと)親王が誕生しました。

1443年9月には後南朝勢力が土御門内裏に夜襲をかけ、天皇は逃れるも剣璽の二つを奪われました。これを「禁闕の変(きんけつのへん)」と言います。
剣は清水寺で発見されましたが、神璽は持ち去られたままでした。

1444年2月、天皇は同母弟の伏見宮貞常親王に親王宣下を行いました。

1447年11月には父の貞成親王に太上天皇の尊号を奉りました。

1455年1月には、天皇は大覚寺統であった後二条天皇の5世孫にあたる木寺宮邦康(きでらのみやくにやす)王に親王宣下を行いました。

1457年12月、嘉吉の乱で没落した赤松氏の遺臣らが後南朝の行宮を襲い、神璽を奪還する「長禄の変」という事件が発生しました。
同年、「コシャマインの戦い」でアイヌ人が和人を襲撃しました。

1458年8月には、神璽が朝廷へ返還され、すべての神器が天皇に帰することとなりました。

1461年4月、天皇は亀山天皇の5世孫で、大覚寺統であった常盤井宮全明(またあきら)王に親王宣下を行いました。

1462年10月には、天皇は皇子の成仁(ふさひと)親王に天皇としての心得を説いた『後花園院御消息』を与えました。

1464年7月19日、後花園天皇は成仁親王に譲位し、左大臣足利義政を院執事としました。

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後花園天皇の御世、朝鮮から日本への使節名が回礼使から通信使に改められました。
また、朝鮮の国境が鴨緑江(おうりょくこう)から豆満江(とまんこう)以南に確定し、朝鮮王朝第4代の王である世宗(せじょん)によって『訓民正音』28文字が作られました。
またこの頃、朝鮮通信使は途絶えました。
1446年10月9日には、『訓民正音』という名前で公布されました。なお日本に遅れること600年で、韓民族は日本の「平仮名」や「片仮名」と同じような表音文字を持つようになりました。

両班(貴族)階級は『訓民正音』をあまり使いませんでした。というのも、儒教を学ぶための書物は漢文で書かれており、科挙の試験も漢文を使って中国の古典を学ぶことが出世への道だったからです。その結果、両班と一般庶民の間では、文字を使ったコミュニケーションが断絶してしまいました。
後に多くの学者たちは、世宗を儒教を尊重する「聖君」として称えていますが、彼は晩年には仏教に傾倒していました。朝鮮王朝は建国当初から、人による恣意的な支配を抑え、儒教に基づく法治を確立するために基本法を作ろうと努力していました。しかし、『訓民正音』は李朝が滅びるまで「諺文(おんもん)」と呼ばれ、女性や子供のための文字として見下されていました。

●後花園天皇の8親等以上離れた皇位継承は53代継体天皇以来658年ぶりとなりました。

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