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あきつしま 4

12 履中天皇

西暦429年、去来穂別尊(いざほわけのみこと)は、2月1日に第17代・履中天皇として即位しました。履中天皇は仁徳天皇の第一皇子で、母は葛城襲津彦の娘である磐之媛(いわのひめ)です。

7月には葛城黒媛を皇后としました。
10月には磐余(いわれ)に遷都しました。
去来穂別尊は蘇我満智(そがのまち)、物部伊莒弗(もののべのいこふつ)、平群木菟(へぐりのつく)、円大使主(つぶらのおおおみ)らを国政に参画させ、政権を安定させるために尽力しました。
その年、穴穂皇子が誕生しました。

3月15日、履中天皇は病により35歳で崩御しました。10月には百舌鳥耳原(もずのみみはら)に葬られました

13 反正天皇

西暦432年1月2日、仁徳天皇の第3皇子である瑞歯別皇子(みずはわけのみこ)が第18代・反正天皇として即位しました。これは、兄弟間の継承が初めて行われた瞬間でした。
8月には、和珥(わに)の津野姫を皇夫人に迎え、和珥の弟媛を妃としました。
そして、10月には河内丹比(たじひ)に遷都しました。

翌年1月23日、反正天皇が皇太子を立てないまま30歳で崩御しました。雄朝津間稚子宿禰皇子(おあさづまわくごのすくねのみこ)が群臣たちによって天皇(大王)として推挙されましたが、病気を理由に再三辞退しました。

14 允恭天皇

西暦434年、雄朝津間稚子宿禰皇子は、妻の忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)の強い要請によって第19代・允恭天皇として即位しました。允恭天皇は仁徳天皇の第4皇子であり、母は磐之媛命です。2月14日、忍坂大中姫を皇后として立てました。

允恭天皇の即位後、新羅から腕の良い医者を招聘して病気を治療しました。氏姓の乱れを憂いた天皇は、諸氏族を甘樫丘(あまかしのおか)に集め、盟神探湯(くがたち)を実施して氏姓を正しく定めました。

7月14日、允恭地震が起こり、これが記録に残る日本最古の歴史地震とされています。
同月、玉田宿禰の叛意が露顕して、これを誅殺しました。

11月に反正天皇は百舌鳥耳原陵に葬られました。

2月、允恭天皇は皇后の妹である弟姫(衣通郎姫)に烏賊津使主(いかつのおみ)を送って、衣通郎姫を説得させ、藤原宮に住まわせましたが、皇后の嫉妬を理由に衣通郎姫は遠方の河内茅渟宮へ移されました。
天皇は茅渟宮への行幸を頻繁に行いましたが、皇后に諌められて行幸の頻度が減りました。

允恭天皇の第一皇子である木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)を立太子しましたが、木梨軽皇子と同母妹の軽大娘皇女(かるのおおいらつめのひめみこ)との近親相姦が発覚しました。天皇の崩御後、二人は伊予国へ流罪となり、後に二人は自害しました。

●衣通姫
衣通姫(そとおりひめ)は、その美しさが衣を通して表れてしまう、という意味を込めて「衣通姫」と呼ばれています。
『古事記』には、允恭天皇の皇女の軽大郎女(かるのおおいらつめ)の別名とし、同母兄である軽太子(かるのひつぎのみこ)と情を通じ近親相姦をしたと伝えられています。
『日本書紀』では、允恭天皇の皇后忍坂大中姫の妹・弟姫(おとひめ)とされ、允恭天皇に寵愛された妃として描かれています。

1月14日、允恭天皇は39歳で崩御し、10月に河内の長野原陵に葬られました。11月、新羅王からは弔使が送られました。

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この時期、倭王讃は宋の武帝に遣使し、倭国王として認められました。
彼の弟である倭王珍も宋の文帝に遣使し、「安東将軍倭国王」の称号を受けました。
この頃、「弁辰」が消え、「任那」が記されるようになりました。―『宋書』
この頃に『後漢書』が執筆されました。
さらに、倭王済も宋の文帝に遣使し、「使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事 安東将軍倭国王」の称号を受けました。
この時、「任那、加羅」が併記されました。―『宋書』

15 安康天皇

西暦454年12月14日、兄の木梨軽皇子が近親相姦で失脚したため弟の穴穂皇子が第20代・安康天皇として即位し、石上穴穂宮に遷都しました。

2月、安康天皇は根使主(ねのおみ)の讒言を信じ、仁徳天皇の皇子である大草香皇子(おおくさかのみこ)を誅殺しました。
翌年の2月、大草香皇子の妃であった中蒂姫(なかしひめ)を皇后に立てました。

●安康天皇は大泊瀬皇子(おおはつせのみこ)の妃探しがうまくいかないのを見て、草香幡梭姫皇女(くさかのはたびひめ)を見合わせようと考えました。そこで根使主を皇女の兄の大草香皇子へ遣わし、その意を伝えさせました。
大草香皇子は心から喜び感謝して4回も頭を下げ、言葉だけを返すのは無礼だと考え根使主に宝石と金で飾った冠を持たせました。しかし根使主は宝の美しさに目がくらんで、それを着服し「大草香皇子は縁談を断ったうえ、刀を抜き怒った」という讒言をしました。
これを信じ激怒した安康天皇は大草香皇子を誅殺してしまったのです。

8月9日、それを知った皇后の連れ子である7歳の眉輪王(まよわのおおきみ)は父の仇を討つため安康天皇に近づき、28歳の安康天皇を殺害しました。
その後、大泊瀬皇子が眉輪王を討ちました。

16 雄略天皇

西暦457年11月13日、大泊瀬幼武皇子(おおはつせのわかたける)は第21代・雄略天皇として即位しました。

3月、大泊瀬幼武皇子は草香幡梭姫皇女(くさかのはたびひめ)を皇后に立てました。
その後、7月には百済から池津媛(いけつひめ)が献上されましたが、彼女が入内前に石川楯(いしかわのたて)という者と姦通したため、処刑されてしまいました。

安康天皇は菅原伏見陵に葬られました。

翌年の4月、伊勢の神宮の斎宮に任じられた栲幡姫皇女(たくはたひめ)は流言により自殺してしまいました。
同じ月、百済の蓋鹵王(がいろおう)は池津媛の代わりに王弟の昆支(こんき)を派遣しました。
また、呉(華南)が使者を派遣してきました。

8月、雄略天皇は吉備氏に対して反乱鎮圧の名目で軍を送り(吉備氏の乱)、吉備氏を弱体化させました。
次の年の2月、身狭村主青(むさのすぐりのあお)と檜隈民使博徳(ひのくまのたみのつかいはかとこ)を呉に派遣しました。

同月、凡河内直香賜(おおしこうちのあたいかたぶ)と采女を宗像大社に送る一方で、3月には紀小弓(きのおゆみ)、蘇我韓子(そがのからこ)、大伴談(おおとものかたり)、小鹿火宿禰(おかひのすくね)に新羅征討を命じましたが、これらの軍は敗走しました。

9月、身狭村主青と檜隈民使博徳が帰国し、その間に勾大兄皇子(まがりのおおえ)が生まれました。

7月、百済から呉国人を名乗る貴信(くゐしん)という者が亡命し、檜隈高田皇子(ひのくまのたかた)が誕生しました。
翌年の4月、再び身狭村主青と檜隈民使博徳を呉に派遣しました。

8月、雄略天皇は播磨の文石小麻呂(あやしのおまろ)を征伐し、翌年の1月には身狭村主青と檜隈民使博徳が帰国して使者と工女(いめ)を連れ帰りました。
同年の4月、根使主の讒言が発覚し、根使主とその子孫は誅殺されました。

雄略天皇は全国に分散していた秦氏を秦酒公(はたのさけのきみ)に統率させ、7月には秦酒公に養蚕・紡績技術の普及を命じました。

8月、物部目が伊勢の朝日郎(あさけのいらつこ)を討伐しました。3月には穴穂部を興しました。

3月、高句麗が百済を滅ぼしたが、雄略天皇は任那の久麻那利(くまなり:百済の都)を汶洲王(もんすおう)に与え百済を復興させました。
翌年の1月、白髪皇子(しらかのみこ)を立太子し、雄略天皇は伊勢の神宮外宮を建立したと伝えられています。

雄略天皇は百済の三斤王が亡くなると、人質として倭国にいた東城王に500人の兵を与え帰国させて即位させました。

8月7日、雄略天皇は62歳で崩御しました。
雄略天皇の崩御後、吉備氏の母を持つ星川皇子が権勢を縦(ほしいまま)にしましたが、大伴室屋と東漢直掬(やまとのあやのあたいつか)らに殺されました。―「星川皇子の乱」

●「宋書」倭国伝―――倭王武が宋へ送った手紙
 我が国は、宋の国から遠く離れたところにあります。昔から私の先祖は、自ら甲冑を身に付け、山河を踏破して、一か所に留まって休む暇もありませんでした。東は毛人の国五五ヵ国を征し、西は衆夷の国六六ヵ国を服従させ、海を北に渡って九五ヵ国を平らげました。

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雄略天皇は平群真鳥を大臣に、大伴室屋と物部目を大連に任じ大和の有力豪族を足下に置く専制体制を確立させました。
大王家の外戚として権勢を振るってきた葛城氏を没落させたほか、最大の地域勢力だった吉備氏にも軍を送りこれを屈服させました。

倭王武(興の弟)は宋の順帝に使者を送り、「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」として認められました。ー『宋書』
その後、宋(南朝)が滅亡し、倭は中国の王朝に朝貢しなくなり、官位や爵位を求めることもなくなりました。

17 清寧天皇

西暦481年1月15日、白髪皇子が第22代・清寧天皇として即位しました。清寧天皇は雄略天皇の第三皇子であり、母は葛城韓媛です。白髪皇子は后妃を持たず、その都は磐余甕栗宮(いわれのみかくりのみや)にありました。
同じ年の10月、雄略天皇は丹比高鷲原陵(たじひのたかわしのはらのみささぎ)に葬られました。

清寧天皇には後継ぎとなる皇子がいなかったため、市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)の子である億計王(おけおう)と弘計王(をけおう)の兄弟が播磨にいるとの情報を得ました。清寧天皇は2人を宮中に迎え入れ、億計王を東宮とし、弘計王を皇子としました。
『古事記』では2王の発見は天皇崩御後の出来事として記されています。

1月16日、清寧天皇は41歳で崩御しました。
天皇は河内坂門原陵(こうちのさかどのはらのみささぎ)に葬られました。

飯豊青皇女
顕宗天皇が即位するまでの間、飯豊青皇女(いいとよあおのひめみこ:市辺押磐皇子の娘)が執政を担当しました。

安康天皇が眉輪王に殺害された後に父の市辺押磐皇子が大泊瀬皇子に殺されると、弟の弘計王と共に逃亡して身を隠しました。
丹波国に逃げ、後には播磨国の志染の石室(しじみのいわむろ)に隠れ、名を変えて丹波小子(たにわのわらわ)と称しました。縮見屯倉首(しじみのみやけのおびと)に雇われて牛馬の飼育をしていましたが、清寧天皇の御世に、宴の席で王族の身分を明かしました。清寧天皇は、子がなかったため喜んで迎えを遣わしました。天皇崩御後、皇位を弟王と譲り合いました。

17 顕宗天皇

西暦486年1月1日、弘計王が第23代・顕宗天皇として即位しました。顕宗天皇は市辺押磐皇子(履中天皇の長子)の第三子であり、母は葛城蟻臣(かつらぎのありのおみ)の娘である荑媛(はえひめ)です。
顕宗天皇には同母姉の飯豊青皇女がいます。

興味深いことに、弟である弘計王が即位した際、兄である億計王が皇太子となるという事態が発生しました。このような兄が皇太子となる例は、この時以降も見られません。

その後、顕宗天皇は38歳で崩御しました。

17 仁賢天皇

西暦489年、億計王は第24代・仁賢天皇として即位しました。仁賢天皇は履中天皇の孫であり、市辺押磐皇子の子です。母は荑媛で、顕宗天皇の同母兄にあたります。
仁賢天皇の皇后は、雄略天皇の皇女である春日大娘皇女(かすがのおおいらつめのひめみこ)です。
翌年、小泊瀬稚鷦鷯尊(おはつせのわかさざきのみこと)が生まれました。

仁賢天皇は9月に高麗(こま)へ日鷹吉士(ひたかのきし)を派遣し、皮の工匠などの手工業者を招きました。
翌年の1月には、皇子の小泊瀬稚鷦鷯尊を皇太子に定めました。

その後、8月8日に仁賢天皇は50歳で崩御しました。

17 武烈天皇

西暦499年12月には、小泊瀬稚鷦鷯尊が第25代・武烈天皇として即位しました。父は仁賢天皇、母は春日大娘皇女であり、両親は共に三従兄弟姉妹の関係にありました。新しい都は泊瀬列城宮(はつせのなみきのみや)に定められました。

武烈天皇は、春日娘子(かすがのいらつめ)を皇后としましたが、子女はありませんでした。
即位後の11月には、武烈天皇が国務担当の大臣(おおおみ)である平群真鳥を討伐し、12月には大伴金村を軍事担当の大連(おおむらじ)として任命しました。

武烈天皇の治世は恐怖と残虐な行為に満ちていました。
9月には妊婦の腹を裂いて胎児を取り出し、10月には人の爪を抜いて芋を掘らせました。

4月には人の髪を抜いて木に登らせ、木の根元を切り倒して登らせた者を落として殺し、それを面白がりました。
6月には、人を池の樋(とい)に入らせて流れ出たところを三つ刃の矛で刺し殺し、喜びました。

10月には百済国が麻那君(まなきし)を遣わして貢物をしましたが、武烈天皇は百済が長い間貢物をしていなかったことを責め、麻那君を抑留(拘束)しました。

2月には、人を木に登らせて弓で射落として笑いました。
3月には女を裸にして平板の上に座らせ、馬の交尾を見せました。そして、女たちの陰(ほと)を調べ、潤っている者は殺し、潤っていない者は奴隷にしました。

このような暴虐な行為を繰り返した武烈天皇は、12月8日に崩御しました。

●武烈天皇は「日本書紀」では暴虐非道の天皇として描かれています。戦前は教育対象から外されたこともありました。
即位前は平群真鳥が国政を執っていましたが即位後は平群氏を滅ぼし、大伴金村を大連に任じました。

●5世紀から6世紀にかけて春には豊作を祈願する祈年祭(きねんさい)、秋には収穫を神々に感謝する神嘗祭(かんなめさい)が行われるようになりました。


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