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あきつしま 5

18 継体天皇

西暦507年2月4日、越前(福井県)の三国(みくに)から迎えられた男大迹王(をほどのおおきみ)が河内国にある樟葉宮(くすはのみや)で、大伴金村と物部麁鹿火の推戴を受けて第26代・継体天皇として即位しました。

継体天皇は、応神天皇の五世孫であり、垂仁天皇の女系の八世孫です。父は彦主人王(ひこうしのおおきみ)、母は振媛(ふるひめ)です。
近江国で生まれ、越国で育ちました。
越国、近江国、美濃国、尾張国、若狭国の長であった継体天皇は武烈天皇の姉にあたる手白香皇女(たしらかのひめみこ)を皇后に迎え、天国排開広庭命(あめくにおしはらきひろにわのみこと)が生まれました。

継体天皇はその後、山背国の筒城宮(つつきのみや)に遷り、さらに山背国の弟国宮(おとくにのみや)へと遷りました。
即位して19年後、大和国の磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや)に遷りました。

この時代、百済は高句麗によって国土の北半分を奪われ、苦境に立たされていました。百済は任那の四県(全羅南道のほぼ全域)の割譲を要求し、大伴金村の意見により、五経博士の受け入れを条件にこれを承諾することとなりました。

やがて、新羅と通じた筑紫の国造(くにのみやつこ:地方の豪族)の磐井が反乱を起こしました。
この「磐井の乱」は大伴金村と物部麁鹿火によって6万人の兵が動員され鎮圧されました。
この頃、新羅が伽耶諸国を併合しました。

この時期、欽明朝と異母兄の安閑・宣化朝は対立していたと考えられています。

継体天皇はその後、2月7日、41歳で崩御しました。

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西暦513年、百済の武寧王は日本に五経の博士の段楊爾(だんように)を派遣しました。五経とは『易経』『詩経』『書経』『礼記』『春秋』の五つの儒教の書物を指します。

西暦523年5月、武寧王は薨去し、百済は重要な指導者を失いました。
西暦528年、新羅では仏教が公認され、宗教的な変革が進んでいました。

西暦531年の辛亥年には日本で大きな変動がありました。『百済本記』によれば、継体天皇とその太子・皇子が共に崩薨し、いわゆる「辛亥の変」が発生しました。

この混乱の後の西暦532年、『上宮聖徳法王帝説』に欽明天皇が即位したことが記されています。

19 安閑天皇

西暦535年、勾大兄皇子(まがりのおおえのみこ)が第27代・安閑天皇として即位しました。父は継体天皇で母は尾張目子媛(おわりのめのこひめ)です。

安閑天皇は27歳で崩御しました。

20 宣化天皇

西暦538年1月、檜隈高田皇子(ひのくまのたかたのみこ)が第28代・宣化天皇として即位しました。宣化天皇は継体天皇の第二子で母は尾張目子媛です。曽我稲目を大臣にしました。

この年、百済の聖明王の使者が金銅の釈迦如来像や経典、仏具などを献上しました。これを『仏教公伝』と言い、『上宮聖徳法王帝説』『元興寺縁起』などは538(戊午)年とし,『日本書紀』は552(壬申)年としていますが,538年説が有力です。

同年、百済が都を泗沘(扶余)に移しました。

宣化天皇は那津宮家を筑紫の那津(なのつ:博多付近)に置き、これがのちの太宰府となりました。

宣化天皇は37歳で崩御しました。

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