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あきつしま 8

33 壬申の乱

天智称制7年、大海人皇子は東宮に立たれました。
天智4年10月17日、天皇は病に伏され、東宮を召されました。天皇は東宮に皇位を授けようとされましたが、東宮はこれを辞退し、その日のうちに出家されました。
10月19日、東宮は吉野宮に入られることになり、左大臣の蘇我赤兄、右大臣の中臣金、および大納言の蘇我果安らが菟道(うじ)まで見送りました。
夕方、東宮は嶋宮(しまのみや)に到着されました。
10月20日、東宮は吉野に到着されました。
12月、天智天皇は崩御されました。

天武元年3月18日、朝廷は天智天皇の崩御を郭務悰に告げました。
5月28日、高句麗が調を献上しました。
5月30日、郭務悰は唐への帰途につきました。
5月のこと、朴井雄君(えのいのおきみ)は大海人皇子に、朝廷が美濃と尾張の国司に山稜を造るための人夫を定めるよう命じたと告げました。しかし、その人夫には武器を持たせていました。
また、大津京から飛鳥京に至る道に監視人を配置し、菟道橋の橋守に命じて、皇大弟の舎人が食料を運ばないようにしているとの報告もありました。

6月22日、大海人皇子は村国男依(むらくにのおより)、和珥部君手(わにべのきみて)、身毛君広(むげつのきみひろ)に対し、急いで美濃に行き、安八磨郡(あはちまのこおり)の多品治(おおのほんじ)に機密を打ち明け、兵士を徴発し、国司に軍務を発して不破の道を塞ぐよう命じました。
6月24日、大海人皇子は大分君恵尺(おほきだのきみえさか)に近江に行き、高市皇子(たけちのみこ)と大津皇子(おおつのみこ)を呼び出し、伊勢で落ち合うよう命じました。

同日、大海人皇子は徒歩で吉野を出発されました。ほどなくして、県犬養大伴(あがたのいぬかいのおおとも)の馬に乗られました。津振川(つふりがわ・現在の津風呂川)に着くころ、菟野皇女(うののひめみこ)の乗馬が追いつきました。

6月25日の夜明けに莿萩野(たらの)に到着し、食事をとられました。積殖(つむえ)の山口に着くころには、高市皇子が大海人皇子の一行に合流しました。

6月26日の朝、朝明郡の迹太川(とおかわ)のほとりで天照大神を御遥拝なさいました。このとき、大津皇子が大海人皇子のもとに到着しました。
朝明郡家(こおりのみやけ)に着こうとするとき、男依より美濃の軍勢三千人が不破の道を塞ぐことができたと報告がありました。この日、大海人皇子は桑名郡家に到着し、そこに留まられました。

このころ、大伴馬来田(おおとものまくた)とその弟の吹負(ふけい)は近江の朝廷を退出しており、飛鳥の家に引きこもっていました。

6月27日、大海人皇子は菟野皇女を桑名郡家にお留めになったまま、不破にお入りになりました。このとき、尾張国司の小子部鉏鉤(ちいさこべのさいち)が二万の軍をひきつれて大海人皇子に帰順しました。

野上に着くと、高市皇子が和暫(わざみ)から出迎えました。大海人皇子は高市皇子に軍事の一切を任せました。大海人皇子は行宮(あんぐう:かりみや)を野上に建てられました。6月28日、大海人皇子は和暫に行って、野上に帰られました。
6月29日も、同じく和暫に行って、野上に帰られました。

この日(29日)、大伴吹負は飛鳥で蜂起しました。これを受け、大海人皇子は吹負を将軍に任命しました。

7月1日、吹負は飛鳥から乃楽(なら)へと出発しました。稗田にいたとき、河内の方から軍勢がやってまいりますと知らせる者がありました。

7月2日、大津と丹比道(たじひみち)の二つの道から、近江の将である壱伎史韓国(いきのふびとのからくに)の軍隊が行軍してきました。坂本財(さかもとのたから)は衛我河(えがのかわ:現在の石川)を渡り、韓国と川の西で戦いましたが、軍兵が少なく防ぎきれませんでした。

一方、大海人皇子は紀阿閉麻呂(きのあへまろ)、多品治(おおのほんじ)、三輪子首(みわのこびと)、置始菟(おきそめのうさぎ)に数万の兵を率い、伊勢の加太越(かぶとごえ)を越えて倭に向かわせました。また村国男依(むらくにのおより)らに赤い布を衣服の上につけさせ、数万の兵を率いて不破から出撃し、近江に進入させました。

のちに、多品治に命じて、三千の兵を率いて莿萩野(たらの)に駐屯させました。また田中足麻呂(たなかのたるまろ)に倉歴(くらふ)の道を守らせました。

近江方は山部王(やまべおう)に数万の兵を率いて不破を襲おうとし、犬上川のほとりに集結させました。しかし、山部王が殺されて軍を進めることができませんでした。このとき、近江方の将軍羽田八国(はたのやくに)とその子大人(うし)が一族を引き連れて投降しました。そこで将軍に任じて、越(こし)に入らせました。

これよりさき、近江方は玉倉部邑(たまくらべのむら)を急襲しましたが、出雲狛(いずものこま)に襲撃されました。

7月3日、吹負(ふけい)は乃楽山に駐屯していましたが、荒田尾赤麻呂(あらたおのあかまろ)の進言により、飛鳥を守備させました。赤麻呂は飛鳥に入り、橋の板を壊し、楯を作って街角に立てて守りました。

7月4日、吹負は近江の大野果安(おおののはたやす)と乃楽山で戦いましたが、敗れて遁走しました。果安は追撃を行い、八口(場所不明)から京を見ると街角ごとに楯が立ててあったので、伏兵があると疑って軍を引き返しました。

近江軍はすべての道から来襲しました。吹負の軍は防戦できず、みな退却しました。
金綱井(かなづなのい)にとどまり、散り散りになった兵士を召集しました。近江軍が大坂道からやってくるとの知らせがあり、当麻(たぎま)の村で韓国と葦池のほとりで戦いました。
ここで近江軍は敗れ、韓国は一人で逃げ出しました。吹負が本営に帰ると、伊勢から本隊が続々と到着しました。

7月5日、近江の別将である田辺小隅(たなべのおすみ)は真夜中に倉歴に侵入しました。
7月6日、小隅は莿萩野を襲いましたが、将軍の多品治(おおのほんじ)がこれを防ぎ止め、小隅は一人で逃走しました。
7月7日、村国男依(むらくにのおより)は近江軍を息長(おきなが)の横河で戦い、境部薬(さかいべのくすり)を斬りました。
7月9日、村国男依は近江の秦友足(はたのともたり)を鳥籠山(とこのやま)で討ち、これを斬りました。
7月13日、男依は安川(野須川)のほとりで戦い、近江方を大破しました。
7月17日、男依は栗太(くるもと:滋賀県栗東市辺り)の軍を討ち、追撃しました。

7月22日、男依は瀬田に到着しました。このとき、大友皇子と群臣たちは橋の西に大きく陣を構えていました。大分君稚臣(おおきだのきみわかおみ)は矛(ほこ)を捨て、甲(よろい)を重ねてつけ、刀を抜いていっきに橋を渡りました。
これを機に近江軍は乱れ、逃げ散り、抑えようがありませんでした。大友皇子と左右大臣は逃走しました。男依はそこで粟津岡(あわづのおか:大津市膳所)のふもとに軍を集結させました。
同日、羽田矢国(はたのやくに)と出雲狛(いずものこま)は連合して三尾城(みおのき)を攻め落としました。

そのころ、将軍の吹負(ふけい)は飛鳥の地(倭)を完全に平定し、大坂を越えて難波に向かいました。他の別将たちは三つの道(上つ道、中つ道、下つ道)をそれぞれ進んで山前に着き、淀川の南に終結しました。

7月23日、大友皇子は山前に隠れ、自ら首をくくって死にました。
左右大臣や群臣はみな散り散りになり、わずかに物部連麻呂(もののべのむらじまろ:のちの石上麻呂)と一、二人の舎人だけが皇子に従っていました。

7月24日、将軍たちは筱浪(ささなみ:大津京一帯)に集まり、左右大臣や罪人どもを捜索・逮捕しました。

7月26日、将軍たちは不破宮に向かい、大友皇子の頭を捧げ、大海人皇子の軍営の前にたてまつりました。

8月25日、高市皇子に命じて、近江の群臣の罪状を人々に告げ知らせました。右大臣・中臣連金(なかとみのむらじかね)は浅井の田根(滋賀県長浜市)で斬られました。同日、左大臣・蘇我臣赤足(そがのおみあかたり)、大納言・巨勢臣比等(こせのおみひと)およびその子孫、それに中臣連金の子、蘇我果安の子をことごとく流罪に処しました。
このとき不思議なことに、尾張国司・小子部連鉏鉤(ちいさこべのむらじすきかま)は山に隠れて、自ら命を断ちました。

8月27日、武勲を立てた人々に勅命を下し、その功績を称賛して恩賞を賜りました。

9月8日、大海人皇子は帰路につかれ、伊勢の桑名にお泊りになりました。
9日には鈴鹿にお泊りになり、11日には名張にお泊りになりました。
12日には倭京(やまとのみやこ:飛鳥)にお着きになり、嶋宮(しまのみや)にお入りになりました。
15日、嶋宮から岡本宮にお移りになりました。

この年(元年)、宮殿を岡本宮の南にお造りになり、冬にそこにお移りになりました。これを飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)と言います。

天武2年2月27日、大海人皇子は即位の儀式をおこないました。また、正妃(むかいめ)を皇后にお立てになりました。

34 天武天皇

673年2月27日、大海人皇子は飛鳥浄御原宮で第40代・天武天皇として即位しました。舒明天皇と皇極天皇の子として生まれた天武天皇は、鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)を皇后に立て、『日本書紀』と『古事記』の編纂を命じることで、日本の歴史を後世に伝える決意を示しました。
5月1日には、初めて宮廷に仕える者を大舎人とし、新たな宮廷制度を整備しました。

675年1月25日、畿内・陸奥・長門以外の国司には大山位以下を任命し、才能のある者を宮に出仕させることを定めました。
1月5日、日本初の占星台を建て、3月16日には諸王に四位、五位などの位を授けました。
4月17日には最初の「肉食禁止令」を発布し、倫理の向上を図りました。天皇はまた、纏向遺跡のあたりに「藤原京」の計画を始め、都市整備に着手しました。

678年10月26日、毎年官人の勤務評定を行い位階を進めることを定めました。
翌年5月5日、天武天皇と皇后は吉野宮に赴き、天武の子4人と天智の子2人とともに「吉野の盟約」を結び、皇位継承争いを防ぐための誓いを立てました。

680年11月12日、皇后の病気に際し薬師寺の建立を命じ、仏教の力を借りて快癒を願いました。この年に氷高皇女が生まれ、天皇の家庭に新たな喜びが訪れました。
翌年2月25日、律令の制定を命じ、3月17日には「帝紀及上古諸事」編纂の詔勅を出しました。そして稗田阿礼(ひえだのあれい)に帝皇日継と先代旧辞を詠み習わせ、日本の歴史を記録することに力を入れました。

682年8月22日、天武天皇は考選(勤務評定)において族姓(家柄)を第一の基準とするよう命じ、角髪(みずら)を改め、匍匐礼(ほふくれい)を廃して立礼にすることを指示しました。
翌年2月1日には大津皇子に朝政を任せ、7月18日には藤原京の造営中の状況を視察しました。12月17日には難波京を置き、複都制を採用しました。
この年、珂瑠(かる)皇子が生まれました。
このころに「富本銭(ふほんせん):奈良県・飛鳥池遺跡(あすかいけいせき)出土」がつくられたとされます

684年3月9日、宮室の地を定め、10月1日には八色の姓を定めました。皇族の裔(えい:子孫)を真人とし、旧来の臣の氏族を朝臣、連を宿禰とするなど、新たな貴族階級を整備しました。【八色の姓⇒真人(まひと)、朝臣(あそん)、宿禰(すくね)、忌寸(いみき)、道師(みちのし)、臣(おみ)、連(むらじ)、稲置(いなぎ)】

685年1月21日には新しい冠位48階を定め、親王にも位を授け、爵位を60階としました。

686年5月24日、天武天皇は病に倒れ、政務を皇后と皇太子に委ねました。
7月20日、飛鳥浄御原宮と名付け、元号を朱鳥としましたが、9月9日に65歳で崩御しました。

【天武天皇は、鎌倉時代に書かれた「一代要記」と南北朝時代に書かれた「本朝皇胤紹運録」に686年に65歳で崩御と書かれています。伊勢神宮を五十鈴川沿いの現在地に建てたのは天武天皇で、式年遷宮開始も天武天皇の発意であろうとされています。新嘗祭を国家的祭祀に高め、大嘗祭を設けたのも、天武天皇であろうと言われています。】

この年10月2日、大津皇子が謀反を起こしました。

35 持統天皇

688年(称制2年)11月21日、天武天皇は大内陵(おおうちのみささぎ)に葬られました。
689年(称制3年)4月13日に天武天皇の後継者である草壁皇子は、病により27歳で薨去してしまいます。
6月29日に日本の新たな時代を象徴する飛鳥浄御原令が施行され、日本の国号が正式に使われるようになりました。
草壁皇子の死後、その子である珂瑠皇子に皇位を継がせたいという願いがありましたが、珂瑠皇子はまだ7歳でした。このため、讚良皇女が皇位を継ぐことになりました。

690年の1月1日、鸕野讚良皇女が第41代・持統天皇として即位しました。持統天皇の父は天智天皇、母は遠智娘という蘇我氏の血を引く女性です。
即位後、持統天皇は高市皇子を太政大臣に、多治比島を右大臣に任命しました。また、大伴部博麻(おおともべのはかま)に勅語を送りました。この年に第一回式年遷宮を行いました。

691年に持統天皇は、柿本人麻呂に天皇を賛仰する歌を作らせました。
その歌は、
大君は 神にしませば 天雲の いかづちの上に いおりせるかも
という美しい歌でした。
692年、伊勢行幸の際には農事の妨げになるという中納言・三輪高市麻呂(みわのたけちまろ)の諫言を押し切り、自らの意志を貫きました。

694年に持統天皇は藤原京(新益京:あらましのみやこ)に遷都しました。

696年7月10日、高市皇子が薨去しました。

翌年の2月16日には、草壁皇子の子である珂瑠皇子が立太子しました。珂瑠皇子の母は阿閇皇女であり、持統天皇の孫にあたります。
そして8月1日、持統天皇は15歳の珂瑠皇子に譲位しました。

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持統天皇の御世、となりの新羅では九州五京制を制定しました。
また、武則天が周朝を建て、女性皇帝となりました。(690年10月16日 - 705年2月22日)

●持統天皇の政務関与は『日本書紀』には天武天皇を補佐して天下を定め、様々について助言したとあり、
『続日本紀』には文武天皇と並んで座って政務をとったとあるので、在位期間に限られていません。

36 文武天皇

697年8月17日、若き珂瑠皇子が第42代・文武天皇として即位しました。同日、阿閇皇女が皇太妃に立てられ、皇室の新しい時代が始まりました。

翌年8月3日、大宝律令が完成し、翌年に公布されることになりました。
これにより、冠位制が改められ、新たに官位制が設けられました。
この年に首皇子が誕生しました。また、遣唐使が決まると、粟田真人(あわたのまひと)に初めて節刀が与えられました。

702年6月、第7回遣唐使として、遣唐執節使・粟田真人と山上憶良(やまのうえのおくら)らが派遣されました。
12月22日には持統上皇が58歳で崩御しました。
翌年、持統上皇は1年間の殯の後、大化の薄葬令により火葬され、天武天皇陵に合葬されました。これは天皇の火葬としては初めての出来事でした。

この年、粟田真人らは長安で則天武后に謁見し、日本の国号を「倭」から「日本」に変更することを認めさせました。これにより、白村江の戦い以来途絶えていた国交が回復されました。

704年7月、真人らの使節団は白村江の戦いで捕虜となっていた人々と共に大宰府に到着しました。10月9日、天皇に帰朝報告を行いました。
翌年、粟田真人は中納言に任命されました。

707年6月15日、文武天皇が25歳の若さで崩御しました。この時、首皇子はまだ7歳でした。

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文武天皇の御世、となりの中国の遼東地方では大祚栄(だいそえい)が自立して、高句麗を復興させるとして震国(渤海)を建て、高王と称して即位しました。また、705年には則天武后の周王朝が滅び、中国の情勢は大きく揺れ動きました。

●持統天皇の遺骨は夫の棺に寄り添うように銀の骨つぼに収められていました。しかし、1235年(文暦2年)に盗掘に遭った際に骨つぼだけ奪い去られて遺骨は近くに捨てられていました。

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