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苛々(いらいら)想起

「智(ち)に働けば角(かど)が立つ。情に棹(さお)させば流される。意地(いじ)を通せば窮屈だ」――。
 夏目漱石の名作『草枕』の書き出しであるが、なかに「刺(トゲ)に手を触れて見ると、いらいらと指をさす」という記述を見つけた。トゲが刺さって不快な様子を「いらいら」と表現したのだ。確かに、痛みが取れないときはイライラする。
 痛みの強さを評価するスケールとして、ビジュアル・アナログ・スケール(VAS)や、ヌーメリック・レイティング・スケール(NRS)、フェイス・スケールなどがある。
 できるなら問われたくない。が、これまでの人生75年間で一度だけ、ナースから「NRSでどれくらいですか?」と聞かれたことがある。
「10!」と答えた時の話をしよう。
 
 2012年2月29日、着替えをたくさん詰め込んだバッグを持ち、午前9時55分発の盛岡行き高速バスに乗り込んだ。
 盛岡駅で大船渡行きの急行バスに乗り換え、住田町の仮設住宅がある地域診療センターに着いたのは午後3時30分だった。
「岩手県立高田病院」と大きなステッカーを貼った迎えの車で陸前高田市を目指す。15分も走ると右側を流れる気仙川沿いに津波の被害が目に付き始める。が、竹駒地区に入ると、道の両側に仮設のスーパーや飲食店などが並び、戦後の闇市を連想させる妙な活気を感じた。
 しかし、その先の丘を越えた陸前高田市街地は、はるか先の海まで見通せる姿に変わり果てていた。
 市街地におりると、がれきは撤去され一面の更地に廃墟ビルがいくつか残っている状況だ。そのなかの四階建てビルの屋上建屋に「岩手県立高田病院」という文字が見えたので、思わずその方向に手を合わせてしまう。
 両側に土台だけが並ぶ海岸沿いの泥道をすすみ、弘前の自宅から6時間かけて、岩手県立高田病院の仮設診療所に到着した。
 
 その日の夜から2週間ばかりは、岩手県立住田地域診療センターの敷地内に岩手県医療局が建てた仮設住宅で寝泊まりした。バンガロー風の可愛い木造住宅だが、天井がなく暖房はエアコンのみという非寒冷地仕様である。あまりの寒さに、木の床に薄縁をおいて布団を敷き、その上に電気コタツを置いて亀の子状態で夜を過ごした。
 さらに毎晩、暗い凍結した山道を寝るだけに戻るのも大変で、よほど病院に泊まろうかと迷ったものである。
 しかし幸いにも3月14日には、広田半島の小友町財当地区へ引っ越しできた。2月から高田病院の入院棟が稼働したこともあって、緊急時における陸前高田市民の安全を考えての配慮だと聞いている。また引っ越しの際、「同じ仮設に病院の先生がいてくれて安心だ!」と喜ばれた。
 
 2012年12月7日の深夜、右側腰痛で目が覚める。手持ちのロキソニンを飲むも、全く効かず眠られない。が、不思議なことに、明るくなると痛みは消えた。日中は何事もなく仕事ができるのに、その夜も激痛で目が覚めた。我慢がならず高田病院へ出かけペンタジンを筋注してもらったが、2時間後には痛みのため目が覚めた。トラムセットも試したが眠られない。
 12月19日、体調は「絶不調!」となり、寝不足もあってイライラがつのる。職場の仲間にも迷惑をかけると判断し、戦線を一時離脱して弘前へ戻った。弘前大学病院の整形外科を受診したが、画像診断でも異常は見つからず、トラムセットの内服を続けるよう指示された。
 翌20日の朝、自宅のベッドで目覚めた。
 痛みはない!
 3週間ぶりに、ぐっすりと眠れた。
 その後も痛みはなく、トラムセットの内服も終了。
 2013年1月4日、妻を伴って陸前高田市へ戻り、仮設住宅での生活を再開したが、それから心因性疼痛に悩まされることはなかった。
 
 
 
 
 
 

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