嫌われる勇気 / 岸見一郎 古賀史健

この本を読んだのは確か3年以上前。当時は紙の本を読んでいたが、紙の本はすべて処分した。それでも改めて読みたくなる本だったのでkindleで購入。

アドラーはフロイト、ユングと並ぶ3大心理学者だが、日本での知名度はとても低いとのこと。原因論を否定し、目的論を唱えている。新しい考え方を知ったというよりも、今まで自分がなんとなく感じていたもの・考えていたことが具体的に言語化されているような感覚がありとても面白かった。

・トラウマの否定
ここで言うトラウマとは原因論とほぼ同義。作中での例だと、親からの虐待を受けたことにより不良になることや家庭内暴力をふるうようになることが挙げられている。「親からの虐待を受けたことにより自分の精神が狂い、問題行動を起こすのだ」というのが原因論的な考え方。一般的にこのような考え方をする人が多いが、アドラー心理学の目的論ではこれを否定する。「問題行動を起こすことによって、自分を虐待した親を困らせてやりたいという目的がある。それを達成するために問題行動を起こすんだ。」というのが目的論。つまり、ある特定の原因によって自分の行動・心理が起こっているのではなく、ある特定の目的によってそれらは起きているのだというのが目的論の考え方。
自分なりの解釈としてはここで原因論と目的論のどちらが正しいかは重要ではない。なぜならば実証が難しいからだ。そうではなく、目的論的な考え方をした方が自分にメリットが大きいのでそうしたほうがいい、という風に感じた。例えば、虐待の例で言うと、「自分が虐待をされたからこうなっているんだ」と感じている以上、その人が変わることは難しい。なぜならば虐待をされたという事実を変えることはできないからだ。それと反対に、目的論で考えて、自分の目的さえ変えることができれば行動や心理を変えることができる。事実は変えることができなくとも、その解釈や自分の反応の仕方は大いに変えることができる。原因論が過去志向なのに対して、目的論は現在/未来志向ということができると思う。
元日本代表監督の岡田武史監督の座右の銘は「万事塞翁が馬」だと言っていたが、目的論に通ずるところがあるんじゃないかと思う。
また、よく採用について語る人が過去の自己分析をしろというが、それは誤った方向に思考を持っていきかねないような気がしている。自己分析をすること自体は結構だが、過去の出来事で未来の自分が規定されるという風に思うのは大きな間違いだ。その論理で言うと、過去同じ出来事が起こった人間は例外なく同じ方向に進むということになる。過去の出来事を自分なりの価値観でどうとらえているのか、というところまで考えて言語化できるようにならないと自己分析なんてものは何の価値も持たないように思う。

・なぜ人は変わらないのか
ではなぜ原因論でモノを語る人が非常に多いかという点について。それは「可能性の中に生きることができる」からという風に作中で述べられている。これは本当にその通りだと思う。先ほどの例でいうと、「虐待をされていなければもっと素晴らしい人間になれていた」という風に考えているということ。つまり、自分にはどうにもならないことを決定的な要因としてみなすことで、もし○○だったら○○だった、という風に可能性の中に生きることができる。
これは自分に照らしてもみて、同じようなような考え方をする時期も多かった気がする。「もしもっと強豪校でサッカーをやっていれば、学生のときに留学をしていれば、、、」などと考えることもあった。だが、そう考えて心理的に弱い自分をプロテクトしているのかもしれないが、それ以外のメリットは何もない。むしろデメリットが大きい。これから変わるというチャンスを排除してしまい、ポジティブな態度をとりにくくしているからだ。

・劣等感と劣等コンプレックス
劣等感という言葉を最初に使ったのがアドラーとのこと。劣等感を持つこと自体は当たり前のことであると書かれている。人間は無力な状態で生まれ、その無力さから脱したいという普遍的な欲求を持っているから。劣等感をエネルギーに変えて努力をできるのであれば、むしろ劣等感を持つことは素晴らしいこと。ただし、その劣等感を何かを達成できない言い訳に使いだしたら非常によくない。これを作中では劣等コンプレックスと呼んでいる。
忘れてはいけないのが、そもそも劣等感というは主観的な劣後性であるということ。つまり、絶対的な優劣を示していない。例えば、低身長の男性がいる。身長が低いというのは単なる数値であり、それ自体は良いも悪いもなく単なる事実に過ぎない。それを何となく多くの人が高身長の方がかっこいいと思っているからという理由で劣等感を持っている。そしてそれが劣等コンプレックスに変わる。低身長を生かす方法だってたくさんあるわけで、それを忘れてはいけない。

・優越コンプレックス
あまり聞きなれない言葉だったが、説明を読むと日常に溢れているものであると分かった。優越コンプレックスとは、強い劣等感に苛まれながらも自分を変える努力をする勇気もなく、ありのままの自分を受け入れることもできずあたかも自分が優れている人間であるように見せかけたいときに使う心理のこと。これを読んで、SNSで長ったらしく自分の略歴を書いている人などが思い浮かんだ。つまり、彼らはどうにもできない劣等感の発露としてその行動に出ているので無視するか軽蔑するのが正しい反応の仕方ということだと理解した。自分もいわゆる”いい会社”に入ったことで、その権威を利用して自分を無理に大きく見せようとすることがないように気を付けようと思う。

・人生は他者との競争ではない
健全な劣等感は他者との比較ではなく、「理想の自分」との比較から生まれると作中では書かれている。これも非常に強く共感した。自分がこの感覚を得たのは24歳の時にベトナムに行ってからだった。自分のその時までの友人たちとは明らかに異なる世界に身を投じて、やっと人との無意味な競争感覚から解放された。オリジナルなライフスタイルについて、しがらみなく考えることができるようになった。勝ち負けの感覚でいる限り、人の不幸を喜び、人の幸福を祝えない心理になる。この勝ち負けの感覚から解放されるには人生のどこかで人と違う行動をとる必要があると思う。いわゆる”いい人生”を強要される環境下でこの感覚を身に着けることは非常に難しいと感じる。

・他者の期待など、満たす必要はない
誰しも周囲から何かしらの期待をされて生きている。最たるものは親子関係だと思う。親は少なからず子供にこう生きてほしいという願望がある。友人関係や恋人関係もそうだ。ただし、そんなものを満たす必要なんてどこにもない、と書かれている。むしろ周囲からの期待に敏感すぎると周囲の期待ばかり気にして、自分の内なる声に耳を傾けられない人間になる。
周囲の期待と大きく違うことをするとき、最初は少し怖いし面倒だと思う。ただ、それを強引にでもやり続けることが大事だと思っている。繰り返しそういう行動をしていけば、周りからも「この人はこういう人なんだ」と認識をされるようになる。例えば、目上の人にはっきりとした物言いをするのは難しいし、最初は角が立つかもしれない。ただし、言い続ければ「こいつははっきりとモノを言ってくるやつなんだ」と認識をされる。それで距離をとられれば、最初から自分の性質とあってなかったということになる。それでいいのだと思う。仮に猫をかぶってYesマンに成り下がっていると、苦しい人間関係をずっと続けることになる。周囲の期待に無理に満たさないことは人間関係の最適化にもなると思う。

・課題の分離
他者とのかかわりにおいて、非常に自分の考え方に近いものだった。「馬を水辺に連れていくことはできるが、水を呑ませることはできない」ということわざがあるそうだが、本当にその通り。自分にどうしようもないことがあることを認めずに無理くり人を変えようとするからおかしいことになる。もちろん無理やり人を変えようとしたところで変わらない。それどころか相互に憎しみ合うような非生産的な関係になる。その状況下で自分がなにをできるのか、という点にフォーカスして考える必要がある。

・より大きな共同体の声を聴け
共同体の感覚を持つことが大切だと書かれている。それはどういう意味か。人間には共同体に属して、他社に貢献している状態が大事だとしている。そして、目の前の共同体にとらわれることなく、より大きな共同体が存在しているという感覚を持つことが大切としている。何かしらの理由があって、ある共同体から退場したとたんに生きる意味をなくしてしまう人がいる。会社をクビになることがその典型だ。ただ、会社はこの世にたくさんあるし、そもそも会社に属していなくても他の共同体がある。そのことに気付けるかどうかが幸せに生きる上では大事。日本人は村社会的なところがあるので、この感覚に陥りやすいのだと思う。

・横の関係
他者と横の関係を築くことによって、互いに他者貢献の感覚ができる、とのこと。子供を褒めて育てるか、叱って育てるか、という議論がよくあるがアドラー心理学的には褒めてもダメ、叱ってもダメ、だそう。褒めるという行為には能力のあるものがない人に評価を下すという側面が内包されている。つまり、褒めた途端に縦の関係が生まれてしまう。(叱った場合も同じ)親と子供という役割が違うけど、存在としては対等という立場をとることでお互いに他者貢献の感覚を持たせることができる。
では放置するのかというと、それは違う。勇気づけというアプローチがある。それは馬を水辺まで連れていくという行為。介助ではなく、援助。価値があると伝える→共同体にとって有益だという感覚を持たせる、というアプローチが必要。これは上司と部下の関係も同じだし、友人関係でもそうだと思う。
現職の人はこの横の感覚を持っている人は多いと感じる。人間としては対等。役割と能力は違うけど、対等。だからこそ横暴な態度をとらないで人と接することができる。こういう人は非常に魅力的に感じる。

・自己受容、他者信頼、他者貢献
これはこれまでのまとめ。
まず自分を受容する。これはできない部分も含めて受け入れて、改善をする勇気を持つこと。あるいは改善をしない勇気でもいいと思う。
そして他者を信頼すること。他者を無条件で信頼すること。懐疑を前提とした関係はいい方向に進まない。
そして、他者貢献。これは自己犠牲とイコールではない。他者が私に何をしてくれるではなく、自分が他者に何をできるか考えること。
これができてこそ、共同体の感覚を持つことができ幸せにつながるのだ、と。

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