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15 目連の物語/葬式仏教の世界観②

 このお盆であるが、仏教的には、盂蘭盆経というお経がもとになって始められたと考えられている。そこで語られているのは、お釈迦さまの弟子である目連を主人公とした物語である。


 目連は、神通第一と呼ばれていて、弟子の中でも、神通力に優れているお坊さんである。

 ある時、目連は、亡くなった母親のことを思い出し、今どこにいるのか、安らかに過ごせているのかと気になり始めた。そこで得意の神通力で母親がどこにいるのかを探し始める。すると、飢えと喉の渇きで苦しむ餓鬼道(地獄のような場所)にいることがわかったのである。

 目連は驚き、母親を何とか救おうと餓鬼道に向かう。ようやく母親のもとについてご飯を渡そうとすると、ご飯は火に焼かれて炭になってしまう。何度も繰り返したが、どうしても母親に食べてもらうことはできなかった。

 悩んだ末に目連は、お釈迦さまに相談をする。するとお釈迦さまは、こう答えるのである。

「あなた一人のちからではどうにもならない。この世界で修行しているすべての僧侶らの力が必要であろう。七月十五日になれば、夏の修行期間が終わるから、その時に僧侶にお供えをして、お母さまが救われるよう祈りなさい」

 目連はお釈迦さまの言う通り、七月十五日に僧侶らにお供えをし、母親が救われるよう供養を行う。お供えを受けた僧侶らは、目連の母親の幸せを祈り始める。

 この祈りはすぐに母親のところに届き、たちどころに餓鬼の苦しみから救われたというのである。

 目連はさらにお釈迦さまに質問をする。「これと同じようにしたら、他の先祖も救うことができるでしょうか」と。

 お釈迦さまは、「そのとおりだ、今後も供養を続けなさい」と答えたというのである。


 盂蘭盆経にはこのような物語が記されている。そしてこの物語がお盆の始まりだとされている。お盆法要などで菩提寺の住職が話すのを聞いたことがある人も多いではないだろうか。

 ところがお盆を過ごす人々の中で、この物語を意識している人はほとんどいない。それはお盆という行事が本質的に、餓鬼道に墜ちた先祖を救う行事ではなく、やさしい先祖を迎え、先祖と交流する行事であるからだ。

 目連の物語を知らなくても、人は、親や先祖を供養したいという、自然に湧き出してくる思いでお盆の供養を行う。お盆は、懐かしい家族が帰ってきて、いっしょに過ごす行事なのである。確実に言えるのは、目連の物語よりも、〈お盆になったら亡くなった家族が帰ってくる〉という物語のほうが、説得力があるということだ。(続く)

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