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13 葬式仏教は堕落した仏教なのか?/葬式仏教という宗教④

ひろさちや氏の批判

 ここで、このような「なんとなくの仏教徒」に支えられた仏教は本当に仏教と言えるのだろうか、教えをあまり説かず、先祖供養に支えられた葬式仏教はほんとうに仏教と言えるのだろうかという疑問が出てくる。

 前述の通り、「日本の仏教は葬式仏教で、堕落した仏教に過ぎず、本来の仏教ではない」という考え方をする人は少なくない。むしろ、仏教に詳しい人ほど、こうした考え方を持ちやすい。釈迦の仏教、あるいは日本の祖師方の仏教を知れば知るほど、現代日本の仏教と、大きな隔たりがあると気づかされるからだ。
 例えば、仏教評論家のひろさちや氏は、次のように語っている。

仏教の習俗化の最たるものは葬式仏教である。すでに何度も繰り返したが、葬式なんてものは習俗である。この世の慣習だ。仏教が葬式をやるからといって、仏教が盛んになったわけではない。むしろ仏教の堕落だ。
(『仏教の歴史10 来世と現世の願い』)

 手厳しい仏教批判である。ひろ氏は、自らを仏教原理主義者と呼ぶくらい、仏教の根本というものを大切にする人である。また、仏教研究者でありながら、特定の宗派との結びつきが無いので、遠慮が無く、批判の歯切れがいい。
 そのひろ氏が言いたいのが、現代の仏教は堕落しているということである。

本来の仏教とは何を指すのか?

 じゃあ、現代の仏教が〈堕落した仏教〉であり、〈本来の仏教〉でないとするならば、〈本来の仏教〉とは何を指すのだろうか。

 実はこれが、案外難しい。

 江戸時代の学者に富永仲基という人がいる。この富永仲基は合理的な考え方をする人で、仏教を研究した結果、大乗非仏説ということを唱えるようになる。

 大乗は大乗仏教のこと、それが、仏説でない、つまり釈迦の唱えた教えじゃないということを言い出したのだ。

 釈迦は八十年の生涯の間、弟子達に教えを説き続けてきたが、著作を残すことはしなかった。現在伝えられている釈迦の教えは、弟子達が記憶していたものを釈迦の死後に編纂したものである。こうして編纂した言葉は教典となり、その後の仏教における教えの柱となっていった。

 ところが仏教は、時代時代で変化していて、釈迦の死後五百年くらいたってから、大乗仏教という運動が発生する。

 それ以前の原始仏教は、僧侶中心の仏教であり、修行と戒律の厳しい宗教であった。それゆえ、誰でも救われるというわけではなく、きちんと戒律を守り、修行を続けた者しか悟りに至ることができないのである。

 ところがこれに異を唱える者たちが出てくる。僧侶でなくても、誰でもが救われることができるということを唱える者が出て来たのである。これが大乗仏教の始まりである。教えも、それまでの釈迦の直接の言葉による、生活を通しての教えから、壮大な世界観や哲学的な教えを説くようになり、法華経や般若経など、たくさんの教典が生まれていく。

 こうした大乗仏教がインドに起こり、中国やチベットに伝わっていく。中国では、こうした大乗仏典が中国語に翻訳され、この漢訳仏典が日本の仏教の基礎になっている。

大乗非仏説 日本の仏教は釈迦の説いた教えじゃない?


 富永仲基よると、こうして日本に伝わった大乗仏教は、釈迦の説いた教えじゃないということなのだ。釈迦の教えをもとに、後世の人が、いろいろな考えを付け加えていってできあがったのが大乗仏教だと主張したのである。

 明治以降、仏教研究に、西洋の文献学を基礎とした合理的な研究方法がもたらされると、仏教学は飛躍的に発展し、大乗仏教が釈迦の直接の言葉で無いということは、誰の目にも明らかになっていく。

 こうして考えると、仏教が日本に入ってきた時点で、既に釈迦の教えでなくなっている、という考えも出てくる。つまり日本の仏教は、そもそも釈迦の教えではないと。

 〈本来の仏教〉を釈迦の仏教とした場合、日本の仏教は初めから〈本来の仏教〉じゃなかったということになってしまう。日本の祖師方、最澄や空海、法然、親鸞、道元、日蓮らが説いた仏教ですら、〈本来の仏教〉じゃないということになってしまうのだ。

釈迦は葬式をするなと言った


 葬式仏教を批判する人が、必ずと言っても良いほど、引用する教典の言葉がある。大般涅槃経という教典の中の一節である。大般涅槃経は、釈迦が死ぬ直前に行った旅と、その旅を通して説いた教えについて述べているお経である。

 その旅の途中、キノコを食べて具合の悪くなった釈迦に、弟子のアーナンダが、悲しみながら、こう問いかける。

「先生が亡くなったら、われわれはどうしたら、いいんでしょうか?」

 釈迦がもう亡くなるという状況で、弟子のアーナンダは、どうしていいかわからなくなって、釈迦の死後に自分達が何をすべきかを聞いたのである。

「アーナンダよ。お前たちは、私の遺骨の供養にかかずらうな。そのようなことより、正しい目的のために努力しなさい。正しい目的を実行しなさい。正しい目的に向かって怠らず、勤め、専念しなさい」

 つまり釈迦は、弟子たちに、自分の葬式をするなと指示しているのだ。

 そもそも釈迦はその長い人生の中で、葬式については、ほとんど語っていない。おそらく、釈迦にとって、葬式というものはさして興味のある対象では無かったのであろう。自らの死が近づいてきた段階で、弟子に聞かれて初めてこの話題に触れたくらいである。

 ただ、釈迦の言葉の中では、数少ない葬式に関する言葉である。その言葉が、葬式に対して否定的なのである。

 ここから「お釈迦さまは葬式をするなと言っている。だから仏教は、葬式をすべきでない」という発言が出てくるのも当然であろう。現代の仏教は葬式仏教であり、もともとの仏教とは違うものだという主張は、ごく当たり前の意見であるのだ。

 ただ少なくとも私は、これらの事柄をもって、「葬式仏教は堕落した仏教だ」という意見に同意できない。

 過去の文献をもとに、もともとの仏教と違うと言うのは簡単である。

 しかし、もともとの仏教と違うのは、いけないことなのだろうか? 先に述べたように、日本の仏教はスタートの時点で、もともとの仏教とは違っている。最澄や空海、法然、親鸞、道元、日蓮らが説いた仏教も、もともとの仏教とは異なっている。

 そしてそうした祖師方が、もともとの仏教とは異なる仏教を説いたのは、理由があるのである。

 日本の仏教が葬式仏教になったのにも、理由があるはずである。そこを見ずして、批判することは間違っていると思う。

 それでは、もともとの仏教とは異なる葬式仏教とはどのようなものなのだろうか。そしてなぜ日本の仏教は、葬式仏教になったのだろうか。次回以降は、この葬式仏教という宗教の世界観について考えてみたい。(続く)


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