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11 葬式仏教は本来の仏教じゃない?/葬式仏教という宗教②

 言うまでも無いが、仏教は、紀元前五世紀頃にインドで生まれたお釈迦さまが、人生をよりよく生きるための教えを説いたことに始まり、アジア全域に広がっていった世界宗教である。

 ところが現代日本の仏教は、このお釈迦さまが説いた時代の仏教とは、かなり様相が異なっている。その最大の特徴は、人が生きるための活動より、葬儀など人の死に関わる活動に大きな比重があることである。そうした現状を象徴する言葉がある。それが「葬式仏教」である。

 葬式仏教という言葉には、仏教を揶揄するようなニュアンスが含まれている。それは、「本来仏教がするべき、生きるための教えを説くことをしないで、葬式ばかりやっている」ということである。葬式仏教という言葉は、いい意味で使われることはほとんど無い。人によっては、「葬式仏教は本来の仏教じゃない」という人もいるくらいである。

 確かに、本来の仏教というものが、お釈迦さまの仏教、あるいは日本の祖師方、空海、最澄、法然、親鸞、道元、日蓮の仏教であるとすると、現代の仏教の実態は「本来の仏教じゃない」と言われても仕方が無い。

 しかし現実として、日本人の多くが馴染んでいるのは葬式仏教である。現実の仏教が葬式仏教ならば、それを知ること無しに日本の仏教を理解することはできないはずである。

 「葬式仏教は堕落した仏教に過ぎない」と考える人もいるだろう。そもそも「葬式仏教など語るに値しない」と考える人もいるだろう。それでも日本の仏教が葬式仏教であるのは現実である。

 前回書いた、ある一周忌のエピソードも、よくある話である。多くの人が、これと似たり寄ったりの体験をしているはずだ。

 法事の施主をつとめることになったが、供養に関わることをほとんど何も知らない状態である。仏教のことはもちろん、法事の意味もわからないし、焼香の仕方などのしきたりもわからなかった。ただ法事をすることに関しては、何の疑問も持っていない。

 でも、法事が始まって手を合わせていると、「ああ、あの世でも幸せでいてくれよ」「ああ、母さんは、仏さまのところに行ったんだな」という感情が涌いてくる。

 もちろん浄土というような明確なイメージは無い。仏さまと言ったって、それが阿弥陀さまなのかお釈迦さまかなのかは知らないし、そもそもそんなこと考えたこともない。それでも「あの世」「仏さまのところ」といった感覚はある。そして、手を合わせると、自然にそうした考えが浮かんでくるのである。

 住職の法話を聞いても、母親の思い出話は心に響いてくるが、ありがたい教えの話については記憶すら無くしている。

 これがまさしく典型的な日本人なのである。仏教徒という自覚は無いが、自然と仏教徒としての行動をとっている「なんとなくの仏教徒」だ。(続く)


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