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23 室町時代、なぜお寺が爆発的に増えたのか?/日本の仏教が葬式仏教になった理由④

 室町時代、仏教が爆発的にひろまったことを前述したが、その一方でこの時代は、日本仏教史の中では、めぼしいトピックがほとんど無い時代である。

 鎌倉時代のように、その後の仏教に大きな影響を与えるような指導者も出ていないし、取り立て大きな事件も無い。

 前述の日本史の教科書『日本史B』を見ると、室町時代で触れられているのは、北山文化・東山文化と新仏教の発展の項目のみである。

 北山文化・東山文化というのは、金閣寺や銀閣寺に象徴される、禅宗を中心とした仏教文化が興隆したということである。

 そして新仏教の発展の項目を見ると、その記述のほとんどは一向一揆や法華一揆などに費やされているが、注目すべき記述がほんの少しある。

鎌倉仏教の各宗派は、武士・農民・商工業者などの信仰を得て、都市や農村に広まっていった。

ということである。

 仏教が都市や農村に広まっていったということがわかるが、たった二行だけの説明であり、その原因や背景などが一切書かれていない。

 繰り返しになるが、現在日本にある七万五千のお寺のうち、八〜九割が室町時代後期から江戸時代初期の約一五〇年間の間に建立されている。全国津々浦々の村々にお寺が出来たということである。この時代以上に仏教が広まった時代は無いのである。

 いったい、この時代、何が起きたのであろうか? なぜそれほどまでに、仏教が広まっていったのであろうか?

 その理由のひとつは、この時代に、惣村が生まれたということである。

 惣村とは、農民たちが自らつくり出した自立的・自治的な村のこという。もちろん村というのはそれ以前からあった。ただ、荘園領主などに支配されるだけで、農民みずからが集まって何かを決めていくという体制があったわけではない。

 それがこの時代、荘園領主の力が弱ってきたこともあり、農民みずからが集まって、寄合という会議を行い、みなで物事を決め、それを共同で行うようになっていく。農業の共同作業を柱に、戦乱に対する自衛や、村人の祭祀も、皆で行うようになっていく。こうした中で、村に神社とお寺が必要になってきたのである。

 背景には、村が生まれることで、大きな経済単位が生まれたこともある。

 それ以前は、ほとんどのお寺は、経済力のある個人、貴族や地方の有力者によって建立されていた。そのくらいの経済力が無いと、お寺を建立することはできない。

 しかし個人では無理でも、村でなら建立することが可能である。惣村が生まれることによって、その経済力を背景に、お寺を建立できるようになったのである。

 しかし、これだけでは、お寺が一気に増えた説明にはならないだろう。

 問題は、なぜ、惣村がお寺を必要としたのかということだ。

 人々が仏教の教えの素晴らしさを理解するようになり、その信仰を育むために、お寺が必要になったということであろうか。

 しかし、ちょっと考えれば、そんなことがあり得ないことに気づくはずだ。

 何しろ仏教の教えは、奥が深い。しかも難解である。確かに鎌倉仏教が説くような「南無阿弥陀仏と唱えれば救われるよ」「南無妙法蓮華経と唱えることでいいんだよ」という教えは解りやすい。しかしそこから一歩進むと、とても複雑で難解な世界が広がっている。

 当時の庶民がそのような難解な教えを理解したとはとうてい思えない。当時に比べ教育レベルの高い現代ですら、ちゃんと教えを理解している人は少ない。教えの素晴らしさを求めて、全国の村々がお寺をつくった、ということは、どう考えてもありえないのだ。

 じゃあ何を求めてお寺を建立したのか。

 それは死者の供養である。この時代、仏教が積極的に葬儀をするようになったのである。

 意外に思う読者も多いかもしれないが、それまでの時代、仏教は基本的に葬儀を行うことは無かった。

 仏教式の葬儀が、日本で初めて行われたのは聖武天皇の葬儀だと言われている。しかしその後、仏教の葬儀が定着したわけではなく、むしろ仏教は、葬儀を行わない方向に進んでいく。

 仏教は国家仏教となり、僧侶は公式には国が管理する官僧しかいないという状況になっていく。いわば仏教のエリートである。国の管理を逃れて、勝手に得度するような僧侶もいたが、それは遁世僧あるいは私度僧と呼ばれ、取り締まりの対象となっていた。

 そして国に管理されている官僧は、清浄であることを求められ、死の穢れに接することが許されなかった。死体に触れるだけでなく、死体と同じ場所にいただけで死穢が移ったとされ、三十日間の謹慎をしなければならず、その間は法要に出ることが許されなかった。

 そのため僧侶が死にそうになると、死の穢れが寺の中に移るのを恐れて、寺の外に捨てられるということも珍しくなかった。位の高い僧侶でもない限り、葬儀をしてもらうことも無かったのである。

 一方、遁世僧と呼ばれるような僧侶は国の管理を離れているので、一部で葬儀を行っていたようであるが、それは僧侶の葬儀に限られていた。その理由は、正式に仏教徒になっていない人の葬儀をする作法が無かったのである。

 仏教では、戒(仏教徒として守るべき戒め)を授かって初めて正式な仏教徒になると考えられている。授ける戒の内容は宗派や段階によって異なるが、例えば代表的な五戒は、殺生(人殺し)をしない、偸盗(盗み)をしない、邪淫(不倫)をしない、妄語(嘘)をしない、飲酒をしないという五つの戒めである。そして戒を授かっていなければ仏教徒ではなく、葬儀をすることはできないと考えられていた。

 こうした状況が変化するのが、室町時代後半、応仁の乱以降の時代である。

 それまで細々と行われてきた仏教の葬儀に、ひとつ大きな変化が生まれる。

 それが没後作僧(もつごさそう)ということである。没後とは「死んだ後」、作僧とは「僧侶にする」ということである。つまり「死んだ後に僧侶にする」ということだ。

 仏教は、戒を授かっていない一般の人、仏教徒で無い人の葬儀をすることはできない。それならば仏教徒じゃない人が死んだ場合、死んでから戒を与え(戒名を与え)、あの世に行く前に仏教徒になってもらい、その上で葬儀をあげよう、ということだ。

 戒を授かるのは、本来、生きているうちでないと意味が無い。死んでからでは、戒を授かっても、それを守ることができないからである。

 ただ、戒を授けることで正式な仏教徒にすることができれば、その人の葬儀をあげることができる。こうすれば、これまで葬儀をしてあげることのできなかった人にも、葬儀をしてあげることができるのだ。

 そして応仁の乱以降、日本は戦乱の時代に進んでいく。応仁の乱は、十年程で終わるが、京都が壊滅的な状況になるほど、荒廃したと言われている。その後、戦国時代が始まり、日本中が戦乱の不安の中に巻き込まれていく。

 男はかり出されて、死と隣り合わせで戦いに身を置くことになる。残された者たちも、いつ敵が攻めてくるかわからない状況にある。さらにこの時期は、飢饉が多く、飢えによる死者も少なくなかった。

 こうして、誰もが死と隣り合わせに生きていた社会状況の中、僧侶らは、位の高い人だけでなく庶民の葬儀をするようになっていったのである。

 特に一般庶民の葬儀を積極的に行ったのは、鎌倉新仏教にルーツを持つ僧侶らであった。そしてその多くは遁世僧である。

 鎌倉新仏教は、それ以前の、社会の平安を願う鎮護国家の仏教とは異なり、個人の救済を求める仏教である。一方、仏教の葬儀は、死者を無事浄土に送り、死者を救済するとともに、家族の死を悲しむ人々の心に救いを与えることが目的である。その意味で仏教の葬儀は、まさに個人の救済を目的とした宗教活動だった。

「自分は死んだらどうなるんだろう」
「死んだ家族は苦しんでいないだろうか」

 仏教が、そうした疑問に答え、安心を与えていく。当時の人々が求めていることに、仏教は応えてくれたのである。葬儀という儀礼や、浄土の物語を通して、人々を不安から救おうとしたのである。これを〈教義的信仰/儀礼的信仰〉という枠組みで考えると、まさに〈儀礼的信仰〉であろう。葬儀という儀礼を通して、人を救いに導いたのだ。

 そして日本中の村々では、死の不安から解放してくれる仏教を、村の信仰の柱にしようとするようになる。自分達の家族を弔ってもらうため、村々でお寺をつくるようになり、そこに僧侶を迎えることになる。

 こうして、仏教が真の意味で民衆化し、日本の津々浦々にお寺が建立されていく。日本人が、仏教徒になったのは、仏教が葬式仏教になったからなのである。

 そしてこの時代の仏教は、遁世僧と惣村の村人達が主役である。つまり第二の担い手の一般僧侶と第三の担い手である一般信者が主役で、第一の担い手である仏教のエリートは、めだった活躍をしていない。日本史の教科書や仏教史の解説書に、この時代の話がほとんど出てこないのは、ここに理由があるのだ。(続く)

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