生活保護デモ、集会で感じた「食への執着」に対する疑問
100人のデモはニュースの価値があるのか
今回は生活保護、集会やデモで個人的に感じた「食への執着」というテーマですが、その前にメディアに一言。
昨今、数十人単位のデモ、街宣でも朝日、毎日、TBSといった大手が報じることがあります。寄り添い取材というものでしょうが、主催者や参加者がSNSやライブ中継でレポートするものをメディアが報じる価値がどの程度あるのでしょうか。
いわゆる「寄り添い取材」というものですが、こういう情報を求める読者はどの程度いるのか。活動家肌の記者に引っ張られてのことでしょうけど、紙面の質の向上にはならないと思いますよ。何の取材スキルにもならないから。
たまにはうなぎを食いたいぞがバズる
朝日新聞が19日、京都で生存権を求めるデモ「たまにはウナギも食べたいぞ」と題した記事を配信しました。これが炎上気味というのか話題です。
ひろゆきさんがⅩに投稿したことも大きかったでしょう。
なんというか生活保護の受給者に対して反発しか生まない罪な記事だなあ、という感想以外ありません。
それで気になったのは「たまにはウナギも食べたいぞ」というシュプレヒコールを見出しに持ってきたことです。トピックスになるワードだから記者が選んだのでしょう。Ⅹではうなぎをモチーフにした大喜利が散見されました。ネタ提供の範囲を出ない記事です。
もちろん食以外の訴えもあったのでしょう。しかし過去、生活保護に関する集会で「食への異様な執着」を感じました。何か釈然としない、違和感を覚えたものです。
先のデモでも「うなぎ」というキーワードが出たのは印象的。いろいろと去来するものがありました。
生活保護の集会模様
2009年前後でしたが、生活保護の母子加算問題に関する集会が永田町の議員会館などで開催されていました。おおかた共産党やサポートもやいといったNGOを主催していたものです。
生活保護受給者のリレートークという形式で進み、それに対して議員、活動家、専門家がコメントをつけるという流れでしたね。とても大柄な人、精神的にも不健康そうな面々でした。
会が始まると
「報道陣の方は当事者の写真撮影は控えてください」
といったアナウンスがあります。
そしてスピーチが開始。生活保護は誰もがお世話になる可能性があります。なので困窮者に対しては速やかに受給ができるよう制度設計すべきだとは思います。しかし当事者の訴えを聞いてどうも釈然としませんでした。
「子供の誕生日会でお誕生ケーキ(ホールケーキ)が用意できなかった」
「病院に行った帰りに子供とラーメンを食べるのが楽しみだったがそれもできなくなる」
「カレーにお肉が入れられない」
あるいは「他の子と違ってうちはニンテンドーDSを買ってあげられない」といったものもありました。
もちろんそれ以外にもあるんですが、訴えの多くが「食」なんです。生活の価値観が「食」に集中しています。
当然、食は人間の基本だし、特に育ち盛りの子にとっては大切ですよね。食料不足で飢餓状態というならば深刻です。しかしホールケーキが用意できない、といった嘆きは果たして「困窮」と言えるレベルなのか。
そもそも本来、高齢者はともかくとして生活保護を受けつつ、自立を目指すというのが制度の理念ではないでしょうか。
ところが訴える「窮状」が私のイメージと異なりました。
例えば子供の教育費用が足りない、塾に行かせたい、職探しで困っている、職業訓練のプログラムが十分ではない、あるいは生活保護受給者ということでこんな不利益を受けた、とか。
生活保護を受給するというのはご本人にとって不本意ではないのでしょうか。自立のために立ち向かうといった意思はなくて現状のまま細々と「最低限度」の生活をしていきたいのか。
「働かない」「挑まない」という人生の選択肢もあるとは思います。ただそれが本当の幸福なのかどうかは分かりません。
文化に触れてみては
私が見た生活保護集会も受給者の一部だとは思います。あくまで一側面でしょう。ただ各種の集会やデモで感じた私の違和感。それは「国民の生存権」の条文にあるかもしれません。
「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」
生活保護集会に参加する受給者の方は健康もそうですが、文化的を感じさせないのです。「働かない」「挑まない」ならばそんな人生もヨシ。でも読書、映画鑑賞、音楽鑑賞、スポーツ、生涯学習、なんでもいいです。文化なんて日常生活に溢れています。まずはそんなところから小さな喜び、発見を見つけた方が文化、健康を得られるかもしれませんよ。
少なくともデモで「うなぎ」と呼びかけたところで「喜び」や「幸福」はもたらされないでしょうね。それにしても罪深い記事でした。
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